旧資料備忘摘録 2020-10-20 Up

▼福地源一郎『幕府衰亡論』東洋文庫 S42
 大15-2に蘇峰が見直した版を底本とし、石塚裕道が解説。

 そもそも『国民之友』新聞に連載してもらおうと、M24に徳富蘇峰が福地桜痴に原稿を頼んだ。福地は、1枚(20字×10行)に1ドル=1円払うなら書く、と請け負った。
 単行本の初版はM25末。

 桜痴はギボンの『ローマ帝国衰亡史』を愛読していた。それの幕府版が書かれることを蘇峰は期待していた。期待は応えられた。

 以下本文。
 思えばペリーの来航から江戸城引渡しまで、15年だった。福地は外交掛の下っ端の幕吏として、その激動を見ていた。

 280年の泰平を保った徳川体制は、封建である。みんなわかってないが、この封建制度は、初代の家康が望んだ制度ではなかった。家康は、中央集権の郡県制にしたかったのだ。が、外様大名が強すぎて、ついにその理想は実現せず、封建制で妥協するしかなくなった。

 家康の長期構想としては、諸大名の力を徐々に弱めて、中央集権の郡県制を確立するつもりだったのだろう。しかしその大方針は徳川四代目にして早くも放棄された。

 六代家宣より以降は、譜代もほとんど他人と化した。自藩を犠牲にして幕府を守ろうなんて気持ちはぜんぜんなくなり、その心底、外様大名家とちっとも変わりがなくなった。これは封建制度が必ず辿るコースなのだ。譜代家が家康の直系の息子だったとしても同じ。封土を与えて独立の大名としてやった瞬間から、すでに対等の敵、潜在的なライバルとなってしまうのである。だから家康は、こんな制度は早く停止しようと苦心したのだが……。

 大名や旗本が朝廷から官位を叙任される制度は、家康としては、なんとかしたかっただろうが、鎌倉幕府からの慣例なので、どうにもできなかった。
 この点で見識のなかったやつが、新井白石。6代目の家宣に対して、武家の礼服を京都風にあらためましょうと建言したようなうつけ者だ。

 荻生徂徠はまともなことを考えた。8代目の吉宗に対してだが、幕府は独自の官位や礼服を制定して、もう京都に官位を乞うのは止めるべしという卓見を提案している。

 武士は「従五位下」より上の官位に叙せられるときに、朝廷から位記・口宣を賜る。どんな武士もそのときに気づく。日本国の主人は天皇なのだと。

 近松や竹田出雲の浄瑠璃本も、庶民に対し、日本の真の主人は誰なのかを自然に刷り込んだ。その影響力は馬鹿にできないのである。

 大名の家老が君主を諫言するとき、将軍家から何か言われたらどうするんですかと言った。幕府内部では、将軍を諌めるのに、《京への聞こえは如何》などと脅かした。将軍はこのようにして、天皇の名前で脅かされて育ったのである。「朝敵」認定されたら幕府権力もおしまいだと、じつはよく判っていた。

 福地は、儒学のことを「文学」と呼ぶ。
 シナ春秋五覇のなかで最も勢力が強かったのは斉の桓公と晋の文公。あわせて「斉桓晋文」。

 家光が貿易を禁じた理由のひとつは、物品を輸入するばかりで日本からは金銀が出て行くのみだったから。

 「豆州下田は東海の形勝たるを以て……」(p.19)。※太平洋を日本の立場からは「東海」と言う。

 嘉永6年6月3日にペリーがやってきた。13日、京都所司代の脇坂が転奏へ申達し、天皇の耳に入れる。15日、伊勢の神職どもへ朝廷からの御教書が。その中に「すみやかに夷類を退攘し、国体に拘わらしむるなかれ」とあり、これぞ「攘夷」という語の出始めであった。

 しかしどうしてわざわざ所司代が朝廷へ奏聞する必要があったのだろうか。これがそもそもの間違いではないか。福地が聞くところでは、12代目の家慶[いえよし]に尊王が刷り込まれていて、言いだしっぺであると。それに水戸の前中納言・斉昭が同意したんだと。

