旧資料備忘摘録 2020-10-2 Up

▼防研史料 『工兵操典』※おそらくM24頃か。
 圓匙[マルサシ] 鋼鉄製の円形匙に木製の柄を附したるもの。
 携帯用は長さ1m。駄載および作業器具は、長さ1.2m。

 十字鍬[ジウジシウ] 鋼鉄製の尖形鍬に木製の柄を附したるもの。
 全長0.8m。
 鐵部の長さは、携帯器具にありては0.4m、駄載および作業器具にありては0.43m。
 常に圓匙と併用し、土の掘起、樹根の除去等に使用す。

 ※ごく初期には「えんぴ」とは言わず「まるさじ」と言わせていた。逆に十字ぐわ は 十字しゅう と読ませていたことが分かる。

 平鋤[ヒラスキ]。1.3m。斜面の削設、糾草の截取に使用。
 土搗[ツチツキ]。1.3m。木杵にして積土を搗固する。

 ※漢文まじりの日本語が必要もなく難渋になるのが明治20年代以降。頭のキャパが足りぬ凡人までが欧文を習わされた結果、和文の修養が追いつかなくなってしまったわけ。政治家だと、桂太郎の日本語草稿が代表的だ。これでは二等卒にも人夫にもさっぱり通ずるまい。この延長線上に今日なお未熟・不親切きわまる「マニュアル日本語」文化が位置している。

 地鑿[ヂノミ]。1.08m。
 木製円桿の上端に銕箍を嵌め、下端に鋼銕の【金尊】を施す。上部に1孔を穿ち、これに木製の轉把を挿入す。硬地に植杭を容易ならしむる。

 斜面敲[シヤメンタタキ]。長さ0.33m。巾0.16mの長方形平板に木柄を附け、全長1.3m。

 大槌[オホヅチ]。
 一米突尺[イチメイトルシヤク]。1.00mの木尺。珊知米突の分度を刻す。

 綿布製巻尺。
  革製の円形室内に収容。1.00m。片面はセンチ分度。他の面には曲尺分度。

 經始縄[ケイシナハ]。
  50.00mの麻糸を木製の縄巻に纏繞した。

 準標[ジユンヘウ]。
  高さ1.00mの木桿の上に木製覘板。

 曲尺[サシガネ]。
 墨斗[スミツボ]。
 鐵鎚[カナツチ]。
 才槌[サイツチ]。
 山鋸[ヤマノコ]。

 約縄[ヤクジヨウ]と約棍[シメボウ]。
  92センチの縄。

 鐵線鋏[テツセンバサミ]。
 畚[モツコ]。

 獨輪輦車[ドクリンレンシヤ]。
  一箇の車輪を有する木製の車にして、土の運搬に使用す。※なぜイチリンシャとかネコ車と呼ばせないのかと、福沢諭吉ならば意見するであろう。

 爆薬の装填には、銅鎚[ドウツチ]や銅鑿[ドウノミ]などを用いる。

 提架……編組で両臂柄を附して物料を運搬。※これは、もっこ である。

 手違鎹[テチガヒカスガヒ]。

 工場[こうば]……十字鍬×1、プラス、円匙×2の長さを、1人に割り当てる。※「ちょうば」のことだね。

 鐵條網。
  太線(中径3~4ミリ)、細線(2~3ミリ)。杭の最上部と最下部には太線を張る。それ以外のところは細線でふさぐ。

 黒色火薬または綿火薬(黒色の五分の二でよいと)の地雷、各種が考えられていた。すべて、現地でこしらえることになっていた。
 ピロン地雷 という除土擲石地雷あり。※数値がkgなので仏製ではないか。

 狼穽……その穽底に長尖杭を植立することあり。網條、板等をもって援覆す。

▼防研史料 『最新工兵須知』S18-2〔60版〕、原S11-9
 円匙[ゑんぴ]〔まるさじ のルビもあり〕および 十字鍬[しう]〔鶴嘴とも併記。尖部と刃部あり〕。
  ※どうやら、刃部のない十字鍬が「つるはし」であるようだ。十字鍬は、一端はピッケルになっているが、他端が平箆状。ツルハシは、両端ともにピッケルなのである。

