もう9時近くかよ!

 Bradley Perrett 記者による2021-12-1記事「How the RAN can get eight nuclear submarines by 2038」。
   この記事を書いているのは豪州人だが、アデレードの造船所でこれから原潜を建造するなどというのは夢物語であり、2040まで1隻も仕上がらないことは確実だとする。となれば次善オプションは何か。米国か英国に建造を頼むしかない。そして、年に2隻のSSNを量産できている米国の方が、まちがいなく英国よりも供給力に弾撥性があるとする。

 ※この具体的な数字に満ちた論評記事を読むと、いったい英国政府は豪州政府に何をさせたかったのだろうかという、ふりだしの疑問にまた戻ってしまう。ひとつだけ確かに思えるのは、英政府は仏政府とは将来の機微情報の共有はできないとハッキリ見通している。だから仏原潜を豪海軍が買えばいいというオプションは排除された。そしておそらく、大型の非核動力潜水艦であっても、情報系艤装と兵装制御系艤装に仏系機材が使われて行けば、やがて、(戦略級)防衛機微情報の米英豪間コントロールという点でどうしてもまずいことになると予想したのだろう。つまり2040以前の短期の課題――たとえば中共を監視し実戦で亡ぼすこと――よりも、むしろその先の一層長期の《世界経営》の方を重視したいのだろう。このことは、英政府としては中共体制がまもなく自滅に逢着することはもはや未来史の必然にすぎないと見切っていることも意味するのかもしれない。

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 Michael Peck 記者による2021-12-4記事「Russia Has Deployed Its First Terminator Tanks」。
    ロシアの第90親衛戦車師団に9両の「BMPT-72」が配備された。この装軌式戦闘装甲車は、無人戦闘ロボットである。人は乗らない。
 機能は、有人の味方戦車に随行して、味方戦車を支援すること。機関砲によって敵歩兵を火制してくれる。

 同師団の所在地はスヴェルドルフスクとチェリャビンスク。ウラル地方である。

 BMPT-72はすでにシリアに持ち込まれている。まだ実戦には出動していないが、それも時間の問題か。

 BMPT-72は、膨大なサープラスのある「T-72」戦車のシャシに、双連の30ミリ機関砲塔を乗せている。さらに、4発の「アタカ」対戦車ミサイルと、2門の30ミリ自動擲弾発射銃、そして1門の重機関銃(14.5ミリもしくは12.7ミリ)。

 1993末にチェチェンのグロズヌイ市になだれ込んだ露軍の戦車と装甲車が、市街のビルから発射された対戦車ロケット弾によって数百両も破壊された。その経験から、無人の「戦車支援戦闘車」の必要が認識された。

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 ストラテジーペイジの2021-12-5記事。
   ウクライナは2020前半に2700万ドル分の「FGM-148E ジャヴェリン」対戦車ミサイルを米国から購入した。(2018に無料で貰っていた分があるが、それに追加して。)
 ジャヴェリンはミサイル本体が1発11万2000ドルもする。発射器の方は13万ドルするが、これは使い捨てではない。

 米国メーカーはジャヴェリンを2002年から量産している。実戦ではすでに5000発も発射されている。
 それらユーザーからの意見は逐次に製品の改良に反映されてきた。

 「148F」は2020から製造されている最新型である。
 飛翔体は重さ22.3kgで、この重さには発射チューブと電池、センサー冷却用ガスボンベの重さが含まれる。
 発射器は、重さ6.4kg。

 光学照準器は、昼用は4倍、夜間用は熱線イメージ画像で9倍。

 弾頭重量は8.2kgで、タンデムである。
 照準眼鏡のクロスヘアにターゲットを合わせて引き金をひけば、ミサイルは空高く飛び上がるが、そのシーカーはターゲットにロックオンし続けており、敵戦車の頭上から、正確に着弾する。発射員は発射後は誘導を続ける必要がなく、すぐに場所を変えてしまえる。

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 Peter Feuerherd 記者による2017-11-8記事「The Dangers of Gone With The Wind‘s Romantic Vision of the Old South」。
   マーガレット・ミッチェルは1900年うまれ。彼女の小説『風と共に去りぬ』は1936年に刊行された。たちまちベストセラーとなった。

 初版が20万部であったが、半年のうちに100万部を突破したのである。

 この小説は、文学というよりもプロパガンダだと受け止められた。
 奴隷の境遇は少しも過酷ではないように描写されていた。

 ドイツ語に訳されると、ドイツでは、この話に描かれる南部は、WWIに敗れたドイツそのものだと受け止められた。

 そして1944年10月には、あらためてこの小説の評論が新聞に載り、ドイツ本土に迫ってくる連合軍と、アトランタに迫る北軍とが、重ねあわされた。

 ミッチェルは1949年に交通事故死している。

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 ttps://www.filmsite.org/warfilms.html という記事の一部。
    史上初の戦争映画は、90秒の尺におさめられた『スペインの旗を引き裂く(Tearing Down the Spanish Flag)』(1898)である。まさに米西戦争の年。ハヴァナ市を攻略した米陸軍部隊が、スペイン国旗を撤去して、星条旗に換える。その模様の「再現ドキュメント」であった。

 WWI中の1915年には『平和のための鯨波(Battle Cry of Peace)』がサイレントで製作された。
 もし欧州軍がNYCに攻めてきたらこうなるんだぞ、と米国市民を脅すフィクション。

