旧資料備忘摘録。

 小林新一郎・著『霧の孤島――キスカ戦記』(S38-11)
   ※著者は海軍軍医長としてキスカに上陸し、生還した。

 特三陸。
 キスカに大艇の基地をつくって前縁哨戒させるというのが大目的。

 S17-5-17に舞鶴発。
 電池を積み込んでいくのが大事。
 大湊で沖泊。大発で大湊の飛行基地へ行き、そこで陸戦訓練をくりかえす。

 キスカは「鳴神島」と呼ぶ。アッツは「熱田島」である。
 青島で戦訓を得ていたので、凍傷クリームを多量に用意した。

 日本人がキスカの名を知ったのは、戦前の池崎忠孝の『米国怖るるに足らず』。
 地図は米商船備え付けの10万図しかなかった。泊地周囲だけが詳しいもの。

 5-29、大湊発。
 5-31、幌延島着。
 6-1、幌延発。

 『伊9』が偵察して、島上に兵舎6棟ありと教えてくれた。6棟なら守備隊は300人だ。
 豪州ラジオ局が、日本の船団がアリューシャンに向かっているとリアルタイム放送。行動が筒抜けだ。
 ※というより、大湊から出る艦隊・船隊はすべて、わざと敵に気配を知らせて真目標のミッドウェーからは目を逸らさせるのが目的だったと考えられる。

 6-5にMI大敗報が船団の幹部に伝わった。空母×4やられたと。先任副官が教えてくれた。
 このため船団はいったん南転して、企図中止かと思われたが、再反転して「N日+1」の6月7日に上陸決行。

 上陸は、大発×4隻が単縦陣で。夜10時29分に達着。「前扉開け」。
 6月は午後11時でもう空が白みかけてくる。※夜明け直前の上陸作業開始という王道。

 島内の渓流を越すために梯子を携行していた。
 島の地面はツンドラで、数m下の岩盤までの中間の土が軟化しており、膝まで沈む。車両は使えない。

 揚陸点から、トラックを走らせることのできる道路を、日数をかけて建設することになった。それが完成するまでは、すべての資材を人力で搬送。

 米軍の気象観測所があった。建物の中に、「蒲鉾形のトタン板で作ったドーム式の長い小屋(これは風には強いと思った)」が1棟あり、鍛治工場として使われていた。※ Quonset Hut だろう。
 内部に、タイル製の「重油ストーブ」。

 米人の気象観測員はいたが、兵隊はいなかった。
 S17-6-8早朝に平定。

 6-11夕方、コンソリ×1機が偵察に初飛来。
 6-12、初空襲。湾内碇泊艦船を狙って。低空で舐めてかかったゆえ、艦載の14センチ砲で1機撃墜できた。死体×6確認。パラシュートにArmyと書いてあったので、初めて、敵機が海軍機とは限らないと理解した。

 これ以後、爆撃機は高度3000mから投弾するようになった。すべて艦艇のみを狙ってくる。

 陸戦隊でも「高射隊」という。「高射砲台」「高射機銃」。「平射砲」も揚陸して据え付けた。

 貨物船からの卸下作業は、もし空襲で沈座させられても全没しない、浅瀬ですること。
 平射砲を1門、揚陸するのに、引いたり押したりの人間が100人必要であった。

 6月下旬は最も霧がよく出る。
 18時から暗くなり、19時には闇となるが、24時過ぎるともう夜明け。

 「B-17」が飛来する。陸式の7センチAAは操砲員ロクに訓練の機会がなかったので、まるで当たらない。海軍の13ミリ機銃は4門揃えて命中させても無効。
 油槽船に1発直撃。大炎上。

 島内戦力は、当初、陸戦隊600人=1個大隊。武器なしの航空支援隊200人。丸腰の設営工員300人。
 キスカの夏は7月下旬の一瞬だけである。気温20度。
 8月には草木が秋色に変わって来る。霧は薄れる。
 9月は冬だという事前の話であった。

