9月に書き上げている話を、12月にならないと公刊してもらえぬという、このごろの出版環境の悪化には、困ってしまいますが、それだけに、著者の洞察力が時間の批判に堪えるのかどうかが、試されますよね。
タイトルは、『滅びゆく中国の最期の悪あがきから日本をどう守るか――国防秘策としてのプロスペクト理論(仮)』という長いものになると聞いています。
あと、《note》の《続・読書余論》に、いきなりたくさんの反応をいただいて、今朝は驚きました。管理人さんもリンクを張ってくださり、まことにありがとうございます。
まだ慣れてないので混乱してますが……。
次。
『Plane & Pilot』誌の2021-12-3記事「2021 Plane Of The Year & Innovation Awards」。
2021年の「飛行機オブザイヤー」は、オーストリーのメーカーが十年以上かけて開発した「ダイヤモンドDA50」だ。欧州航空安全庁EASAの型式を2020年に取得したばかり。
エンジンは「CD-300」6気筒のターボディーゼルで、常続270馬力で回せる。ディーゼルなのに6気筒ガソリンより静粛化されている。
フレームと主翼はカーボンファイバー。空虚重量3175ポンド。最大離陸重量4407ポンド。
5人乗れる。
与圧がないので高度は1万6000フィートまで。そこで最大巡航速度180ノットを出せる。
ゆっくり飛べば最大750海里飛べる。
「CD-300」の燃費は、270馬力を出しているとき、毎時9ガロン。
これは、315馬力の「TSIO-550」ガソリンエンジンの約半分である。
「DA50」機内の燃料容量は50ガロン。油種は「ジェットA」燃料。
ウイングスパン44フィート、全高10フィートは、単発プロペラ機としてはちと大きい。
次。
Aaron Mehta 記者による2021-12-3記事「Updated B61 nuclear warhead enters production」。
米国原子力安全委員会NNSAは、投下水爆の最新型である「B61-12」の量産に入ったと声明した。木曜日に。
NNSAは、米エネルギー省の中にある。核兵器の開発を総合監督するのは国防総省なのだが、核弾頭の製造はNNSAの直轄になっている。
「B61」投下水爆には「-3」「-4」「-7」「-11」というバージョンがあった。このたびの「B61-12」は、それら古い4バージョンをすべて更新するものである。コアも新型だし、爆弾全体のデザインも新しい。
正確さが増し、出力は加減して抑制することが可能になっている。
「B61-12」は、F-15戦闘機、F-16戦闘機、そしてB-2爆撃機から投下できる。NATOの同盟国も、ロシアが核攻撃してきたら、米国から「B61」を供給されて、それを自軍の戦闘機によってモスクワに落とすことができる。
FY2025からは、巡航ミサイル用の改良核弾頭である「W80-4」の量産が始まる。FY2030からはICBM用の改良核弾頭である「W87-1」の量産も始まる予定。
※オーストラリアよりもGDPが小さくなりそうな趨勢のロシアが何ゆえに米国に対していつまでも虚勢を張っていられるのかというと、「対米戦略核パリティ」と「戦術核の脅し」。これがある限り、米国大統領は、ロシアが何をしようが黙認するしかないのである。そしてロシアの独裁政権は、プロスペクト理論の内政への応用によって、半永久に安泰でいられる。習近平は、このプーチンの真似をするのが一番いいと決心した。米国は、せいぜい「B61」の宣伝をすることで、抑止を図るしかない。
次。
「Command on the Somme」という戦史の記事。
第一次大戦の「ソンム会戦」は、英陸軍としては忘れようとしても忘れることができない。
じっさい、こんな戦術は二度と反復しないという命題が、英陸軍と英政府にとって、戦後に絶対化したのである。
なにしろ、1916-7-1のたった1日だけで、英軍将兵1万9000人以上が、戦死してしまったのだ。
これより酷い戦いは、英陸軍は、その前もその後も、経験していない。
ソンム会戦は、141日間続いた。7月1日は、その開始日であった。
連合軍は、フランスのジョフル元帥が1915後半に建てた方針に同意し、西部の全戦線で対峙する独軍に攻勢をかけることになった。
このマスタープランの一環が、ソンムでの攻勢である。
戦場にはソンム川が流れていて、英軍と仏軍は、その川を分界線にしていた。
ほんらいは、仏軍が攻勢の中心的役割を担うはずだった。
しかし仏軍は1916-2にヴェルダンを独軍に攻められ、その防衛のためにおびただしい人命を消耗した。そのためソンム攻勢の実施の段になると、まったく英軍の元気に期待を寄せるしかなくなっていた。
英軍司令官のヘイグは、攻勢作戦のプランニングに最初から加わっていなかった。後から仏軍のプランに同意して協力していたのである。
ヘイグが率いていた英軍将兵は、1915年より前に志願してきた者たちで、士気は高いが、まだ実戦に慣れていなかった。
ジョフルの希望は、ソンムで英軍が猛攻をしてくれれば、ヴェルダンの仏軍が助かる、というものだった。
ヘイグの麾下で攻撃部隊を率いるローリンソン将軍は、砲兵のぶあつい支援が得られない距離まで急速前進したくはなかった。英軍には重砲(9.2インチ榴弾砲と4.5インチ榴弾砲)の弾薬が足りていなかった。
英軍砲兵隊は、攻撃前進前の準備砲撃を1週間続けたが、独軍の機関銃も野砲も、撲滅されずに残っていた。
塹壕を勇敢に飛び出した英兵たちは、仏軍がすでに65万人の犠牲を払って学習していたことを、一から同じように学習することになった。
教訓は学習され、戦術は会戦の期間中にも急速に進化した。
野砲の榴霰弾の補給がいくらあろうと、塹壕内の敵兵に対して殺傷力がゼロで、現代では何の価値もないこと。
※くわしくは拙著『有坂銃』を読むと理解できるでしょう。榴霰弾は、真上から散弾が降って来るものではないのです。榴弾の曳火射撃とはまったく別物。
歩兵は夜のあいだにできるだけ敵陣の近くまでにじり寄っておくべきこと。攻勢にも機関銃を多用すべきこと。そして、戦車。
5ヵ月後、ソンムでは連合軍が60万人、独軍が50万人、戦死傷もしくは捕虜となった。
※ロシア政府の情報工作セクションとしては、戦死者が多かった過去の戦争のイメージをNATO諸国内の銃後のあいだに喚起することで、「戦争の脅し」の効果を高めたいでしょう。これからこの種の記事がネット上に不思議に増えるのではないかと予想します。
(管理人Uより)
noteのページはこちらでございます。お買い上げを、お買い上げを、どうかよろしくお願いします。
兵頭二十八 note
https://note.com/187326mg/