謎の多い文部省の「武士道」関与

 佐伯真一氏著『戦場の精神史 武士道という幻影』(04-5)は、『あたらしい武士道』を書くときに参照できなかった本のひとつです。NHKブックスなので書店で買えるだろうと思っていたのが甘かった。
 以下、おくればせながら例によって内容を兵頭が摘録し、※で私見を附していきたいと思います。
 著者は1953生まれ。平家物語の専門家。
 平曲諸本のなかで『延慶本』が最古の手掛かり。これ、今の定説。他本より詳しい部分は、源氏側の武士たちの勲功談がとりいれられたのが、比較的そのまま残ったのだろう。
 私戦にも軍使保護などの一定のルールがあったことは『今昔物語集』『奥州後三年記』等から分かる。
 文献上で堂々とだまし討ちや謀略を肯定するようになったのは、戦国時代から江戸初期。
 『常陸国風土記』によれば、ツチグモ=ヤツカハギ=山の佐伯・野の佐伯どもであった。※というところからインドネシアのサヤンではないかと昔思ったのである。
 p.44 佐原真が「現状では、縄文時代に戦争があったとみるには充分ではない」と述べているのが、現在の通説的な見解であろう。
 西嶋定生は指摘する。雄略天皇は書状をおくって、中華帝国のために夷や毛人を討つと表現していた。これが国内では、朝廷が華であり周辺民が夷であるとの構図に置き換わると。
 吉井厳によると、ヤマトタケルの物語は「相模〜甲斐」の線が東限であったと。その先には大和朝廷の支配は及んでいなかった。が、5世紀後半には雄略天皇の支配が関東平野に及んでいた。
 アテルイをとらえた田村麻呂の理想化は、清水寺にはじまり、謡曲「田村」で巨大化完成。
 『陸奥話記』は安倍貞任の敗死後の夷を同等の人間として観察している。つまり11世紀後半の東北住民は近畿の日本人とさして違和感はなかった。
 石井紫郎は考察する。暗殺によって敵を滅ぼせば、そこから無限の報復連鎖が始まる。そこで長期利益のために正々堂々とした合戦が選択されたのではないかと。
 富士川合戦のとき頼朝がつかわした軍使が平家に全員斬首されてしまった。これは『山槐記』に伝聞が載るので事実だろう。公戦すなわち叛乱征伐であるので敵とは取引しないという平家の考えであった。平曲では延慶本にだけ見える。
 『続日本紀』が伝える8世紀の内戦では、言葉争いに勝つことが敵味方の士気を決定的に変えた。のちの合戦の「名乗り」も、正義の陣営の正しい言葉の魔力がよこしまな敵に勝つという信仰ではないかと。
 後三年合戦絵詞では、斬首刑される武将は片肌を脱ぎ、髪をかきあげて前に垂らしている。
 読み本系の平曲にある有名なくだり。昔は敵将の馬など射るものではなかった。そのうち、馬の腹を射て敵をまず地面に立たせて戦うようになった。今は、いきなり馬ごとよせてすぐ組み、もろともに落下して腰刀で勝負を決めると。
 こうなった理由に諸説あり。※兵頭いわく。少数の弓の名手しか戦場に存在しないという状況ではなくなってきた。弓が高性能化して、誰が射ても遠くからよく刺さるようになった。反面、精密な狙いは超名人以外にはつけ難くなった。ただし遠くから人体を旨く射て殺してもその首は近くにいる味方に奪われてしまう。これでは損だ。そして多くの場合は、下手糞が遠くからやたらにたくさん射るので、人よりも馬に当たる。これは昔であれば腕の悪さの証明で「恥」だったが、近年誰もが下手糞であるのと、とにかく首をとれば名誉が獲得できるので、どうでもよくなった。かくして、数すくない大将首の手柄に執着する強兵は、射撃の手間などぜんぶスキップして組討ち(死体独占)を狙うようになった。
 観応の擾乱で、大見物人の中、1丈の樫棒と、4尺6寸の大太刀の、馬上一騎打ちがあった。互いの得物が折れて、引き分けになったと。※当時すでにシナ小説の影響があったか。まずガチではありえまいと思われる話。
 石山寺縁起絵巻には、なぎなたを水車のように振り回す僧徒が一人描き込まれている。
 山鹿素行以前の武士を「ごろつき」と見たのは折口信夫で昭和3年のこと。山伏など漂泊民の系譜だとした。
 p.122 シーボルトは学生時代の決闘で顔に2、3カ所の傷があった。※著者はドイツ学生の決闘遊び「メンズール」を知らぬ模様。なぜ顔だけなのかを考えたい。
 非武装のことを白装束ともいった。
 鎌倉〜室町時代、不意討ちや騙まし討ちを「スカシ」「すかす」と表現した。
 p.137 宇治川先陣の佐々木は「嘘」をついた。※然らず。本当に腹帯が弛んでいたから、梶原も締め直したわけである。この疑問は学習院院長時代の乃木大将も抱き、人に尋ねて、納得している。
