新コロの致死力が低下してきたと報告されている。

    David Kindy 記者による2020-10-21記事「Truth Is Stranger Than Fiction With Horten’s All-Wing Aircraft Design」。
  スミソニアン博物館には「ホルテン Ho229 V3」が現存し、わかりやすい切断展示がなされている。バルケンクロイツとともに。
 長年屋外で雨ざらしにされて、ひどい状態になっていたのをここまで修復作業したのだ。素材には積層合板が使われているので、さいしょから屋内で保存するべきであった。

 ホルテンは兄弟で、ライマーは設計技師、ヴァルターは戦闘機乗りだった。
 ヴァルターは、バトルオブブリテンの反省として1942年に、レーダーにひっかからない全翼戦闘機が必要だと結論したのだという伝説がある。
 これは嘘である。

 スミソニアン職員のラッセル・E・リーはホルテンの全翼機についての新著を発表し、その中でいくつかの俗説を正した。
 スミソニアンで本機を修復したチームは、化学的にステルス性があるコーティング剤などは一切、用いられていなかったことをはっきりさせた。
 「ホルテン229」がレーダーに対してステルスであったという伝説は、ライマーが戦後になって語り広めた話にすぎない。

 ホルテン兄弟が意図的に、レーダーにかからない飛行機を作ろうとしたという証拠は、どこにも無い――とスミソニアンの復元チームは結論する。ようするにこの兄弟は単純に好奇心から全翼機を創ってみたかっただけで、それを正当化するもっともらしい理由が後付けされたのに、英米人の方が飛びついた。

 もちろんこのような実機を最初にこしらえてくれた功績は大きい。ウイングスパンは50フィート。それに32度の後退角がついていて、尾翼無し。これが飛ぶのだという事実から戦後世界の設計者たちが得ることのできた知見が無視できるほどに小さいわけがない。

 ホルテン兄弟はこの全翼機でMe262以上のスピードを実現するつもりであった。

 じつはライマーは航空力学の正規の教育コースを履んでいない。だから既存の国内航空研究機関からはまったく無視される存在。研究は一匹狼でするしかなかった。

 ライマーは1920年代後半に、胴体も垂直尾翼もある飛行機モデルをいろいろ実験している。ヴェルサイユ条約が、ドイツ国内での動力機の開発を禁じていたので、ライマーは無動力のグライダーを数々製作した。そしてやがて、全翼にすることで最大揚力と最小抵抗を実現できないかという追究を始めた。

 WWIIが勃発してくれたおかげで、ホルテン兄弟の「ジェット全翼機」の紙上提案にナチス党が注目してくれた。1942にゲーリングはいきなり予算をつけた。50万ライヒスマルクである。

 ライマーの付けた名前は「H.IX」。しかしルフトヴァッフェはあらためて「Ho 229」と命名した。3機のプロトタイプは「V1」「V2」「V3」と呼ばれる。

 機体構造は「鋼管+ベニヤ板」だった。
 無動力の「V1」は1944-2-28に初滑空。

 各部を微修正し、続いて「ユンカース004」ターボジェットを2基搭載した「V2」を試作。この動力機体は1945-2-2から三度、飛行したが、三度目(2-18)に空中で片発から発煙し、停止。コクピット内に煙が満ちた。ハードランディングにより機体は大損傷。テスパイの中尉は死亡した。

 「V3」は造られたが、ついに飛行までできなかった。30ミリ機関砲を2門、載せていた。これがスミソニアンにある。
 パットンの第三軍は、この既製試作機体3つと、半製の試作機体3つを押収した。

 大衆映画の『キャプテンアメリカ』に出てくる「ホルテン18」戦略爆撃機は、もちろん、見つからなかった。

 米空軍が「V3」をスミソニアンに寄贈したのは1952年だ。それまで部内で分析研究していたわけ。スミソニアンでの補修作業は2011年までは着手されなかった。

 戦後、ヴァルターは西独空軍に入りなおしている。1998死去。
 ライマーはアルゼンチンへ移住し、なおも全翼機の開発に執念を燃やしたが、「Ho229」以上の成功は得られず、1994に死去している。

 リーいわく。1950年代のアルゼンチンは、合衆国の航空物資にアクセスすることが許されぬ国情であった。ライマーは移住する先を間違えたのかもしれない。



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