▼防研史料 『工兵全書』S14〔6版〕
 拳銃は26年式らしい。
 弾巣を半ば開き 左手の拇指の頭を以て 遊板[イウハン]を強く圧して 排筒桿を下ろし 全く弾巣を開き 右手を以て弾薬を抽き出し……。

 「丁字的」という、射撃訓練に使う、敵兵の肩から上のシルエットになっている標的があった。前から衝撃されても後方へ倒れぬように、裏側に三角の長い板を伸ばし、シルエット板の中心線の杭と、三角板の端の杭の2点で地面に刺して固定した。真上から見れば「T」の字。

 11年式軽機関銃用に、不凍油がある。極寒時はそれを混ぜた。
 96LMGは、弾倉内の油を拭き取った。

 11年式LMGで握革を握って腰ダメ射撃するときは、ガス漏孔を塞がざる如く注意。

 24榴~28榴は、コンクリートに対しては、0.3mから0.8m侵徹。
 鉄筋コンクリートに対しては、0.3mから0.4m侵徹。
 鉄板に対するデータは無し。

 震盪半径というものあり。24~28榴は、半径2.0mから3.0mの土を毀壊し、2.5mから3.5mの土を震盪する。

 「網條」とは、まさに「しがらみ」のことである。
 このしがらみをサークルにして筒状に植立したものが「堡籃」。

▼防研史料 『最新工兵学科問答』
 ※発行年次は不明なれども38式歩兵銃以降の話で、かわりばえのせぬ操典暗記用ドリル。

 6.5ミリ弾は、600mまで約1秒で届く。また約3秒で1200m到達。
 中距離以上で、15度から30度の仰角もしくは俯角がある射撃を小銃でするときには、照尺は、実距離よりも100m短くしなければならない。

 教育では、次のように教えられていた。
 38式歩兵銃は、銃口の先25mの存速が747m/秒。最大射距離は4000m。
 44式騎銃は、25m先で693m/秒。最大射距離は38式歩兵銃と等しい。
 11年式軽機は、25m先で721m/秒。間断なき連射は、約300発を限度とす。

▼防研史料  第一艦隊『陸奥新聞』S5
 ガリ版で、文字ビッシリである。

 創刊号。S5-2-4(火)。
 載炭作業には人力クレーンのようなものを利用。ダビッドを使う。
 S4-4にサンフランシスコでBB『メリーランド』を見学した士官の土産話。
 罐室と機械室は『陸奥』よりも油汚れがなかった。ただし釣床格納、衣服箱は、不整頓だった。

 S5-8-1(金)号。
 雑件。大坂砲兵工廠の美山技手は、廻転中の飛行機のプロペラが小石のために脆くも破壊されることに「ヒント」を得て、風船を多数の高射砲で打ち上げてプロペラを破壊し、敵の飛行機を生け捕る珍法を発明したと。

 S5-8-20号。
 省線の大井駅と池上駅に、乗合自動車が開通した。人力車夫とその家族900人の死活問題になっている。

 10月29日の第215号で休刊。

▼防研史料  〔ハコまる3/艦艇の110〕 軍艦長門『砲術要誌』
 一番砲塔 四十五口径 三年式 四十糎砲。日本製鋼所 No.132。大13-4-20製造。装備化は、大14-6-4。
 俯角は方向により違いあり。マイナス2度からマイナス5度。
 仰角は30度。
 旋回は右舷へ120度まで。左舷へ120度まで。

 弾火薬庫は、弾庫に280発。火薬庫に260発。供給速度は3発〔毎分?〕。

 96式25ミリ機銃。横須賀海軍工廠 No.95。
 No.96は、S12-10の製造。

 四十五口径 三年式 四十糎砲。
 一番砲塔右砲。呉海軍工廠No.41。大12-2-24に砲身製造。装備はS16-5-20。旋回は左右に150度づつ。俯仰は、マイナス3度からプラス43度。

