TIA GOLDENBERG 記者による2021-12-30記事「Israeli environment minister says UAE oil deal is blocked」。
イスラエルの環境相は火曜日に明かした。
UAEからタンカーで、紅海海岸にあるイスラエルのエイラート港まで原油を運び、そこからパイプラインでイスラエル地上部経由、西欧市場まで送り届けよう――という大がかりなプロジェクトの秘密交渉が、ダメになったと。
パイプラインの起点=タンカー集中予定海面は、スキューバダイビングの観光スポットだった。
これはイスラエルの国有企業にいろいろ指図ができる法務省からの反対を受けて決定されたという。
計画していた企業の「ヨーロッパ~アジア・パイプライン社」(EAPC)はイスラエル国有の謎めいた企業で、1960年に、シャー時代のイランの原油をとりあつうため設立された。もうひとつの「地中海~紅海ランドブリッヂ社」はイスラエルとUAEの合弁だった。
協定文書は米ホワイトハウス内で2020に調印されていた。
しかしエイラート湾には珊瑚礁があり、環境団体はこの計画に反対して裁判を起こしていた。
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Rob Horgan 記者による2021-12-22記事「Arup joins consortium to explore deep geothermal energy projects in Northern Ireland」。
ニュージーランド、アイスランド、ドイツでは、地下の高温の地盤に淡水を注入して加温せしめ、その蒸気の力で発電している。
この深部ジオサーマル発電を、北アイルランドでも始めようとしている。
北アイルランドの地下には温度の高い花崗岩盤がある。これを利用しない手はないのだ。
計画では地下5000mまで縦坑を掘り、摂氏160度のスチームを得る。それで発電タービンを駆動させる。
水は、フラクチャリングのように岩の隙間に注入したりはしないので、その点、環境には安全だと強調されている。
※日本では温泉地の近くで地熱発電を開発すると泉量が減るとかいう懸念が近傍温泉街から表明されるために発電計画が阻止されるが、ほんとうに阿呆しかいないのかこの国は。アルミで「U字パイプ」をこしらえて地中岩盤まで到達せしめ、そこに貯水池の淡水を循環させるだけで問題は解決するじゃないか。永久機関だよ。
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Pawe? Makowiec 記者による2021-12-29記事「New Vision of the Land Battle. Russian Lessons Learned – Nagorno Karabakh」。
ロシアの軍人たちはナゴルノカラバフ戦争のことを「戦車対ドローン戦争」と呼んでいるそうだ。
アルメニア軍の機甲戦力は最前線から15kmも後方に下げられていたためほとんど前線救援の役には立たなかった。
アルメニア軍の野戦築城には対空遮蔽の着意がまったくなかった。
アルメニア側の仕掛けた地雷原は密度も縦深もまるで不十分であった。
重要な防御拠点へのアクセス路が交通壕化されていなかった。
アルメニア軍の車両には偽装網が皆無であった。
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「Famine 1932 – 1933」。
Fiona Watson 記者による2016-6-23記事「One Hundred Years of Famine」および Sam Kean 記者による2017-12-19記事「The Soviet Era’s Deadliest Scientist Is Regaining Popularity in Russia」から。
ウクライナのノルカ地方では1924年に飢饉があり、そこからようやく持ち直そうとしていた1928、スターリンが「第一次五ヵ年計画」をおっぱじめやがった。
この計画は、鉄鋼の生産を2倍に、豚生産を3倍に、農業用トラクターの生産を3倍にする、と標榜。
コルホーズで農業を集団化させ、それを国家が搾取することで工業へ投資しようというもの。
農場の集団化は、1929に、突如、何の準備もなしに強制された。
自営農家たちは、所有物と生産物をみずから破却することでこの政策に抵抗した。
ソ連政府は抵抗農家を「富農」とレッテル貼りして、強制収容所送りにした。逮捕に抵抗した者は処断。
農業生産は前年よりも4割低下した。
「赤馬車」が農場を巡回したのは1931年から33年にかけてである。赤く塗装した荷車に穀物を強制的に集めて徴集した。
これらの穀物は、黒海経由、西欧諸国への輸出に廻され、外貨を稼ぐ。それがソ連政府の歳入になり、工業投資の原資となった。
スターリンは提灯学者のルイセンコの学説によって自己の無謬の根拠とした。これによって農業壊滅は長引き、農村部で餓死者が急増する。
1926から1930年のあいだ、ソ連の農民は、通常の「三分の二」の穀物摂取量で生きることを強いられた。
スターリンは、コサックが多く、もともとロシアには反抗的なウクライナや、ドイツ系が住むヴォルガ中流域の人民を特に弱めるために、飢餓を利用した。1931に、ウクライナ以外の農村へは救恤小麦が配給されたが、ウクライナ人は餓死するに任せられた。
1932春の飢饉はおそろしいものだったが、1933春はさらにそれに輪をかけて酷くなった。
ワシーリィ・グロスマンは記録する。春に雪が融けると、真の飢餓が始まった。ネズミ、スズメが捕えられて食べられた。さらには蟻、ミミズが食べられた。
すべての動物の骨は粉砕され、穀物粉の中に混ぜられた。さらには皮革類までも。
春草が成長し始めると、根から掘られて、すべて食糧にされた。牛蒡、青花草類、柳樹根、GCPのセダム類、いらくさ……。
死体集め部隊が編成され、ウクライナのストリートと住宅を回り、餓死者の屍骸を荷車に載せて、集団埋葬地の穴に放り込んだ。それゆえ今日、ウクライナの至る所の地面から人骨が出るのである。
ハリコフ市に駐在していたイタリア領事による報告。人肉を売り買いする市場が成長しつつある。
当局は「死んだ子供を食べるのは野蛮人だ」と警告するポスターを貼らねばならなくなった。
都市部にはまだ食糧が集まっていた。だから地方から都市部への必死の流民が発生した。ハリコフ駅では1932年、毎朝、250人の餓死者を、警察が回収しなければならなかった。
この期間にウクライナ住民の10%から25%、数にして500万人から800万人が、餓死したと推計されている。