摘録と偶懐—-太田昌克著『盟約の闇──「核の傘」と日米同盟』04-8

 この本は「チャンネル桜」の収録翌日に東京の本屋で見つけて買ってきました。本の背中の「太田昌…」という著者名から、「前の沖縄県知事(昌秀氏)がこんなものを書いてるのだ」と錯覚し、読むのが遅くなりました。
 著者は1968年富山県生まれ。早大政経で米ソ冷戦に興味を持ったが、共同通信社に入社するや、いきなり広島支局に配属されている。※つまり「再教育OJTの要あり」と思われたかな?
 巻末年表は示唆に富む。※1957-8にソ連が米本土に届くICBMに成功すると、日本に関して対ソの「核の傘」は怪しくなった。そこで米は60-7に水中発射に成功したポラリス(まだ射程1850km)を搭載したSSBNを日本に寄港させることで日本防衛とソ連包囲の意思表示をしようとする。その前準備として、61-6に訪米した池田総理に随行した小坂善太郎外相に対し、ラスク国務長官がSSN(攻撃型原潜)の寄港を打診した。
 ついで63-1にライシャワー駐日大使がSSNの寄港を正式に申し入れ。
 ところが60年安保の再来を厭うた「低姿勢」池田は、3月の国会で野党に応じて、核弾頭を装備しているポラリス原潜(この時点で射程4630km)の寄港を断る旨、表明してしまった。
 シナが核爆発させた直後の64-11-12にやっとSSN「シードラゴン」の佐世保入港が果たされる。しかし肝腎のSSBNの寄港は実現することはなかった。
 61年にナイキ・ハーキュリーズ(核弾頭装着可)を導入決定するときに日本の核アレルギー輿論が騒いで、防衛庁は手を焼いた。このような輿論のため、核ミサイルを装備しない攻撃型原潜の寄港すら難題だった。
 通常弾頭だけのナイキ・アジャックスは62年から自衛隊に供与されている。67年の閣議決定は、非核弾頭のみに改造したものを導入する、とせねばならなかった。
 ライシャワーに次ぐ大使館ナンバー2のエマーソンは、戦中は中共へ連絡員として派遣され日共の幹部とも接触していた。そしてGHQでも日共とのリエゾンをとっていた。
 シナ版ロスアラモス研である「北京核兵器研究所」は58年の第二台湾海峡危機後に設立された。
 鉄道王ハリマンの息子はWWII中に駐ソ特命全権大使で、ケネディ政権下では国務省の役人でありながら大統領に直接書簡を送ることができた民主党の重鎮。
 63-1には次官としてソ連と核実験禁止条約の交渉を進めていたが、席上ソ連側から、米ソが共同でシナの核施設を先制破壊しようじゃないかと持ちかけられ、その感触を大統領に伝達した。ケネディはこれを真剣に検討し、暗殺される直前には、蒋経国やCIAもまじえてそれを実施する計画をいろいろ検討していた。※暗殺理由はどうみても核外交絡みでしょう。
 62-3時点で日本本土には核爆弾は置かれていない。ただし三沢に関しては57〜68年の間、「コア」抜きの投下水爆が貯蔵されていたと今では判明している。
 核爆弾は、沖縄に1000発あり、これを24時間待機のC-130×11機で本土の空軍基地に輸送し、板付のF-100×26機、ヨコタのB-57×36機、三沢のF-100×25機に搭載して、大陸を攻撃する手筈になっていた。専用のC-130は「ハイギア」と名づけられていた。
 デフコン2となり、水爆積んだハイギアが嘉手納から板付まで飛ぶのに1時間50分、ヨコタまでは3時間10分、三沢までは4時間15分。プラス2時間弱で、それぞれ出撃可能になった。
 三沢の場合は、水爆全体ではなく、コアだけ運ぶわけである。他の基地もそうであったのかどうかは不明。
 54年にシナが金門島を砲撃してから、65年までの間、本土の米空軍基地にコア抜きの水爆が貯蔵されたと、今では判明している。※その基地名は不明だが、距離から言って板付(福岡)か?
 1958頃に水爆の安全装置の改良が進み、コアを分離しておかずとも、事故で核分裂が起きる可能性はゼロになった。
 米国は核兵器の所在について否定も肯定もしない:Neither Confirm Nor Deny.
