旧資料備忘摘録 2020-10-14 Up

▼仲小路彰『百年戦争史』S14-7
 黒太子 Prince Noir は仏人が付けた仇名。それを英人もよろこび、直訳して Black Prince と名乗った。
 ヘンリー4世の仇名は、ホット・スパー =熱拍車。

 当時は、捕虜はカネで買い戻すことが可能。
 ジャンヌ・ダルクが刑されたのは、フランス王がカネを出そうとしなかったため。

 この百年戦争と、オスマンの西漸が、同期進行していた。

▼長瀬鳳輔『土耳古廃頽史』大9-6
 チムールに敗れたオスマンのバエジッドは、イスラムのくせにいつも泥酔。
 チムールはバエジッドの妻妾らを裸にして酌せしめた。
 残虐王の次は必ず甘い奴が立つ。

 コンスタンチノプルを陥としたマホメッド2世は、それまでのサルタンと違って真の専制君主。じぶんひとりで何でも決め、重臣なし。アドリアノープルで大砲を造らせた。

 子のセリム1世は攻略したコンスタンチノプルのキリスト教会をすべて回教寺院にした。
 1516まで、周辺イスラム勢力は大砲を保有せず、トルコ軍あばれまわる。カイロまで征圧。

 その子スレイマン1世は1521にベルグラードを300門の大砲で攻略。だがこの際にはコンスタンチノプルのような乱取りは行われなかった。

 海上では、スペイン、ローマ、ヴェニスを敗り、海賊バルバロッサを提督に任命。クレタ島以外のほとんどをトルコ領に帰せしめた。

 このスレイマン1世は名君だというので、ハンガリーから農奴たちがトルコ領に逃げてきたほど。1566没。
 その子のセリム2世は暗君で酒浸り。
 キプロスに良酒を産すると聞いて攻略にかかり、1571大敗。
 けっきょく、酒で病死。

 1669、ヴェニス軍が守備するカンデイア市がトルコ軍に攻囲され、白旗を揚げて降伏(p.59)。

 1829-9-10、ロシアに攻められたカピタン・パシャ以下5000名が降伏。黒海沿岸。

▼ヱミル・レンギル著、荒井武雄tr.『土耳古 その民族と歴史』S18-7
 ハレムはペルシャやアラブの慣習。それがトルコに入った。
 イスラム教はアラビア人が始めたが、世界に普及させたのはトルコ人だ。

 トルコはアラブ人に占領されたことはない。しかしイスラム強が良いと思って受け取った。特に「神はただひとり、預言者もただ一人であるから、可汗[カカン]もただひとりである」という政治的な整合性が好まれた。

 ベースとして、トルコ人は無数の党派に分裂しやすい。それをまとめる道具が必要であった。
 キリスト教のビザンツ帝国も、腐敗が進むと、神は1人、皇帝も1人、と唱えて専制化した。ついにはギリシャ旧教では皇帝が神になった。

 はじめにビザンチン帝国があり、それに対して最初のイスラム帝国が立った。すなわち11世紀なかばのセルヂューク朝。
 そのサルタンの勝因は騎兵隊であった。

 イエルサレムはセルジュクの占領前からもうイスラミック・アラブたちの町だったが、トルコの支配下となったことで初めて西欧人は脅威を覚えた。→十字軍。

 当時、法王すら、領土や命の危険があった。
 野蛮な封建王どもを東へ向けてやれば、法王は安全になる。
 キリスト教圏が団結したクライマックスがこのときである。以後二度と、これほど群集がキリストに熱狂したことはない。

 ジンギスカン時代の降服は、市の門を開くこと。
 インドのムガール朝は、モンゴル人が遺した。

 モンゴルから逃げたトルコ人の一隊4000人が、オットマン。
 セルジュークはモンゴルに屈し、傀儡を立てたが、全土を軍政下に置かれてはいなかった。
 セルジュークの最後の破滅を救ったのが、オットマン部隊だった。ちょうどモンゴルの生命力も低くなっていた。

 しいたげられた者たちも、変化をおそれる。もっと悪くなるかもしれないから。

 チムール(帖子兒)は包囲攻撃の第一日目には部下に白い旗を揚げさせて、敵の住民に、すみやかに降服すれば命は助けると知らせた。二日目には、一般住民の命は助けるが指揮者たちは殺されるという意味の赤い旗。三日目には黒い旗が揚がった。すべての住民を容赦なく殺すという宣言だった。

