江戸人の優越感

 「核戦争」と「核抑止」は、同じ時間に同じ場所では存在できません。
 MD(ミサイルディフェンス)の迎撃ミサイルを発射する事態とは、核抑止が消えてなくなっている事態です。相手はもう核兵器をわが国に向けて投射しちゃってるんですからね。それは「核戦争」の事態そのものです。
 つまりMDとは、これは限定核戦争の道具なので、抑止の道具なんかじゃありません。抑止というのは、敵に1発目の核兵器をはじめから投射させないことです。敵には航空機内臓核爆弾もあり、宅配便の核爆弾もあるでしょう。その行使を抑止できるのは、何ですか? わが国による即時同害懲罰能力の担保、すなわち核反撃戦力のスタンバイとその運用の意志の宣伝──だけです。
 核武装をしていない日本にとっては大して役に立たぬMDを「あたらしい核抑止」などと強弁した米国政府の詐術にひっかかっている防衛庁と日本政府は、要するに言語操作能力が米国の政治家より劣っているために、日本国民の権力を危うくしているんです。
 前に2chにときどき得意気な質問をする人がいるのを見掛けました。「軍事力で世の中の何が解決されているか?」と一つ覚えの書き込みです。
 Answerは「右目を開け。左目も開け。そこにある。」
 つまりこの世の現実が答えそのものなのですがそれが見えないのでしょう。昔からあきめくらと申します。心の盲いた者を導ける理性の言葉は残念ですがあり得ません。
 核戦争と核抑止の違いが分からない人がいるのは一体なぜなのか。どうも、要するに暴力の効能を認めたくないらしいのです。
 司法や行政で解決されるよりも多くのことが日々、諸主体の暴力を背景とする「抑止力」によって解決されている。この現実が見えない。見ても、認知し得ない。
 暴力の効能を見たくないとすれば権力の実相は見えない。権力の姿形が見えなければ政治は分からない。政治が分からないのは人間が分からない。マキャベリは人間を誰よりも深く観察していましたから政治が分かった。しかし、それをそっくり文章に致しましても没理性漢にはとうてい理解不能だということまでもよく観察をしておりましたから、やさしいイタリア語で、話を極端に単純化しまして、以て代表的ルネサンス人に教えようとしたのです。しかし、十分にやさくし、単純化すればしたで、「一行罵詈」を止めない没理性漢はいつの世にも現れます。マキャベリにはそれさえ予測の範囲でした。
 核抑止の話も、単純化して説いてきかせれば理解されるわけでもないというのは、兵頭が10年も前に体験したことで、いまさら驚きはしません。
 けれどもさいきんこの兵頭が聞いて驚く、と申しますより、ほとほとあきれますのは、100年以上前の勝海舟の金言:「みんな敵がいい」の精神が、ぜんぜん民族の血肉とは化さないことですね。すなわち近代日本の個人がすっかり「近代人」とはなれないで、シナ人や朝鮮人といまだに五十歩百歩の迷走をし続けていることです。
 李登輝さんは日本人の耳に心地の良いことを仰いますが、それは大東亜戦争中に宋美齢の反日演説がアメリカのマスメディアの耳に心地よかったのと、そんなに違うんですか?
 台湾国はげんざい日本国の敵ではないが、将来いつか敵にならないと、誰が断言できるんでしょう。親日的であることと反近代的であることは困ったことに両立するんです。日本は近代の道を選択した以上、選挙一発で反近代に走るかもしれない他国は「みんな敵」と思っていなければならない。近代国家同士では核戦争は起きないでしょう。しかし、反近代国家のもつ核は「悪い核」になるんです。
 思うに勝海舟の自信は、人に嫌われることをあまり怖れなくて済む「江戸弁」のアドバンテージの上に乗っかっていたんでしょう。兵頭が日本核武装の当座目的のために「図書館」ですとか「国語教育」「出版界」さらには「2ch」の話もせざるを得ないのは、言語がひとたび衰えれば人間のすべてが衰えてしまうからに他なりません。
 以前に勝谷誠彦さんが何かでお書きになっていたように記憶しますが、反日アナキストの残党はなおまだ無知な大学生たちの取り込みに一部では成功している模様ですね。各種の工作員に仕立て上げられ、戦術を教えられて、たとえばネット工作にも出精している彼等。いっけん荒ラシでないような語り口で、ウィルスが自己の形を変えて細胞に侵入しようと試みるように、まことに疲れを知らぬ奉職ぶりと申すしかありません。ですが、その活動による言語力の深化は見られません。より強い言語力で、人間についてもっと知りたいのなら、現代においてもその方法は、ある限りの古典を読むしかありません。