 一番砲塔左砲。呉 No.50。大14-2-3製。装備はS16-5-20。
 二番砲塔右砲。呉 No.52。大14-3-4製。
 二番 左 呉 No.53 、大14-3-4製。

 三番砲塔 旋回は左右舷とも20度から180度。
  右 日本製鋼所製 No.4 、大10-12-4製。
  左 日本製鋼所製 No.3 、大10-11-25製。

 四番砲塔 旋回は左右舷とも30度から180度。
  右 日本製鋼所製 No.6 、大11-2-28製。
  左 呉 No.29 、大10-9-14製。

 HA MGの指揮は「右へ寄せ10」とか「下へ寄せ10」などと下令した。

 散布界について。
 本艦の40糎砲は、砲齢がいちじるしくバラバラであるため、散布界が大である。これを縮少しようと鋭意研究している。今回、内四門については、初速差の修正を実施した。だが、良好ならざる成績であった。

 S15-3に、初照尺251で弱装(薬種102DC1)。砲齢135。遠近-450。右のRは110m。左のRは4.3(密位)
 ※ワケワカラン。

 主砲戦闘訓練射撃 S17-12-8。
 距離 29950。
 初弾 近弾 555m、右56.2m 逸れた。
 平均装填秒時 27.2秒。
 2射して、命中ゼロ。

 S18-7-8に伊予灘で32発を射つ。
 距離 21380m。
 命中率 10.6パーセント。
 初弾 近75m 右7m。

 S17-4-7。一式徹甲弾四型、炸薬共157個。一三式五号信管帽付140個を 呉需より受入。
 S17-4-13。91式徹甲弾×60小を呉需へ還納手続了。
 S17-6-25。91式徹甲弾(丸半印)×360個 還納。

 S17-10の記録で、25粍MG弾には「着発信管一型」を使用。
 また7粍7機銃には、普通弾薬包、曳跟弾薬包、徹甲弾薬包、の3種あり。
 拳銃は「陸式拳銃」。

 S18-7-26に96式MG二型を8梃、受入。
 S18-7-27に、93式13粍MG一型改一を2梃、受入。92式7粍7MGを2梃、受入。

 S18-7-27受入。93式13粍の「普通弾薬包」1600個、「曳跟弾薬包」800個、「徹甲弾薬包」1600個。

 25mmMGには「【月唐】軸表示器」というものがあった。

 S19-6-20、マリヤナ諸島西方海面における戦闘により下記弾薬を消耗す。
 96式25ミリの通常弾薬包4886個、曳跟通常弾薬包1627個、着発信管一型6513個。

 S19-7-6に、96式二型×8梃を還納し、三連装に引き換えた。
 S19-8-28に、96式二型改三 ×42梃 受入。96式単装機銃C型×22梃、受入。

 機雷処分には、25mmと99式小銃を使った。

 S19-10-27、比島沖海戦では、40糎の一式徹甲弾×45発、零式通常弾57発、三式通常弾84発。

 S19-12-20に還納した96MG用の弾薬のなかに「焼夷通常弾薬包 信管付」480個あり。通常弾多数の中にごく少数だけまぜて使っていたのか?

 陸式拳銃とは一四式である(S20)。
 可燃物は、処理するか水線下に格納した。

 S19-4-28、二番砲塔と三番砲塔の上。25mm機銃「射旋鞍座」前方に防弾鈑を仮設。
 S19-5-8、25粍MG用に「銃側応急弾薬筐」を新製し、二番砲塔と三番砲塔の上の機銃甲板に装備。
  ※対空戦闘が始まってから、弾火薬庫からエレベーターで弾薬箱をもってきて、高いところにある銃座まで配給するなんて作業をやってられるわけがないから。

