次は後備役動員か?

 Mark Trevelyan 記者による2022-5-20記事「Struggling in Ukraine, Russia paves way to sign up over-40s for army」。
   戦況が芳しくない上に事態の長期化が予想されていることからロシア議会には、40歳以上のロシア国民や、30歳以上の外国人も、ロシア軍に入営させられるように、兵役法を改正する動きがある。

 特に前線から求められているのは、電子通信系のエンジニアらしい。ターゲット年齢は40歳から45歳。そのくらいの年齢の民間人に、エキスパートが多いからだ。医療関係者も、欲しい。

 これまでの兵役法では、41歳以上のロシア人や、31歳以上の外国人は、徴兵や召集の対象外であった。しかしそれも変える。

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 ストラテジーペイジの2022-5-20記事。
   NATOがウクライナ軍を情報面で支援するときに最大の活躍をしているのはAWACS機である。
 衛星が撮った写真を他国に見せるには、いろいろと面倒があって、手続きに数日はかかるものである。
 しかしAWACS機からの警報は、リアルタイムに出すことができるのだ。

 米軍のISR用航空機としては他に、電子情報を収集するRC-135や、地上をレーダーで斜めに撮影できるE-8などもある。しかしこれらのデータもリアルタイムに他国に渡せるものではない。

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 William Leben 記者による2022-5-19記事「Let’s hold our horses on drawing lessons from war in Ukraine」。
    ナゴルノカラバフ紛争でアゼルバイジャン側が勝利するのに不可欠だったのは、激しい地上戦だった。
 当初はドローンの活躍ばかりが注目されたが、さいきん、ドローンは戦争の勝敗を決めたのではなかったことが認定されるようになった。

 というわけで80日ばかりの現在進行中の戦争の教訓総括を求めるのは、まだ早いぞ。

 ※わたしの承知するかぎり、未だ、次のことを研究してくれた人がいない。すなわち、敵国の都市に対する砲爆撃やその脅しによって、敵国の都市や首都政府が屈服する場合としない場合の、分かれ目についてである。第一次大戦以前には、「都市の開城」「オープンシティ宣言」は、よくあり得た。しかしWWII以後は皆無なのではないか? 1980年代のイラン対イラク戦争では、互いに数百発の地対地ミサイルを都市に打ち込んだが、どちらの住民の敵愾心も低下していない。その戦訓を汲むならば、今次ウクライナ戦争のロシア軍は、地対地ミサイル(または長射程ロケット弾)の使い処を間違えているとしかいいようがないのだが、それを都市に向けて使えと命じているのは、半死人のプーチン様なのだろう。プーチン個人の政治的ヘイトだけがそれを合理化・正当化しているわけだ。軍事的には下策でも、政治的には最高快楽なのだ。ということは、来たる台湾防衛戦争でも、次のようなパターンが生ずるだろう。中共軍は、それが無駄と知りつつ、2000発の地対地ミサイルで台湾の諸都市を破壊する。しかし台湾国民の敵愾心は少しも衰えず、却って台湾国内は侵略者に対して固く団結し、台湾の航空基地は機能を維持し続ける。したがって侵略は成功しない。そうなってしまうとわかっていても、儒教圏指導者の「面子=ヘイト」は、そのミサイル浪費戦策を、避けることはできないのである。

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 軍事史の記事「The Nazi Invasion of Yugoslavia and Greece」。
   枢軸国は東欧侵略は順調に進んだが、バルカンはぐだぐだだった。
 まずイタリアが1940-10にギリシャに侵攻。ところが撃退され、アルバニアに退却した。

 そこでドイツがユーゴスラビアに圧力をかけ、枢軸に加わるように促した。すでにルーマニア、ハンガリー、ブルガリアは、枢軸に加わっていたのだ。
 ユーゴスラビアの君主は、1941-3-25に、ドイツとの同盟条約に署名した。