 斉昭が人物であることは家慶が知っていた。こういうクライシスの折には斉昭ぐらいしか相談できる大名がいないすと。それで、譴責隠居の身であった斉昭を再び登城させることにした。阿部正弘もこれには消極的に同意した。
 よくなかったのは、この斉昭を再度、窓際に退けてしまったこと。それによって、幕府は憎みを買った。
 人を任罷するにさいしては、微官・小吏といえども、軽々しく任じて軽々しく罷めさせるようなことをしたら、ボスの信用は全くなくなって、本人には大きな不満が溜まる。かえって、初めから任命などしないほうがよほどよかったということになるのである。

 徳川時代に儒学の世界では、将軍家を「大樹」「幕府」などと呼んだ。この呼称は、日本の権力を相対化させる呼び名なので、まことによくなかった。暗に、日本の正統な権威ではないとする響きがあった。

 黒船危機以前、文学者で真に高等政治に参画できたのは、白石と徂徠の2人のみである。250年で。

 嘉永・安政のころでも、荻野流の百目玉だとか、青銅製の石火矢〔臼砲のこと〕で、外国軍艦に敵し得るとは、誰も思ってなかった。

 幕府は、米艦隊には勝てないから、開戦は回避するしかないと内々に結論したのに、それを上で決めて布告すると世論が反発するだろうと心配し、まず諸大名や諸役人から書面で避戦論の意見を提出させようとした。幕府はほんとうは主戦論なのだが、みんながそういう意見ならしかたないので、戦争はやめる、という格好にしたかった。この卑怯が、世間からは、完全に見透かされた。そして、逆に、下から過激な主戦論を建言することで、武勇の美名を世間に博するチャンスだととらえられた。

 越前からの上申。上様はとうぶんのうち、甲府へ移るべきだ。
 肥前からの上申。夷狄がすきをうかがう=「御国体に関係」いたすので、断然、打ち払えと命令しなければならない。

 幕閣では、堀織部正が、さっさと御見切り→御手切 を決心しないと人心が撓むから手遅れになるぞと。

 水戸老公の考えは、米国が攻撃するというなら戦うべしとまずこちら一同の決心を定め、しかるのちに談判にかからなければいけない。われに戦うの決心あって和するは、和である。その決心なくして和するはすなわち、降である。

 福地いわく。われにも彼にも戦争と思わせておき、手短にすばやく談判をまとめるといった芸当は、将軍が真に英主で、閣老に外国談判の才能がないと無理。阿部は外国語はまったく理解できず、外国使節と直接談判ができなかった。だから、水戸式は言うべくして無理。

 幕府はペリーに返事は来春しますと答えた。ペリーは、それでは来年再訪しようと言い残して去った。幕府は、どうせ翌年すぐには来るまいと期待していたが、あにはからんや、正月早々、約束の如くペリー艦隊は浦賀に出現したので幕府はふたたび周章狼狽。

 ここにおいて日米和親条約が調印される。これは正式の条約なのであるから、国内に対してもその内容を広く公知させるのは当然だった。ところが幕府は、その条約締結の事実そのものを国内に対して隠蔽しようとした。あたかも米国には臨時的な許可を与えただけ、と粧おわんとした。
 徳川幕府も、慶長から嘉永に至るまで、これほど子供じみた対内詐術をたくらんだことはなかった。とうぜん事実はすぐ知れ渡る。人々は、幕府の内兜を見透かした。こいつらもうどうしようもなくなってるぞと。

 幕府は、親藩では徳川斉昭、外様では島津斉彬に、破格を以て国策を相談するしかなかった。この2人だけが、とりあえず話ができそうな大名だった。当時の大名は能力主義ではなかったので、「名君」など、まず、いない。日本じゅう探しても、そんなものだった。

 従来、江戸10里内では、誰であれ、発砲は禁じられていた。阿部は、この禁制を撤廃した。諸藩は、江戸の藩邸に鉄砲を大量に持ち込んで、調練をしなさいと、幕府から促した。輸送のための大型船舶も自由に建造せよと。
 幕府みずからは、大森に大砲の「町打ち」(ロングレンジライブファイア)ができる演習場を開いた。
 品川には、砲台を建築し始めた。

 阿部と島津斉彬の交際が親密であったことが、末期の幕府のためには幸いであった。薩摩はみずから建造した軍艦を幕府へ献上してくれた。不運にも、この阿部と斉彬はどちらも若死にする。それで、誰も水戸を制御できなくなって、幕府の滅亡は加速されるのである。