 西独では議会が認める3年前の1955から米軍の核兵器搬入が実施されていた。首相は知らぬこととし、問題になったら部下閣僚のせいにするつもりであった。57-12にジュピターとソーを西独内に配備しようとNATOが話し合ったところ、西独にはまったく発射権も発射拒否権も無いものだから西独輿論は8割が反発した。しかし西独議会は58年にそれを許容する決議。
 ケネディ政権時代には射程1000kmのSSMパーシング-1が「ツー・キー」システムで配備されている。その安全装置は62年に開発されたもので電子暗号を入力する。
 また、西独の核武装を押し止めるため、米人司令官の麾下、NATOの多国籍クルーが乗り込んだポラリス原潜を共同で運用しようじゃないかとも提案したが関係国にまったく不評で、ジョンソン政権はこの案を捨てた。
 フランスがミラージュ核報復機を配備し、西独にメイス巡航ミサイルが配備され、シナも核武装にスパートをかけていた59-7に、赤城宗徳長官が北部方面隊視察のついでに「赤城構想」を発表。6年かけて防衛費を倍増させること、核弾頭装着可能な「ボマーク」を導入するなどの内容。社会党が反発して棚上げに。※廃止後のいまでも弾頭重量が公表されていない「30型ロケット」(日本版オネストジョン)とも符号しよう。オネストジョンと核ファルコンは同じ小型弾頭を用いた。
 しかし高度成長の入り口で隊員増は給与面でかなり難しいと見込まれた。また池田政権は韓国との国交正常化交渉で「植民地時代の賠償に代る巨額の対韓経済援助」を求められており、それを実施するとすれば防衛費増額の余地はさらになかった。
 シナの原爆保有が間もなく確実という62年に日本の輿論を観察した国務省極東局は驚く。池田内閣は防衛費の対GNP比を増やす気配がなく、アメリカとともにアジアの地域防衛に貢献しようというそぶりもなく、核兵器開発も、米軍の核持ち込ませも、嫌がっていたから。ケネディ政権は、日本を「最も核武装化しそうにない国」と評価する。
 ライシャワーは、池田が、シナがやるのは核実験だけで核戦力は持つまいと思い込んでいる、と本国にリポート。国防総省から衛星写真を持った高官がじかに説明に乗り込んだようだが池田は真面目に相手にしなかった。※池田には核戦争リテラシーが無かった。
 66年赴任の駐日大使ジョンソンも、日本人がシナに親近感のみ抱き、その核武装を自国への脅威と捉えていないことに呆れた。※前に紹介した沢木耕太郎氏のノンフィクションなどを読めばその当時の空気が分かる。岸-佐藤-福田ライン以外は全員、中共との国交こそが手柄になり儲けにもなると狂奔していた。もちろん野党も。
 そこでしかたなく62年から岩国沖数マイルに海兵隊のLSTが核爆弾の浮かぶ貯蔵庫として68年頃まで置かれた。しかしライシャワー大使は66年までそれを知らなかった。この経緯は81年に公になった。
 ルメーが空軍参謀長としてペンタゴンの重鎮であった1962時点でペンタゴン内には日本の核武装を進めたい理想論があった。
 ルメイはROTC? ロンドンからB17によるドイツ爆撃を指揮。ついでグァムからB29による日本爆撃を指揮。ベルリン空輸を指揮。61年に空軍参謀総長。63年にキューバ危機で強硬論。65年に退役。68年に独立党のウォラス候補の副大統領候補になる。いつも対ソ・対支の全面核戦争を考えていた。※だから日本の核武装も許せということになる。だから日本は勲章を与えた。
 しかしジョンソン政権は、64年のシナの核実験以降、核不拡散の大方針を固めてしまった。※核抜きの沖縄返還が決まった69年時点でも米軍は日本の核武装を望んでいたという人がいるが本当だろうか。対支核抑止の機会は64年10月に去ったのではないか。つまり国防方針とは近未来の脅威に間に合うように策定すべきであるのに、シナ人の政治に盲目たりし池田勇人ら当時の吉田学校の腰抜け達がこぞってそれをサボったのである。
 60年代に日本に寄港していた米空母の主任務は対シナの核爆撃であった。68-1に「エンタープライズ」が佐世保に初寄港。※67のシナ水爆実験を承けた対北京メッセージであるが愚かな大衆はそれを解せず、ベトナム反戦運動の一環として北京に使嗾されるままにこれに反対した。
 72年にニクソンが横須賀を通常動力空母「ミッドウェー」の母港にしろと要求。その理由として、これは「核の傘」だと。