 1918には『オーヴァー・ザ・トップ』が製作されている。1915-5の『ルシタニア』号事件を題材とし、憤激した米国男性が義勇志願して英陸軍に加わる。

 ハリウッドは1915以前は、戦争映画をつくりたくなかった。製作費用は莫大になるし、戦争賛成にしても戦争反対にしても、テーマが大衆にウケるわけがないと思っていた。まして南北戦争となると、扱いが非常に難しい。しかし南部と北部の2つの家族をとりあげた小説の『クランズマン』を1915に映画化した『米国民の誕生(The Birth Of A Nation)』が、南北戦争の戦場パノラマ再現を試みて、大当たりしたので、プロデューサーたちの認識はやや変わる。

 それでも南北戦争の映画は多くはない。1939に『Gone with the Wind』が映画化された。その次は1965の『シェナンドー川西岸』、1976の『無法者ジョーズィー・ウェイルズ』、1989の『Glory』、1993の『ゲティスバーグ』、2003の『神々と将軍たち(Gods and Generals)』。

 米国が1917-4にWWIに参戦すると、映画産業が態度を一変させて国策協賛映画で稼ごうとしたのは当然である。

 代表作として、1917の『彼方へ(オーバー・ゼア)』。

 1918の『Hearts of the World』では、西部戦線の英軍と仏軍が映画に出演。実戦のフィルムが挿入されている。ハリウッドに、英政府と仏政府が協力したのだ。

 WWIで欧州映画産業界が壊滅したことにより、1919以後の世界の映画供給はハリウッドスタジオおよびニューヨーク資本の支配下に入った。
 戦間期の気分をあらわす反戦映画も作られる。1921ヴァレンティノ主演の『黙示録の四人の騎士』。

 米国がそのデモクラシーを自慢する気風を反映し、独立戦争を扱った『アメリカ』も1924に製作された。

 出自のまるで異なる男たちがひとつの塹壕の中でもがく、リアリズムの戦争シーンを取り入れた作品が1921に作られている。『ビッグ・パレード』。

 これがMGMのドル箱になったことから、同社は20年代に戦争映画を量産した。
 1926の『海兵隊に語れ』は、同年の『肉と悪魔』の次に儲かった。

 空中戦をスタジオでなく空中でロケした最初の戦争映画は1927の『ウィングズ』である。

 トーキー技術が導入されると、富豪のハワード・ヒューズは1930に『ヘルズ・エンジェルズ』を作らせた。WWI中の空戦映画。

 同年には、記念碑的な反戦映画の『西部戦線異常なし』も製作されている。※もちろん原作小説がその前に存在する。

 若いドイツ兵士たちの視点からWWIを描いた『グレート・ウォー』は反戦映画の金字塔。砲弾痕から手を延ばして蝶に触れようとすると、仏兵が狙撃したライフルの着弾音が響く。それがラストで、エンドロールは、十字架で埋め尽くされた丘に向かって行進する幽霊兵たちのインポーズ。

 ドイツでも1930に『1918年の同士兵たち』という反戦トーキー映画が作られている。英語圏では『西部戦線1918』というタイトル。

 1930には、景気の良い戦争映画も作られている。代表が『暁の哨戒飛行』。WWIの仏戦線における英国航空隊の活躍を描いた。8年後にまたリメイクされている。

 1936には『英国軽騎兵の突撃』が製作されている。これは19世紀のクリミア戦争で伝令兵がまちがった命令を伝えて、トルコ軍の砲兵陣地に軽騎兵だけが突撃して全滅した史実を称揚するもの。
 ※この出来事を詠んだテニソンの詩が日本の初期の軍歌等にいろいろと流用されてるんですよという話をず~っと前にどこかに書いたっけな。

 1932にはヘミンクウェイの原作小説が映画化された。『武器よさらば』。

 1930年代のアメリカ外交は、孤立主義に傾いた。そのため30年代を通じて、戦争映画の製作数は減少した。

 仏人監督のジャン・ルノワールは1937に『大いなる幻想』をつくり、1916のドイツ国内の捕虜収容所からじぶんは脱走すべきかどうか悩むフランス貴族を描いた。

 1939年にドイツのポーランド侵攻でWWIIが始まると、英国の映画監督たちが、米国民に対する宣伝工作を開始した。独伊の脅威を対岸の火だと思っているとたいへんなことになるぞ、と。

 ヒッチコックの1940の『海外特派員』は、アメリカ人は今すぐに参戦しろ、と促した、工作映画である。

 1940のチャプリンの『偉大なる独裁者』については、言うまでもなかろう。

 1939の『あるナチ・スパイの告白』は米国内で製作され、諜報網に気をつけろと米国民に警告する映画であった。

 英国と米国の紐帯を強調し、すぐにも英国を救うべきだという世論工作映画が、1940の『ウォータールー橋』である。ヴィヴァン・リー(英国籍)とロバート・テイラー共演。

 1941の『ヨーク軍曹』は、WWI中のヒーローをとりあげることで、米国民に、対独参戦の心の準備をさせている。

 1941の『RAFの米人パイロット(A Yank in the R.A.F. )』は、もはやWWIの話ではなく、現在進行形でドイツと戦争している英軍に義勇兵として加わって空戦しているという話。タイロン・パワー主演。

 1941のワーナーの『急降下爆撃機(ダイブ・ボマー)』は評判になった。

 米国が参戦したあとに、英国内で、ダメ押しの対米宣伝工作をしたのが、1942の『ミニヴァー夫人』。英国の中流階級がドイツ軍機の空襲下でどんな生活をしているか、米国銃後の間に共感をかきたてようとして大成功した。

 ※こんな記事を読んでいたらすっかり時刻が遅くなってしまった!