 丘の斜面、30度くらいのところに、横穴トンネルを掘って防空壕にした。最初は奥行きが、たったの3m。

 8月、艦砲射撃600発を喰らう。泥土なのによく信管が作動していた。
 8月下旬、「P-38」が飛来。

 9月、草色は褪せたが、寒くならない。
 9-15、30機の戦爆連合が飛来する。超低空アプローチでこちらの電探は出し抜かれた。

 戦闘機の機銃掃射で最も流血させられるのは、小型艇。
 戦闘機は、1000m以上の高度に上って旋回しながら眼下の様子をうかがい、単機で不意に降下して銃撃する。AAはとても対応できない。

 10月、敵機は収束焼夷弾を使いはじめる。

 横穴トンネルはできるだけ急斜面に掘るのがよい。というのは、ちょっと水平に掘り進めば、すぐに天井厚が10mに達してくれるので、安心。

 傾斜30度なら、水平に15m掘れば、天井厚は10mとなる。(のちに、天井厚は15mないと大型爆弾に対して不安だと分かった。)
 調子がよければ1日に1m掘り進められる。が、土質が堅いと手掘りでは1日に80センチしか掘り進め得ない。

 ※尖閣に上陸する敵兵がツルハシだけということはありえないが、それでも15日居座られたら、空襲や砲撃だけではもう全滅させられなくなってしまうわけ。

 一本線の横穴洞窟は、もし入り口で爆弾が炸裂すると、その衝撃波で奥の者が皆死んでしまう。
 だから、奥行きが10mに達したところで、直角に曲げる。そして少し横へ掘り進んだら、また奥へ曲げ、クルドサックのように奥で一めぐりして、別な横穴からまた同じ斜面に出て来られるようにつくる。

 こうすると、自然通風が生じ、いちばん奥の病院施設の換気の心配がなくなる。

 12月21日には、手掘りだけで、十分な規模のトンネル収容所が完成した。
 12月、雪が降り始める。

 応援にやってきた陸軍部隊は、直径5mくらいの丸い穴を地面に縦に掘り、そこに天幕を張った。満州の冬もそれで凌いだという。中央にストーブと煙突。

 キスカの冬の積雪は大したことはない。むしろ、ときどきカラリと晴れるために、敵機がこっちを空襲しやすくなるのが困る。

 戦場ジンクスとして、爆弾孔にもう一回敵の爆弾が当たることはないと言われていた。だがキスカのような狭い島では、同じところに爆弾が5回も落ちることがあった。濃霧の日、高い高度から爆弾をてきとうにバラ撒かれても、たいへんな脅威であった。

 S18年4月、雪が降らなくなり、晴天が増え、敵機は頻繁にやってくる。
 補給にやってきた『伊7』が空爆を受け被弾。潜航できなくなり、しかたなく夜間、23ノットの水上航行で南下していったが、途中で敵水上艦艇に邀撃され、ほうほうのていで逃げ戻り、島の暗礁で座礁。
 ここにおいて初めて、敵は暗夜や濃霧中でも電探射撃ができるらしいということが知れ渡った。

 7-11に撤退と決まった。
 軍艦は狭いので、人を積んだら荷物は積めない。小銃は舷側まで来たところで海中投棄と申し渡される。

 期日は数度、延期された。この打ち合わせは、臨時につくった暗号の無線を、潜水艦が打ってくれることで行なわれた。ほとんど略符号のようなもの。だから敵には解読されずに済んだ。

 7-29に収容艦隊がやってきた。著者は『阿武隈』に乗った。26ノットで濃霧の中を南下し、翌朝、助かったと実感した。

 この作戦中に医務系の将兵の呼び名が変わった。たとえば「一等看護兵曹(一看曹)」は「上等衛生兵曹(上衛曹)」に。

 次。
 Kristin Huang 記者による2021-4-27記事「 Why two heads would be better than one for China’s ‘Mighty Dragon’ fighter jet」。
   中共の雑誌『兵器産業科学技術』が、「J-20」の複座型(開発中)を自画自賛。
 前席は操縦に専念し、後席は電子戦に専念する。

 中共は「J-10」を複座化したことがあり、その経験が役立っているという。

 同じ雑誌の記事によると「J-20」はすでに90機ほど製造された。そしてこれからさらに400機ないし500機量産すれば、中共の必要量に達するという。