 『理尽鈔』出て、智謀・謀略礼賛となる。同書は江戸初期の知識人に大きな影響を与えた。特にその秩序感覚に。ex:将がいつも約束を守るようにしているのは、いざという時に謀略を成功させるためであると。※ある武将がいつも虚言を吐かぬようにしているのは、一生に一度、敵に大嘘ついて騙してやるためであると、日本の何かの古い文典に出ていたが、いま思い出せない。
 『理尽鈔』いわく、孔子や釈迦も自分が尊敬されたいから教えを説いたのであると。利己的で愚かな民衆に秩序を守らせるために、神や仏を信じさせておけと。また寺院に次男・三男を出家させれば国の過剰人口を制御できると。※チベットのラマ教寺院の知見ではないか。
 酒井憲二いわく『甲陽軍鑑』の写本の本文は室町時代の言葉をよく残しているから、高坂彈正の口述をもともと多く含んでいただろうと。
 軍鑑のなかでは虚言は「計略」とされ、「謀臣」はシナでも悪いことではないと。腕は曲がらなくては役立たぬ。曲がったことも必要だ。
 相良亨は軍鑑を深く読み、他人に頼らず付和雷同せず身を飾ろうとせず事の真相をみきわめることができ計略にひっかからないのが真の武士で、その反対は女侍だと。
 越後流兵法は一つではなく、汎称である。
 北条氏長は「謀略」を適当な判断力のこととし、「計略」は用間のこととする。
 孫子の「兵は詭の道也」に氏長は悩まなかったが、素行は悩み迷った。室鳩巣は『駿台雑話』で素行の苦しい解説を笑って、「詭」は「詐偽」のようなBADな意味ではないとした。
 武士道の近世的継承である教訓書として力丸東山『武学啓蒙』(1802)がある。
 『葉隠』が、上方風のうわついた武道と難ずるのは、犬死にに価値を見ようとしない『理尽鈔』のことである。その中に「図に当たる」という表現が多用されている。『理尽鈔』こそ江戸初期のロングセラーで、「『葉隠』はそれに反発したつぶやきに過ぎない」p.212
 葉隠には「異端の書」という位置づけがふさわしい。その精神は伝統的潮流となって次の世代に継承されたわけではない。p.220
 ※長いコメント。S15年7月、ドイツ便乗軽薄内閣である第二次近衛内閣が、組閣するやいきなり大きな方針を打ち出しました。『葉隠』テクスト、特に「武士道とは死ぬことと…」のくだりを、戦前の三島由紀夫や小林秀雄が読むことになったのは、この大きな方針の小さな結果だったんです。まずS15-7-26の閣議で「基本国策要綱」の三の(1)として「我国内ノ本義ニ透徹スル教学ノ刷新ト相俟チ、自我功利ノ思想ヲ排シ、国家奉仕ノ観念ヲ第一義トスル国民道徳ヲ確立ス」等と決定されます。ついでS15-8-1の閣議で「基本国策要綱ニ基ク具体問題処理要綱」が決まった。そのイの一番の要目が「一、国民道徳ノ確立」で、起案庁は企画院と文部省です。ちなみに企画院というのは、近代日本をダメにした統制バカ官僚の巣窟でした。イの一番に掲げてはいますけど、もちろん教学事業なんか経済官僚にはよくわからないからすべて文部省に丸投げです。おそらく文部省はこれあるを期して早々と『葉隠』をチョイスして出版事業を進めさせていたのです。栗原荒野のフルテクスト校注の『葉隠』が刊行されたのが昭和15年2月。同じくフルテキストを和辻哲郎らが校訂する岩波文庫版の『葉隠』(上巻)が出たのも昭和15年の4月。どっちも第二次近衛内閣よりずっと早い。これは不思議なことですが想像は容易で、すでに各省の浮薄な官僚どもが1939年9月の欧州大戦勃発直後から松岡洋右らにそそのかされ、大車輪でこうした事業に先行着手していたのでしょう。この他、昭和15年には口語訳の三冊本も出ている。あのフレーズは、文部省とシナ事変以降の陸軍省が結託して人工的に「古典的名句」に仕立てたものです。
 「武士道」を嫌って「士道」を標榜した儒者も、中江藤樹以降、多い。徂徠も野蛮の武士道を難じた。
 松陰は中谷市左衛門という武士を紹介し、彼は寝首をかかれないように、熟寝中でも一呼かならず醒める、と。古川哲史は、松陰が特に『武道初心集』の影響を受けていると。
 鉄舟の『武士道』がすべてM20の口述であるかは疑問。出版年はM35である。
 新渡戸の意識では「武士道」は彼の造語。よって古来の武士道とは内容が違っていて当然。ただし米国刊行と同年に日本では三神礼次『日本武士道』が刊行されている。
 新渡戸がM4に東京に出てきたとき漢文や国語の学校はもうまったく廃れていた。だから新渡戸は和漢の古典には詳しくなれなかった。
 1898に植村正久が「基督教の武士道」を著わしている。
 「どうも新渡戸は、キリスト教文化に比べて、日本の武士の道徳は、正直という徳においてやや劣ると感じていたのではないだろうか。」p.267
 ※ただ「嘘をつかない」ことを学ぶだけで、日本人は近代に対応できた──と兵頭は思って『あたらしい武士道』を書き上げました。