 将軍家定が世子だったとき、京都の公家の娘2人と婚姻していたが、あいついで薨去。そこで安政3年、薩摩から篤姫を娶ることとなった。もちろんこれも阿部のはからい。
 篤姫は斉彬の実の子ではない。末家の血筋を臨時の養女に仕立てたものである。そういうこともよくあった。33歳の家定は一種の精神病患者で、通常の夫婦生活も成り立たぬ相手であることは、全員さいしょから承知であった。

 人々が構想していたのは、この家定将軍をさっさと隠居させ、英明な養子をとらせて、その人に国政の指揮をとってもらわねば、今の国難は乗り切れるもんじゃないということだった。その候補が一橋慶喜であることも、だれもが考えたことであった。

 安政4年、ハリスとの新条約交渉のさなかに阿部が39歳で過労死。
 阿部より能力の低い老中の堀田が、ハリスとの衝にあたる。
 ハリスは堀田邸で6時間にわたり、阿片戦争について解説してやり、早く米国と条約を結んで開国しないと、強欲な英国から武力侵略されるぞと脅かした。

 堀田以下、その場に居並んだ永井玄蕃などのテクノクラートも、茫然として迷夢の醒める心地がした。
 ハリスは日本のために新条約で2割の輸入税を定めてくれた。酒や煙草は3割5分である。これが先例となって、英国その他もこのレートを呑むしかなくなったわけ。

 安政元年12月23日、朝廷からの太政官符。五畿内七道の梵鐘をもって、大砲、小銃を鋳造せよと。
 こんな命令が京都から出されることを追認したことで、幕府は日本の政府ではないと内外に宣言したようなものだった。

 藤田東湖が生きていたころは水戸老公も無謀な攘夷家ではなかった。

 なぜ慶喜ではなく、13歳の紀州慶福[よしとみ]=家茂が14代目に指名されたか。
 まず、家定本人が、優秀すぎる慶喜が養子になることを嫌った。暗愚の将軍だったが、それでも、じぶんのもっている巨大権力を奪われることが面白くないと思った。
 次に、大奥が反対した。これは、家定のとりまき全員 とイコールである。家定が隠居すれば、とりまきも権力を殺がれる。権力のうまい汁を吸えなくなる。ゆえに、有能すぎる養子を歓迎するわけはないのである。
 この結果、また幕府の滅亡は避けがたくなった。とりかえしのつかない数年間の迷走が続いたからである。

 大奥=紀州派が頼りにできた幕府の大物は、累代、京都守護の、井伊家の直弼、ひとりだけだった。井伊は、大老になるための条件を、あらかじめ、呑ませる。すなわち、大老になるからには自分が政治を独裁する。養君を誰にするかは自分が決める。内外の政策もすべて自分が決めると。

 「およそ人そのすでに得たる所を失うを欲せざるは、普通の性情なり」(p.82)。

 内訌と外患が同時に来ては往生するから、井伊といえども、いったん結んだ条約を反故にはし得なかった。開国条約に調印することにし、それを「宿次奉書」(今の書留郵便)で朝廷に報告した。
 使者による報告ではなかったことが、倒幕派には攻撃材料を与えた。

 幕府は、諸国大名が公卿と通ずることを禁じていたが、幕末にはそれがルーズになっていた。この公卿との連絡工作のことを「手入れ」と称した。

 老中が堀田だったときは京都にはしっかりと金銭を与えていたのに、老中が間部になるや、つけとどけを絞った。
 井伊が駒込に蟄居させていた水戸老公に、攘夷の密勅が下された。
 井伊がこれを糾弾する過程で網にかかり、死刑に処されたのが、橋本左内や吉田松陰。また、慶喜派だった幕吏の永井玄蕃、川路左衛門尉らは、隠居永蟄居に。

 永井はハリスから指名されて万延元年の幕府最初の対外使節に加わるはずだったのが、井伊のために外されている。軽輩だった勝林太郎や小栗上野介は問題なく加わった。

 安政6年に英国は新潟港を調査して、貿易港としては不適当であると結論し、代りに七尾か酒田はどうだという話があった。
 安政6年に「豆小判」が鋳造された。金銀レートを合理化するために。
 貿易は、兵器輸入を除けば、赤字ではなかった。金銀を使って外国製兵器を買ったので、国内の物価が上がった。