 キリスト教の廃れた信仰の代りとしてナショナリズムが、オスマンに対抗できたかもしれなかったが、ちょうどその端境期だった。

 トルコの強さの秘密がイェニチェリだと言ったのは、ヴェネチア総領事としてコンスタンチノプルに駐在したフランセスコ・フィレルフォという学究。
 とうじのヨーロッパの兵は、半封建的で、指揮権の集中が不足していた。

 貴族クラスが無いトルコで、イェニチェリは特権を与えられた集団だった。
 怪我や病気の手当ては十分だった。勇猛さを保つため結婚は禁じられていた。しかし次第にその禁制が緩み、世襲階級化し、同時に世俗化し、ただの不平士族と堕した。彼らの隊旗は、黄金の飾り付きの白絹。

 ヴァルナの会戦のとき、敵軍はこの隊旗を見ただけで壊走した。
 これと別にSpahis(騎兵隊)があった。イェニチェリより小規模。由緒正しい将兵からなる正規軍。
 トルコの砲兵・工兵は、皆、キリスト教徒の外人部隊。
 トルコ歩兵はすべて不正規兵で、コジキと動物の中間的存在だった。

 「スタンブール」は「都」の意味である。
 バイロンは対トルコ戦に身を投じて死亡している。

▼小林善八『土耳古の盛衰』大15-3
 1424にオスマンの子、オルカンの弟のアレージンが、トルコの軍装を決めた。白服を最も尊いものとし、帝室に出入りする者やプロ軍人は、頭を白布で包む必要があった。
 イェニチェリを創ったのもアレージンである。

 1536時点のトルコの総督は、三條尾の旗を印とす。スレイマンがハンガリー首都のブダに入るとき、それを立てた。

 1606-11のオーストリーとトルコの条約は、画期的。初めて、トルコ帝とゲルマン帝は、対等となった。
 トルコの歩兵はぜんぜんダメだった。騎兵のみが優秀であった。

 16世紀にはイェニチェリも銃を手にした。
 イェニチェリの総数が、5000人から6000人だったときが、彼らの精強さのピークであった。
 16世紀末には10万人規模の部隊にまで膨張していたものの、すでに烏合の衆と替わりがなかった。

▼ミハイル・イグナチエウィッチ・イワニン著、参本tr.『鉄木眞帖木児用兵論』M22-8、原1875
 前編はチンギス、後編がチムール。
 著者は露軍の中将。

 アレクサンダーもシーザーも酷いことをしている。チンギスとチムールが特に異常なのではない。
 北京の宣教師によれば、18世紀後半のシナ軍は、黄、白、青、藍、赤、黒色の旌標を用いた。

 ロシア人もロケット弾のことを「コングレフ」と呼んでいたらしい(p.10)。
 ロシア人は孫子のことを「支那のマッキアウェリ」と称する。

 ジンギスカンは飲酒は月に3回以下にしろと言っている。それほど害があった。
 モンゴル軍には金属のアーマーは無い。獣皮のみであった。

 モンゴル人は獣の血を食用に利用したいのでその首を切ることなく、四肢を縛って腹を割き、手で心臓を握って停止させる。そうすれば血がこぼれて無駄になることがないわけ。
 しかしこの流儀はイスラミックと全く違うから、文化摩擦がある。

 ある部族では、豚の膀胱を骨パイプの先に詰め、肋骨の間に刺してから膨らませ、それで心臓を圧迫して止める。電気に打たれたように死ぬという。そして肉の味もよくなる、と。

 モンゴルでは、3月から10月までを禁猟期としていた。すなわち、遠征の直前に、獲物が増えている状態を作為していた。

 もし、食い物を人に分けてやる気がないのであれば、人は、他者からの目につかぬところで、一人で食わねばならぬ。

 戦争前には必ず、降伏・臣従しろという書簡を送る。
 攻城は、まず現地の捕虜に土工させる。モンゴル人は土工の労を嫌う。
 攻撃は夜も止めず、守備側を疲れさせる。
 火矢(弩)も使う。
 隊と隊の間の信号は「旗章」を以て号令す。

 攻城中でも、夏になると自主停戦する。馬を肥らせるため。もちろん休戦前に十分に囲りを荒らしておく。
 1220-4にトルコの部族を攻めた。白旗は使われず、城門を開いて降る。

 1221に頭蓋骨の山を築いた。死んだふりをして逃れようとする敵人が多かったので、確認のため首を切り離させたのである。

 チムールは1333生まれ。
 山岳出身の「よじのぼり歩兵」を攻城に使った。
 主力は重騎兵と軽騎兵だった。

 チムール軍は、サマルカンドから出撃したとき、隊別の色を決めた。赤旗を立てる部隊は、甲冑も武器もぜんぶ赤くする。同様に、黄色部隊と白色部隊あり。

 モンゴル軍もチムール軍も、「軍団の大旗」を有していて、退却の際はその大旗の場所を目指す。
 チムールがインドを攻めるとき、象対策として、野牛の頭と腹に、尖針ある樹枝、および、火を着けた木脂包を結束し、それを敵陣に向けて駆逐せしめた。※火牛計。実行できたわけがない。

