NICK PERRY 記者による2022-1-15記事「Military flights sent to assess Tonga damage after volcanic eruption」。
ニュージーランドはP-3Cのほかに軍の輸送機をトンガへ飛ばして飲料水などを届ける。
海底の光ケーブル1系統を所有する会社いわく、たぶん爆発で切断された。復旧には数週間かかると。
この海底ケーブル断線の影響でトンガはインターネットからも電話からも切り離されている。
ラトガー大学のアラン・ロボック教授いわく。こんかいの噴火で放出された二酸化硫黄ガスによる地球平均気温の低下は摂氏0.01度であろうと。これは衛星写真からの判定だという。
※世界凶作にはならん、ということ。
フィージーからトンガにつながる海底ケーブルの会社は「トンガ・ケーブル」という。その社長いわく、噴火から10分後に切れた。ケーブルは珊瑚礁の上を這わせているので、珊瑚がナイフのように作用して、切れてしまうのだ。
したがって切断箇所は数箇所である可能性がある。そうなると修理には3週間かかる。1箇所だけなら1週間で済む。作業は、ケーブルを船で水面上まで引っ張り上げて、切れた場所がないか点検して行く。修理は船上でできる。
しかしその船がすぐに安全に現場には接近できないこともあり得る。
もう1本の海底ケーブルも切れたように見えると。
トンガ諸島内の電話網は、生きている。だから島民同士は通話連絡が可能だ。
しかし外部との衛星電話回線は、つながりにくい。これは、ぶ厚い灰の雲が、衛星と地上局との間の通信の電波信号をブロックしてしまっているため。
いぜんからトンガとしては、NZとのあいだにもう1本、海底ケーブルをつなげて、こんな場合にも情報孤絶しないようにはからっておきたかったのだが、なにしろトンガ住民はたったの10万5000人で、しかもNZとの距離がメチャ長く、NZとしてそんなケーブル敷設費用は負担できない。もちろんトンガにもその資力は無い。
じつは3年前、1隻の船が錨をひきずってトンガの海底ケーブルを切ってしまったことがある。このときは衛星通信が普通に使えたので、修理されるまでのあいだ、それで凌ぐことができた。
米政府機関の見積もりでは、こんどの噴火は、マグニチュード5.8の地震に相当したと。そして、地震ではなく、噴火が津波をひきおこした、レアケースになった。
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Zach Dorfman 記者による2022-1-14記事「CIA-trained Ukrainian paramilitaries may take central role if Russia invades」。
2015年からCIAは、米国南部の某所で、ウクライナの特殊部隊や情報局員を、トレーニングしてやっていたという。
露軍が侵攻してきた場合、パラミリタリーな抵抗力を、これらの人員が、維持させる。
国土を占領されても、ゲリラ戦が、延々と続くようにしてやるのだ。
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SOFREP の2022-1-16記事「The Executioner As A Profession In Medieval Times」。
死刑執行人の中には、世間から尊敬されていた者もいた。
基本的に、中世欧州の処刑人は、もともと犯罪者の中からリクルートされていた。
ある記録。1470年にスウェーデンのアルボガという町で1人の貧しい泥棒が絞首刑を待っていたところ、見物人たちが同情し、処刑人に就任するなら死刑を免じてやろうと持ちかけ、男はそれを呑んだ。その男の胴体には、泥棒のマークと、処刑人のマークが、ふたつ、焼きごてで刻印された。
17世紀のスカンジナビアではもっとおそろしい「識別」がつけられた。処刑人は両耳を切り落とされた。群衆の中でも見分けがつくように。またときには、顔中に、死刑執行人の印を焼き鏝で押されたという。
多くの死刑執行人は、町の中に住むことも許されず、市民権は持てず、教会、酒場など公共施設へは立ち入りが認められなかった。
処刑人が首から上にフードをかぶることは、じつは、あまりなかったという。死刑囚の仲間からの報復を恐れねばならぬ場合のみ、顔を隠していた。
執行時には、上半身裸であった。これには威嚇効果と、返り血が衣類につかないメリットがあった。
執行に先立ち、処刑人は、首台の上に斧を振り下ろす練習をやってみせる。これは、観衆を湧かせるための、おきまりの所作だった。
悪いことばかりではなかった。処刑人の金銭収入は、なかなかのものであった。
こんな記録もある。首切りや絞首刑を執行するたび、彼は5シリングを受け取った。また役得として、死刑囚のベルトから下にあるものはすべて、処刑人の所有にしてよかった。
この5シリングというのは、一般の小商人が25日働いて得られた額に匹敵した。
17世紀のドイツの処刑人、フランツ・シュミットは、副業として医師でもあった。人体構造に精通しているので、軽い病気の治療に頼りにされたという。
シュミットは50年間も処刑に従事しつづけたが、担当処刑数は394件。それに対して、治療施術してやった患者の数は1万5000人にのぼるという。死後の地獄行きを避けるため、善行を積みたいという気持ちもあったのかもしれない。
彼はニュルンベルクの市民権も獲得している。
★《続・読書余論》菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』昭和26年~30年刊・他