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 Joseph Trevithick 記者による2021-8-31記事「Secret Gate Used By Special Operators To Sneak Evacuees Into Kabul’s Airport」。
    CNNによると、二重の結界を通過して米国人をカブール空港に連れてくる方法についてタリバンと相談ができていた。
 旧内務省ビルを「マスター・ポイント」に指定して周知させた。そこに米兵とタリバンが合同で待ち構えていた。脱出希望の米国人はまずそこへ集まり、タリバンの審査を受けて、問題なかったら、そこから米兵とタリバン兵によってにエスコートされて、米軍の結界の通過哨所に行く。この流れ。

 その他に、米軍特殊部隊が用意した、空港行きの秘密のゲート、秘密の経路が複数あった。下水道も利用されている。
 その集合点にどう集まればいいのかは、携帯電話等によって指図された。
 専門の「コールセンター」もつくられていた。

 難所はタリバン結界(外縁結界)だったわけで、そこだけ地下からすり抜ければ、あとは米軍による内縁結界は問題なく通過できる。

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 Caitlin Doornbos 記者による2021-8-31記事「US military says troops disabled equipment before abandoning it at Kabul airport」。
    セントコムの司令官、フランク・マッケンジー大将によると、ハミドカルザイ空港から最後の米兵が引き揚げるにあたり、70両のMRAP、27両のHMMWV、73機の航空機を空港内で破壊して使えなくしてきた。

 また、7月後半から8月末までに、米軍は、12万3000人以上のエバキュエーションを助けた、と。

 ロサンゼルスタイムズは、すくなくとも4機のチヌークが格納庫内に置き去りだったという。

 ペンタゴンのスポークスマンいわく。消防車2台とフォークリフトは壊していない、と。

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 Daniel Morley 記者による2017-4-20記事「A Forgotten Soviet Shoot-Down: The Story of Korean Air 902」。
    大韓航空のボーイング747型機がサハリン沖で撃墜されたのは1983-9だったが、その前には、1978年4月20にも、大韓航空機(ボーイング707型機)がソ連機に邀撃されている。

 同機は、韓国人機長以下、97人の客と11人の乗員を乗せてパリを離陸。
 極圏ルートでアンカレジへ向かった。
 グリーンランドの北端をかすめ、カナダを経て、アラスカ上空へ。

 当時はGPSは無く、またこの機体には、国際航法システムを搭載していなかった。だから操縦席の頼りは「磁針」であった。

 まず地球の磁北を目指して、「磁極」の近くに来たら、右へ大きく変針するのだ。

 9時30分をすぎたところで、ソ連戦闘機が1機、インターセプトしてきた。

 機長は機速を落とし、着陸灯を点灯して、指示に従う意思を示した。また無線で戦闘機と交信しようとした。するとすぐに曳光弾が1発、コクピットに飛んできた。直後、左翼後方で大爆発。

 ソ連戦闘機が放った2発の空対空ミサイルのうちの1発だった。もう1発は、外れて飛び去った。

 爆発の破片で胴体に穴が開き、爆発的な急減圧により2人が機上死している。

 旅客機「902便」は急降下し、それから40分間、安全な着陸場所を探した。
 氷結した湖があったので、そこに不時着。

 乗員は謝罪するまでソ連軍に抑留された。
 乗客はケム市に連行された。そこから米国領事館が手配して韓国へ送り届けてやった。

 ソ連側の調査によると、戦闘機パイロットは対象機が民航機であると認識していたけれども、上官の命令により撃墜していた。
 ソ連領空に入るまで探知できなかったというのが、撃墜理由であった。
 それは防空軍の司令部将校にとっては一大責任問題となってしまうので、撃墜するしかないのである。

 5年後の「大韓航空007便」の撃墜でも、ソ連防空軍は同様の対応をした。

 ※専門家の記事かと思って読みはじめたら、「902便」だけコースを外れている原因が、これじゃちっとも分からない。ぎゃくに、CSのクラッシュ解説番組の「007便」の回のスタッフの底力がよく分かった。

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 Travis Pike 記者による2021-8-27記事「M1917 Enfield: The forgotten rifle that won World War One」。
    第一次大戦で米軍の歩兵が使った小銃は、「M1917 エンティールド」が75%を占めている。
 じつは「スプリングフィールド 1903」型は、25%を占めたにすぎないのである。

 有名なヨーク軍曹の武器も、M1917ライフルと、M1911拳銃であった。
 ところがそれを映画化するときに、ゲイリー・クーパーには、スプリングフィールドM1903を持たせた。

 なぜそんなに多数のM1917があったのか?
 じつは英国から米国の工場に生産が委托されていたのである。
 英陸軍はWWIのちょっと前に、口径の違う新小銃を導入していた。だがそれにこだわっていると、緒戦からいきなり小銃不足に陥るのは必定。それで、弾薬ストックが十分な、古い「.303 ブリティッシュ」実包を発射する仕様で、「P14」小銃の製造を米国に外注した。

 開戦から3年後の1917年に米国もWWIに参戦することになった。米陸軍は「スプリングフィールド M1903」がとても足りぬと認識し、大量生産中である英軍向けの小銃を米軍将兵にも支給することに決めた。

 その方が、いま英軍向けのエンフィールド・ライフルを製造している国内工場のラインをあらためてスプリングフィールド製造用のツールに切り替えるよりも、タイムロスがなく、合理的だからだ。もう、P14を米兵にも持たせちまえ、ということになった。

 ただし、実包は米国規格の「30-06」でないと困る。だから薬室は変更した。
 もとの英国小銃が華奢な設計であったら「30-06」には耐えられないが、さいわい、P14は頑丈だったので、問題はなかった。
 こうして「M1917 エンフィールド」が誕生したのだ。

 米軍は、英軍が好んでいた「斉射用照準器(volley sight)」は、撤去してしまった。※距離が2000ヤードもあっても、敵の密集部隊に対してこっちも部隊で一斉射撃するなら、1発ぐらい当たるだろうという発想の、アジャスタブルリアサイト。

 銃剣は16.5インチを採用した。

 バレルは26インチ。銃全長は46.3インチ。重さは10ポンド近かった。

 ボルトアクション小銃にも、連射レートを早くできるものとできないものがあった。エンフィールド小銃は、スプリングフィールド小銃よりも、そのレートを高くできた。これは、近接戦闘において、兵士を心強くした。

 ※こういうのもヨーク軍曹の手柄の理由かもね。だから映画でスプリングフィールド小銃を持たせたのでは、真相を再現できない。

 M1903のサイトは、WWIの将兵には不評だった。目からは遠すぎ、フロントサイトは薄すぎて視認し難い。しかも、よく破損したという。

 M1917のサイトの方は、概ね好評だった。概ねというのは、そのピープサイトは遠射にはとても適しているが、塹壕内での接近戦にだけは、これは向いてないのである。

 M1917は、100ヤード先の標的に、3インチ以内に集弾した。これは平均的な兵隊が、オリジナルのサイトを使った場合、である。非常に優れている。
 こういうものを、アルヴィン・ヨークのような特級射手が駆使すれば、それは手柄に結びついただろう。

 狙撃用スコープとしては、「ウインチェスターA5」を取り付けることもできた。倍率は5倍である。

 M1917は戦間期にも保管され、WWIIが勃発するとレンドリース品として外国に送られた。
 M1903は、第一次大戦後にスクラップにされている。

 米軍がWWIIに参戦したとき、迫撃砲小隊や、砲兵隊の小銃は、さいしょのうちは、M1917だった。


(管理人Uより)

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