 桜田門外で首を切断された井伊はいったん帰邸してしばらく存命であった風を幕府は演出させようとした。そうすることで人心を落ち着かせようと考えたのだが、あまりにも庶民を馬鹿扱いした猿知恵と思われ、朝野上下、却って幕府をののしった。

 このケースのような不覚悟の横死を当主が遂げた場合、大名・旗本をとわず、禄は没収され、家名は断絶するのが幕府の憲法であった。しかるに井伊家は救済された。

 井伊が死んだので、幕府の実権は久世と安藤の2人の老中の手に帰した。
 水戸老公は8月に病死。これで慶喜の謹慎も免ぜられた。

 世の中の風潮は、一挙に、《攘夷を唱えない者は非国民》という有様になった。井伊の国許の彦根では、一藩連署して攘夷の先鋒たることを願い出たほど。
 攘夷論の震源地は、俄然、水戸から京都へ移った。

 長州藩では、はじめ、長井雅楽が京都公卿のあいだに公武合体を説いて成功しかかったが、藩論をまとめられず、自裁させられる。

 その後、過激倒幕論は長州がスポンサーとなり、京都の有栖川宮、三条を抱き込んだ。
 佐幕路線派は薩摩がスポンサーとなり、中川宮、岩倉がその仲間に。

 文久2年に大原勅使が江戸にやってきたとき、すぐに、将軍辞表&大政返上をしていたなら、幕府主導の立憲議会政治にうまく移行できたかもしれない。英邁な慶喜が将軍だったらそれができただろう。しかし子ども将軍(文久3年時点で17才)の家茂と権力亡者のそのとりまきたちでは、いかんともしようがなかった。

 小笠原長行は執政になった。大名火消しは解散。参勤交代を廃し、大名妻子は国許に帰させた。

 小栗忠順はかつてこう言った。「どう(に)かなろう」という言葉は、その一言で、国を亡ぼすようだと。

 今日(明治24年)、民党の連中は、政治意見を同じくしない者を、「吏党」「民敵党」と罵る。文久年間には、攘夷過激主義に賛同しない者は、ことごく「奸物」「国賊」とレッテル貼りされて、いつ暗殺されてもおかしくなかった。

 島津氏は生麦事件の余波の戦争が迫っているので京都でぐずぐずしていられなかった。結果、京都は完全に長州過激派に牛耳られた。

 文久3年に幕府が京都治安のために使える装置は、守護職代の会津兵だけ。
 この時点ではすでに江戸と大阪の間は外国汽船を雇えば高速移動可能だった。

 文久3年11月に江戸城の本丸と二の丸が火事で丸焼けになったことは人々を驚かせた。その前に西丸も焼けていたので。

 元治元年の朝廷と将軍のやりとり。これが、まったく政権が朝廷にあるような内容になった。この奉答書をまとめた幕閣は、維新後の靖國神社に祀られる資格がある。まさに倒幕の功労者だからだ。

 内治についても外交についても果断なく、「否」の一語を大声に言えない怯懦が、幕府をますます弱体化させた。

 水戸の藩主は定府。つまり常に江戸に居住と決まっている。いきおい、江戸邸と国許とで、議論が二つに分かれてしまう。これが天狗党暴走の背景。

 文久2年に幕府使節が渡欧し、兵庫と新潟の開港の約限を5年先送りしてくれと頼んだ代償として、ハリスがとりつけてくれた輸入税はチャラ同然の「5分」に引き下げられ、馬関の無料通航が認められていた。
 ※これは長州藩の財源に打撃を与えるという遠謀もあったのだろう。

 元治元年の在京の幕府機関は、外交の事情に暗かった。また江戸では、西日本の力のバランスが激変していることが、まるで伝わっていなかった。

 幕府は、日本の政府であるならば、四国連合艦隊の横浜出撃を止めるべきだったのに、ひそかに、長州をやっつけてくれと声援する気持ちでそれを送り出した。もう、おわっていた。

 第一次長州征伐のとき、長州藩は3家老を切腹させてその首を差し出した。今日からみると幕府を恐れすぎていたように見えるが、馬関で外国軍に大敗し、朝廷からは朝敵認定されて、さんざんな時だった。