 巴牙屠と書いてバグダッドと読ます。

▼『世界史講座 II』S34
 三橋冨治男「イェニ・チェリ」。

 スパヒは、ペルシャ語で「兵」。
 シィパヒーは、オスマントルコの騎兵。
 セポイは、西欧人が呼んだ。

 1522のシュレイマーン1世のロードス島攻略も、イェニチェリによる。
 イェニとは、アナトリア語で「新しい」。チェリとは「兵」。

 欧州ではこれが訛って「ジャニッサル」とか「ジャニセイル」とか言う。
 まず砲撃。ついでイェニチェリが突撃。このパターンを常套とす。スルタン直隷。

 スルタンの肉入りスープを相伴する特権から初期は白色フェルト帽に「匙子の飾り」がついていた。後に金刺繍の紅帽に。
 軍旗代りは巨大な金属鍋。
 イェニチェリアーシ(司令官)の天幕には、コーランの句を刺繍した白絹旗を翻した。

 マフムト2世は砲兵隊によりイエニチェリを全滅させた。叛乱源となって久しかったので。1826のこと。
 イェニチェリをエジプトで真似たのが「マルムーク」である。ひとつのカーストになった。

▼川崎淳之助『チムール』1977
 馬乳酒のクミスは度数が12から50もある。
 イスラミックであったが、わざとモンゴルのヘルメットを被っていた。

 クリストファー・マーロウの脚本の中では「タムバレイン大王」。
 天幕の色を白→赤→黒と攻城3日間で変えたというのは根拠のない伝説(p.126)。

▼日本狩猟協会pub. 月刊『猟友』
 創刊はM33-2-1発行号。
 所得税に応じ、銃猟税は一等から三等に分かれていた。それが最近の改正案で、一等と二等に整理される。
 また、猟区設定権を強める。そうなれば、外国人と貴族しかできなくなる。

 M33-3-1発行号。この時点で、33年度中に東部都督管内の歩兵に5連発を交付する予定で製作中である、と。※三十年式歩兵銃のこと。

 ニュース。高知の山の中で。モチが吊るされていたので、噛んだら爆発し、気絶。これは狸貂猟用のモチワナ。

 M34-4月号。十文字いわく。じぶんは8~9歳のときから射的。10歳で十匁銃の膝台射。12歳で60听砲の助手をして、鼓膜が破れて3年間、耳が聞こえず。
 8匁くらいの馬上銃に4匁玉を2つ入れて雉を射った。これが維新前の話。
 ※「二ツ玉」とはこのようなものだったのか。

 元来、日本政府は、筋入(すじいり)、すなわちライフル銃の製作を民間には許可しないこととし、明治初年いらい明治27年まで、ながいあいだ不理屈にもこの禁止を守っていた(p.64)。

 ライフル銃製造機を、射的銃に関して日本の民間で初めて作らせたのは十文字。ピストル銃では、岡本と桑原であった(p.65)。
 村田経芳の次の射的名人は、華族の青山、土井、大村、島津。非華族では、軍地勇二郎だ。

 大田黒惟信の証言。維新前は、ふつうの鉄砲は3匁~4匁だったが、細川藩だけは、6匁玉を使っていた。
 1貫目を撃つのを見たことがある。ちゃんと抱いて射つのだが、火薬はごく少なく、音はボスッと云うだけで、一貫目の大玉は15間ばかり先にズドーンと地響きして落ちた(pp.67-8)。
 ※この続きの回想が載る前に、大田黒は死去した。

 M34-9月号には、村田実包(紙薬筒)の発火金の不発問題とその改善法のアイディアが。

▼多田礼吉『國防技術』S17-4
 著者は陸軍中将、工博。
 英本国は、ブーア戦において、小銃による抵抗に逢い、手を焼いた。

 陣地戦とガソリン兵器。

 仏軍はWWI開戦当初、軍用自動車170両。
 そこでマルヌ戦では1万両を民間から徴発。
 WWI末には6万8000台となった。

 独フォン・ズーウェル将軍いわく。我々はフォッシュに破れず、戦車将軍に破れた、と。

 50kgから100kgの航空爆弾の破片の初速は、2000m/秒を超える。
 1片は10グラム前後が多い。