バイデン氏の頭の中は、核弾頭大増産の予算要求を議会に説明するレトリックの構築のことで一杯なのだろう。中共の核軍拡の真意については、兵頭が次著で解明できると思う。

 Elise Stefanik & Mike Turner 記者による2021-8-31記事「Do Not Forget U.S. Missile Defense Gaps in This Year’s NDAA」。
   ※記者らは連邦下院軍事委員会メンバー。

 ペンタゴンはNGIというものを考えている。ネクスト・ジェネレーション・インターセプター。
 これをGBIに搭載して外敵からのICBMを防ぐ。やっと開発予算がつけられた。
 1基に載せる衝突体を複数化する。

 だがもっと努力が必要なのじゃないか。
 東海岸にもGBIの基地が必要だろう。もうすぐイランが核ICBMを持つから。

 また東海岸には、中距離射程のSLBMを阻止できるABMシステムも必要だ。敵はとうぜん大西洋の中央部から中距離SLBMで米東部の大都市を攻撃しようとも考えるはずだから。

 それでオバマ大統領は現役中、イランからの脅威が増すのなら東海岸にもABMサイトを追加すべきだと語ったのだ。

 その基地候補として国防総省は、NY州の北部にある「フォート・ドラム」の名を挙げている。

 ※イランからの弾道ミサイルは、コースとして、カナダのハリファックス沖からNYCに飛来する。したがってNYCから見て「北東」にGBI基地を置くのが合理的なのである。DCへ落下するイランのICBMはNYC沖をかすめてくるので、NYCを防御できるならDCも防御できる計算だろう。北鮮からNYCまでICBMが届くようになった場合も、フォート・ドラムのGBIで対応できる。というか、タイムライン的&テクニカル的にむしろそっちが当面の狙いかもしれないが、GBIブースターの落下をどうするんだという小問題と、そのGBIによってロシアや中共から米東部に向かって飛来するICBMも同時に阻止できてしまうという別な大問題が発生する。中共がICBMサイロを爆増させる決心をした背景のひとつに、このフォート・ドラムGBI研究が、あるのかもしれない。

 しかしバイデン氏は「ミサイル防衛」には懐疑的な人である。イランからのICBM級攻撃を防ごうとすれば、異常なコストがかかる割には、実質、無力だろうと考えているのだ。

 ※イスラエルはアメリカからカネを補助してもらっているからバカスカと「アイアンドーム」を発射できるが、GBI級となったらあんな金額では済むまい。

 ※バイデン政権は2020後半に中共の「東風41・二十倍化計画」を察知して、アフガン撤退を先延ばししない決心をしたと思う。バグラム基地放棄などを非難している連中(主に海兵隊筋)は、全員、核の素人だ。もうアフガンどころではないのだ。ミニットマン3のバス近代化(ピースキーパー並へ)と、W-88の生産再開を決めなければならないのだ。トライデントSLBM用のW-88弾頭は、たったの400発しか製造されてない。サイロ1個に2発ずつRVを配当するとして、中共が沙漠のICBM基地(それは地下鉄道によって再装填ができるので実質、SLBM並のセカンドストライクのポテンシャルがある。しかも建材は現代最高の超硬度コンクリートだ)をあと1~2個増設したら、『オハイオ』級の即応可能隻数とは関係なく、米国の戦略核抑止戦略は崩壊する。そこで古い提案をまたしたい。米国のICBM戦力は、「空軍」から「宇宙軍」に移管して、そっちの予算を増やすことだ。

 次。
 Ethan Trex 記者による2009-6-19記事「5 Things You Didn’t Know About Charles Bronson」。
   かつて『ニューヨークタイムズ』はチャールズ・ブロンソンについて「いつの瞬間でも、人を殴りそうに見える奴」と評したが、適切である。

 ブロンソンの本名は、チャールズ・ブキンスキーといい、ペンシルベニア州の炭鉱夫の息子であった。1921年生まれ。両親はリトアニア系の移民。チャールズは15人きょうだいの11番目だったという。

 かなりの貧乏家庭で、6歳のとき通学する服がなく、姉の古着をあてがわれた。
 16歳になると、自身も炭鉱で働き始めた。

 マッカーシー議員が勢力を得始める前にブロンソンは本名で役者デビューしていたが、そのご時世に東欧系と思われるのは不利だと判断して、じぶんで「チャールズ・マッカーシー」に改名している。

 イタリア系監督のセルジオ・レオーネが、早くからのブロンソン好きで、何度も起用しようとした。
 そして『一握の1ドル銀貨』を撮るときに、ブロンソンが抜擢されそうになった。
 しかし台本を読んでブロンソンは「酷え」と思い、辞退。結果、クリント・イーストウッドが役を貰い、キャリアを築いた。

 ブロンソンの役者キャリアは1951にスタートしている。しかし米国では、1960年代の『大脱走』や『荒野の七人』においても、マックィーンやリー・マーヴィンと一緒にでている人ね、という印象にすぎなかった。

 ブロンソンはヨーロッパでまず弾けた。
 イタリアでは「イル・ブルット」という仇名がついた。「醜い奴」という愛称だ。
 フランスでは「聖なるけだもの」と呼ばれた。

 やっと米本国で彼が押しも押されぬ大物役者の仲間入りをするのは、1974の『デス・ウィッシュ』である。もう50歳を過ぎていたが、それがハマった。本業の建築家から、市井の処刑人となる「ポール・カーシー」の役だ。

 ブロンソンは生涯一度も刑務所に入ったことはない。つまり殴りあいとは無縁の、家族思いな人だった。
 また、ナイフ投げの趣味も持っていなかった。あれは演技なのである。
 彼のリアルな趣味は「絵を描くこと」であった。

 第二次大戦では、爆撃機の尾部銃座が定位置だった。
 復員すると、さまざまな職を転々とする。

 あるとき、アトランティックシティ(NYCから近い海浜の遊園地)で桟橋遊歩道に椅子を有料で貸し出す仕事をしていたとき、フィラデルフィアから役者の一団がやってきた。その人たちが、背景セットの大道具の絵を描かないかとブロンソンを誘ってくれた。

 こうして彼は劇場に長時間、関わるようになり、ついに彼じしん、演技に目覚め、ポスター屋になるのは、よすことにした。

 ブロンソンは『大脱走』の中で、スコットランド人俳優のデイヴィッド・マカラムと共演している〔ボートでスペインに一緒に辿り着いている〕。マカラムの妻は、女優のジル・アイルランドだった。ブロンソンは、会ったその日にマカラムに告げた。「俺は、君の奥さんと結婚したいよ」。そうなった。ジルは離婚し、1968にブロンソンの妻になり、1990に彼女が先に死んだ。

 ブロンソンは2003に死んだ。