 第二次長州征伐のときは、動員された幕府側部隊の誰も、実戦になると思ってなかった。第一次のときは、実戦する気であった。この差は大きい。

 江戸の幕府幹部は西国の強さを知らずに、楽勝だと思っていた。

 四境戦争で長州は逆寄せして占領地を増やした。関門海峡の対岸まで広く支配した結果、幕府の船は関門海峡を通航できなくなってしまい、大困り。

 慶応2年、家茂は21歳で病死。

 徳川将軍の血筋は、4代までは父子で続いたが、家綱に実子がなく、弟の綱吉に筋が移った。その綱吉にも実子がなく、6代は家宣[いえのぶ]に筋が移った。その子の7代・家継は8歳で没。8代は紀州家に筋が移った。10代の家治がまた子がなく、筋は一橋家の家斉に移った(11代)。13代の家定にやはり子がなく、家茂に血が移り(14代)、最後の15代は一橋慶喜。

 家茂の没から半年たたない慶応2年12月、こんどは孝明天皇の崩御。※天然痘。

 元治元年末から慶応元年にかけて、幕府の主導権は親仏派が握った。パリには幕府の事務所が常設された。
 幕末に幕府が頼りにできる諸藩は東北にばかりあり。いずれも小藩。

 幕府は情報収集ができておらず、薩長同盟にぜんぜん気づかなかった。
 大政返上ができたのは、まったく土佐の山内容堂のおかげ。

 討幕の密勅は、福地も、維新後数年後に初めて写しを目にし、愕然とした。当時は、誰も知らなかった。
 これは、二条城の慶喜が大政返上する動きをスパイによって察知して、その先手を取って大急ぎで製作されたものだろう。
 列藩議会の牛耳を幕府に取らせないために。
 ※注にいわく。この密勅には天皇の親筆部分がなく、中山・正親町三条・中御門の公卿の花王もない。贋物だろう。密勅は岩倉が起草させ、大久保に手渡した。

 密勅の存在が世間に広まり出したのに続いて、薩摩藩邸砲撃。市中強盗の聖域になっていたので。これで大坂方面でも、決戦のときが来たと両陣営が認識した。

 将軍は大坂にいてもしょうがないから開戦の前にさっさと江戸へ戻っているべきだった。
 幕府軍は、全部隊一丸となって山崎街道を京都へ進軍すれば、勝てたかもしれないのに、そうしなかった。わざと兵力を分散し、細道を進み、側面を敵にさらした。

 聞くところでは、幕府に対してスパイ工作があり、現地部隊では、京都で必ず内応者が出るという話を信じていたらしい。だから、会戦は予期せずに気楽に前進していたのだ。

 8代吉宗将軍は、日本の西洋学をスタートさせた偉人である。
 寛政の改革の背景には、11代家斉将軍がいた。若いときから豪邁だった。

 繰り言になるが、慶喜が将軍になったときに、ただちに大名を議員とする「国会」を開設してしまうべきだったのである。もちろん大政返上と同時にだ。そしてみずから復古の基礎を樹立しますよと宣言すればよかったのだ。

 以下、巻末解説。
 福地は天保12年に長崎に生れた。医師の末子だった。
 オランダ語を学び、18歳で長崎造船所にも勤務。
 ついで江戸で英語を学ぶ。
 文久元年、外国奉行の随員として、渡欧。

 フランスで万国公法の研究もした。そうした知識をひけらかして威張るので、共和主義者だと讒言されたことも。
 江戸開城のときは、主戦論を主張した。

 渋沢栄一の推挙で伊藤博文に接近。
 福地は四度も洋行した。グラント大統領にも会った。裁判制度も研究した。

 大久保とは馬が合わなかった。
 西南戦争中は新聞主筆として山縣有朋の側にいて活躍。14年までが得意の絶頂。
 軍人勅諭の文章にも、福地は関与している。

 外国奉行を勤め、慶応年間に遣仏使節の一員になっている栗本鋤雲は維新後、『郵便報知新聞』に招かれた。
 M15に泡沫団体の「立憲帝政党」を立ち上げた頃から福地は調子がおかしくなる。民心から乖離してしまう。
 幕府側から書かれた資料として、山川浩の『京都守護職始末』もある。
 『徳川慶喜公伝』は渋沢がさいしょ福地に執筆依頼した。だがその準備中に福地は病没した。
 福地の自叙伝は『懐往事談』。