 ところがこれに、ナショナリスト軍が激しく反発して、クーデターで君主を放逐。
 ヒトラーは、ユーゴスラビアは敵国になったとみなし、ベルグラードを空爆させた。

 1941年4月6日、ドイツ率いる枢軸軍(ハンガリーとイタリア)はユーゴスラビアに地上進攻する。
 4月17日、ユーゴスラビア陸軍は無条件降伏した。

 その同じ日、枢軸軍はブルガリア経由でギリシャにも攻め入った。
 だが、ギリシャ軍と英国派遣軍の強い抵抗に遭う。

 最終的にはバルカン半島はドイツが制圧できたが、ここで手間取った時間は大きかった。次のソ連侵攻作戦の開始を遅くしてしまったのである。

 バルカン半島の英軍は、駆逐艦によって脱出した。

 ベルグラードは爆撃をまぬがれるためオープンシティ宣言。

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 Ellen Castelow 記者による記事「Black Monday 1360」。
    1360年4月13日、百年戦争に出征していた英軍部隊の頭上に尋常でない雹が降って、1000人以上が死亡した。これを英国人は「ブラック・マンデー」と称した。

 1337年いらい英軍は仏軍と戦争状態にあったわけだが、その間、こんなにたくさんの戦死者が出たことはいちどもなかった。

 1359年10月に英仏海峡をおしわたったエドワード3世の軍勢は、パリに向けて進軍を続け、4月13日には、シャルトルの攻囲にかかった。
 その夜、突然、風が吹き始めた。英軍はテントを張って野営していたのだが、冷たい雨と烈風、さらに巨大な雹のために、テントは潰された。降雹は30分間続き、馬6000頭以上が死んだ。大パニックだった。

 エドワードは神の怒りが恐ろしくなり、1360-5-8にフランスと和平条約を結ぶ。
 エドワードはフランス王位の主張を引っ込め、アキテーヌ地方とカレーをフランスに領土返還した。
 かたやフランスは、英国内で捕虜となっていた王様の身代金を支払った。

 9年後、英仏は戦争を再開する。百年戦争は、そこでは終わらなかったのだ。

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 軍事史の記事「The Sinking of the Cap Arcona」。
   『Cap Arcona』はドイツの豪華客船だった。蒸気タービン・エンジンだから、速くて静か。1927-11に、ハンブルクと南米の間の航路に就航した。

 船名は、バルト海のルゲン島にあるアルコナ岬にちなむ。

 1940、ドイツ海軍はこの客船を徴用し、バルト海に繋留して水兵用のホテルシップにした。

 1943にこのフネをセットに使って、ドイツ版の映画『タイタニック』が撮影されている。2005年以降、その完全版を一般人も鑑賞できるようになっている。

 大戦末期のバルト海におけるドイツ海軍の使命は、ソ連軍が押してくるのにともなっておびただしく発生したドイツ系の避難民を、できるだけ船で運んでやることだった。

 1944年末から翌年の5月まで、このような避難民は200万人にのぼったのである。

 避難民を満載して沈んだ船もある。たとえば『Wilhelm Gustlof』は2万5000人、『Goya』は1万5000人を乗せたまま、海没した。

 それでもドイツ海軍はあらゆる船舶を動員して避難民の輸送に尽力した。

 『Cap Arcona』は、終戦の数週間前に避難民救出任務を与えられ、東欧の港へ3往復し、2万6000人の住民をピックアップして、西航した。

 1945-4、『Cap Arcona』は、ノイシュタット湾へ行き、そこで、強制収容所に入れられていた囚人4500人を乗せるように命じられた。「洋上強制収容所」である。虜囚たちはハンブルク近くのノイエンガメ収容所から徒歩で移動させられてきた。その収容は1945-4-28に完了した。

 1945-5-3、すなわちヒトラー自殺の翌日にして、デーニッツ降伏の4日前だが、英軍のホーカー・タイフーン編隊がこの船を爆撃した。『Cap Arcona』は炎上し、転覆した。

 船と運命をともにせずに洋上に浮いている囚人たちは、タイフーンの機銃掃射と、看守のSSからの射撃にさらされた。

 4500人のうち、生き残ったのは350人だけであった。