Patrick Sauer 記者による2017-11-6記事「How Winnie-the-Pooh Became a Household Name」。
『ウィニー・ザ・プー』の作者として知られるアラン・アレグザンダー・ミルンは、WWIに英陸軍将校として出征し、1916年の第一回ソンム会戦で負傷。その後も砲撃ショック症(今で言うPTSD)から抜け出せなくなった。
復員後、ミルンは一家ぜんぶをひきつれ、ロンドンから静かな田舎へ転居した。クロッチフォード農場という所。
ミルンにはひとりだけ子どもがいて、それがクリストファー・ロビンである。ビリー・ムーンという仇名で呼ばれていた。
ミルンはその息子と、アッシュダウンの森に、幾度も遊びに出かけた。しばしば息子はぬいぐるみを伴った。息子には、動物のぬいぐるみのコレクションがあった。
WWI出征前にミルンはすでに有名なエッセイスト兼雑誌編集者であった。戦間期には劇作でも名を成す。
児童向けの詩を書くようになったのも、戦間期にじぶんが父親となってからである。その詩の中に「クリストファー・ロビン」を登場させるようになった。
ロンドン動物園には、カナダのウィニペグ州から救出されたので「ウィニー」と名づけられた黒熊がいた。ミルンは息子と共にそれを見たのである。
「プー」というのは、息子が発する、かけ声のひとつであった。
それをひとつにして、クリストファー・ロビンが階段を引き摺り落として来るぬいぐるみに「ウィニー・ザ・プー」という名を与えたのは1925年の作中である。
息子から、プーの話を作ってくれとせがまれて、親父はさまざまな話を作ってやった。それがシリーズ化した。
プーは腹が減ったので、樹上の蜂の巣からはちみつをとってやろうと考える。まず泥の中でころげまわって姿を偽装し、青い風船につかまって上昇する。プーはハチミツ取りには成功しない。しかしそのキャラクターは、大成功した。
エレガントな挿絵をつけたのはアーネスト・H・シェパードである。すべて黒一色のエンピツ画であった。
この二人組が、『ウィニー・ザ・プー』シリーズの世界を創った。100エーカーの森と、動物〔のぬいぐるみ〕たちと、一人の少年。
話の基底に、わずかばかりの物憂さと哀しみがある。それは、回復不能だったミルンの精神受傷と関係がある。
シェパードの息子が持っていた「グラウラー(吠え屋)」という名のくまの縫いぐるみを、シェパードは造形の参考にしたという。
雑誌上に発表されたプーの短編童話をまとめた最初の単行本は、1926-10に刊行された。
※クリスマス商戦用のタイミングだ。
これは英国だけでなく、全世界でヒットした。
英国内だけで初版3万2000部。米国では年末までに15万部が売れた。戦前の『ハリーポッター』だったと言ってよい。
この大成功の陰で、クリストファー・ロビンのモデルとして知れ渡ってしまったビリー・ムーンは、世間から追っかけられ、ラジオの声優をさせられ、普通の少年時代を送ることが不可能になり、人生を掻き乱されることになった。これについては伝記作家の Ann Thwaite が詳しく調べている。
『プー』の単行本シリーズは、第四巻で終わっている。
有名人ビリー・ムーンは寄宿学校ではいじめられた。WWIIが始まると彼は熱烈に出征を望んだが、健康に問題があって志願が通らなかった。そこで親父の影響力を使って1942に陸軍工兵隊に入れてもらい、イラク、チュニジア、イタリア戦線を転戦する。ビリーはマラリアに罹患した上、砲弾の破片を頭部に受けた。反戦主義者になっていた親父はショックを受けた。
『プー』シリーズはいちども絶版になることなく、90年間、売れ続けている。すでに50の言語で、累計2000万部が刊行されているのだ。
ロシア人は、プーというキャラクターは、じぶんたちロシア人がモデルなのだと思っていたという。
ステファン・スレジンジャーは、「キャラクター」をメガ商品にしたビジネスのパイオニアだ。
彼はミルンから1000ドルで、北米におけるプーのキャラクター商売の権利を買った。ただしレコード印税や放映権料としてミルンには66%が行く仕組みだった。
プーはもともと全裸なのだが、スレジンジャーが赤シャツを着せた。
物語のサブキャラであるピグレット、カンガ、ティガーなどがビッグネームに昇格しているのも、スレジンジャーの商品化戦略のおかげなのだ。
スレジンジャーは1953に死没。権利を継承した未亡人は、1961年にそれをウォルト・ディズニー・プロダクションに売った。
ウォルトはこの権利取得を切望していた。というのは、彼の娘が、ミルンの諸作品のファンだったので。
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Joseph Trevithick 記者による2021-11-9記事「Former Afghan Pilots That Fled To Tajikistan Are Finally About To Leave With U.S. Help」。
アフガン崩壊の日にタジキスタンに脱出した、もと政府軍空軍パイロットや地上整備員など、約150人が、ようやく、第三国へ渡れることになった。
機体については、どうなるか、まだ決まっていない。
ウズベキスタンに逃亡したパイロットらはすでにUAEに移ることができている。
最終的には、彼らは米国に来るだろう。
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ストラテジーペイジの2021-11-9記事。
イタリアは6900万ドルを払って、手持ちの6機のリーパーに、ようやく、対地攻撃能力を付加できることになった。
いままでは偵察哨戒だけに使っていたが。
このリクエストは2011に出されていたが米国務省が渋り、4年間も許可を与えなかったのである。
しかし中共の2つのメーカーがプレデターもどきを中東に売りまくっているので、許可しないわけにいかなくなった。
欧州では、スペイン、イギリス、フランス、イタリア、オランダがリーパーを取得しているが、米国は最近まで、英国にのみ、空対地攻撃能力の実装を許可していたのであった。