 この資料にはMGを置いた位置がすべて記載してある。転記は略す。

 S19-7-7、96式25粍MGの「打針」を改造した。

▼防研史料 教育総監部『輜重兵自動車教練規定』
 分隊の車数は2輛から6輛。
 自動車部隊の行動の主眼は、弾薬、糧秣、その他の軍需品を輸送すること。
 「状況」により、軍隊〔=兵員〕輸送もする。

 軍隊輸送をする場合には、遮蔽や欺騙に勉めること。
 輸送のパターンとして「直送」と「逓送」がある。
 戦闘間においては、歩兵に対しては小行李の要領〔で小銃弾を補給しろ〕。砲兵に対しては、直接に、放列あるいは段列に〔弾薬を〕交付しろ。

▼火野葦平『琉球舞姫』S29-8
 かつて、ビルマから台北経由で福岡の雁ノ巣まで帰ってきたとき、エンジン不調のため那覇に降りたことがあった。それはS19-9なかばのこと。その前にはS15-5にも沖縄に立ち寄っている。

 阿香の木は葉が広いのであひびきの場所。
 旅館は「兵站の方から強制命令」で「兵站旅館」つまり慰安所になっている。辻町中心(p.9)。

 辻は社交場なので、校長や同窓会が行ってもよい。
 土地風の巻髪を「カンブー」という。

 琉球以南では、ゐもりがちゅっちゅっと鳴く。
 雲上(うんじゅ・うんじょう)=あなた。
 ヤー =おまえ。

 日本から来たと言うと嫌われる。他府県から、と言うべし。
 ソーレー は、候へ。
 メン は、参り。

 エラブ鰻と称する海蛇料理。
 琉球歌は八八、八六で、戦中は即興で作る人がいた。 ※小唄のようなものか。
 廓ですら「苦界」のイメージはない。引かされて二号になることを望まない。

 近くの小島には、風葬を行う後生山あり。よって犬はいない。
 海ヘビは、夜、岩角にあかりを点じて、洞穴に入るのを掬う。
 婀娜な年増はいない。若い女は一挙に皺くちゃ婆になる。

 かるく鳴りあはされる四つ竹がかすかな谺[こだま]を呼ぶやうにして耳にひびく。優艶さに私はほとんど恍惚としてゐた(p.34)。※これはホンモノを目の前で聴かないと理解できまい。

 探照灯の夜、墓地のあひびき、ゐもりの声。
 10月11日、8時間におよび那覇大空襲で、旧市街は姿を消した。

 重爆に便乗し、那覇から立川へ直行した。
 沖縄でも映画が演劇をすたれさせた。

 焼夷弾よけとして家屋の天井はすべて剥ぎとられ、屋根のみ。
 享保年間に作られた「人盗人」という組踊では、こどもを脅すのに鎌を用いる。ナイフではなく。

 「……遊郭が、全部慰安所になることになったんです。兵站からの命令で、抱へ女の名簿を出せといって来たんで、……。……遊女は全部足どめされてゐたのですから、日本軍の命令に反いたことになるわけです」(p.62)。

 ハブ避けには、月夜でも提灯をさげる。
 美人(チュラカーギー)は、やや下賎な響きがある。
 ズリ……遊女。
 イラー……助平男。

 路のつきあたりや曲り角には必ず魔よけの石敢当(せきかんとう)がある。
 離島の高台からみわたせば、屋並にひるがえる日章旗、点々。出征兵士の家なり。

 戦後の2月8日。これが著者3度目の琉球行き。
 占領中の首里博物館に「ペルリ百年記念館」なる別館あり。1953-2-56にできた。守礼の門の精密模型があった。米人が軍票B円で100万円で建物コミで寄贈した。日本円だと300万円相当。

 1万フィート滑走路は、B-35用だという(p.301)。

 終戦とともに、広袖も巻髪も消えた。
 戦前あった100~200年の古酒も爆砕された。
 このころ、東京に、琉球料亭、泡盛屋が増えた。