 ※米支国交回復交渉は、71年春の「ピンポン外交」で急に始まったのではない。それは表向きの宣伝である。まず69年1月のニクソン政権の登場を、周恩来は「対ソ防衛」と「アジア征服」の見地から是非に利用せねばならないと考えた。シナによる70年4月の人工衛星打ち上げは、ICBMポテンシャルの強調であって、ズバリ、米国に北京との国交交渉を迫るサインであった。米支の裏交渉はおそらく70年から始まった(その経過は日本の輿論を考慮してまだ公表されていない。愚かな大衆と役人と研究者は71年以後の公表部分が歴史のすべてと思い込んでくれているが)。中曽根が70年9月に訪米し、「シナの核ミサイルは日本にとって脅威だから、日本本土に米軍の核を置き、核の傘を維持してくれ」と頼んでいたにも関わらず、71年春、ヨコタ基地の核攻撃用のF-4はすべて沖縄と米本土に移されてしまった。つまり71年実戦配備の日本向けIRBM「東風3」が東京に撃ち込まれたとき、米軍の核攻撃部隊が核攻撃されたのと同じことになり米支核戦争の引き金が自動的に引かれるという意味でいちばん堅確なスタイルの「核の傘」は、この時、撤去された。それこそがキッシンジャーの初回北京訪問の前提になる「前交渉」の焦点だった。米国はまず「手土産」を整えたのである。周恩来はこの米国の譲歩事実を示すことにより、毛沢東および人民解放軍内の強硬派を説得できたのに違いない。72年の『ミッドウェー』の寄港要求は、ペンタゴンとしてはキッシンジャー一派の対支宥和に全く反対であったことを示す。
 SIOPはICBMと有翼空軍と潜水艦ミサイルと空母攻撃機の核を統一してターゲット分配を決めたもので、陸軍の核弾頭は無関係だった。
 このSIOPの標的としてレーガン政権のピーク時には東側の16000箇所がリストにあったが、冷戦後、半減。シナは82年に対象から外されたものの99年から再び対象になっている。つまりレーガン政権が対ソ集中のために外した。
 国務省のロバート・ジョンソンは63-10に文書をまとめた。すなわち、シナの核兵器はシナ大陸への「直接攻撃に対する抑止力となる」こと。「米国の助力を求める周辺国の動きを食い止め、アジア諸国と西側諸国の分断が図れる」こと、また、シナの軍事的脅威をアジア諸国が認知すれば、アジアに核戦争をもたらすのは米国の核だとシナが宣伝することが可能になること。そこで米国としては、アイク政権のように過度に核兵器に依存すればシナ宣伝の思うツボであるから、アジアの通常戦力を削減してはならず、アジア人の目に見えない形で北京に核戦力をつきつけなければならない。具体的にはSLBM原潜をシナの核実験前に太平洋に配備せよ。そしてIRBMはアジアには配備するな。また米ソ間の部分核実験禁止条約を宣伝してシナを国際世論から孤立させることだ──と。
 64年6月の国務省のペーパーは、シナの核武装を予期しつつも、日本に対する「核の傘」は「海上型核抑止力」の日本港湾の利用によるのが望ましい、などと書いている。※つまりトリップ・ワイヤーを避けてフリーハンドを確保できればよいというもので、まさに「抑止にならぬ」勝手な関与政策である。
 さらに同ペーパーは、東大のミュー3型ロケットについて、これはミニットマンICBMと同格のものであり、今すぐミサイル転用を決意すれば69年に実用化すると見積もった。※その発展型のミュー5型は、日本政府みずからの手でいまや完全に潰された。
 ご丁寧にも詳細なコスト計算までしてくれていた(p.218)。日本がミュー型を改造した核搭載の弾道弾×100基を75年までに揃えるのに、毎年GNPの0.5%、つまり数百億円で済む、と。
 奄美大島は講和発効2年後の53-12に早々と返還されていた。トカラ列島以北は米国の信託統治の範囲に含まれなかった。※要するに奄美大島には旧海軍の泊地があって、ホワイト・フリートの横浜訪問のときもそこから邀撃する計画であったので、米海軍としてはどうしても押さえておきたかったのである。
 64年に佐藤栄作が自民党総裁になるときの公約が「沖縄本土復帰実現」だった。佐藤が首相として初めて表立って小笠原の返還を求め、それはまず68年に実現された。沖縄返還を6年以内にするという日米の基本合意は67末である。
 小笠原の潜在主権は沖縄と同様、もともとサンフランシスコ講和条約に明記されていた。そしてその前に戦時中の「大西洋憲章」が領土不拡大原則を打ち出しているので、国務省も早く返せと米軍に求めていた。米海軍の巡航ミサイル「レギュラス」は、浮上潜水艦からのみならず、空母や巡洋艦からも発射できた。この核ミサイルの貯蔵も小笠原にしていた。米海軍は父島の二見港が潜水艦基地になると考えていた。※二見港は狭いので、原潜登場により価値が下がった。海自の潜水艦はときどき立ち寄るようである。
 米空軍にとっては、グァムからシナをB52で爆撃する際に、予備滑走路を別の島に確保しておきたかった。核爆弾貯蔵も分散しておきたかった。
 三木は佐藤後の総理の地位を狙っており、そのさいに「かつて米国に核の問題で譲歩した」と政敵に攻撃されることを嫌い、「持ち込み密約」に抵抗した。密約は必ずリークされると信じていた。そのためついに佐藤は三木外相を外し、密使の若泉敬に「核抜き本土並み返還・ただし有事の持ち込みはご自由に」の線でジョンソンおよびニクソン大統領と話をつけさせた。若泉は晩年の94年にこの話をオーブンにする。
 ※米政権が、議会に対する説明責任から、密約であっても正式な交換公文とするように求めるのに対し、60年代の日本の政権は、密約は必ず誰かから漏れ、それがマスコミや野党や政敵に政権攻撃の武器を渡すことになるのだとほとんど確信しており、文書化はもちろん口約束すら回避しようとした。つまり日本の議会はおろか、内閣、首相官邸内にすら「秘密漏洩」を罰するメカニズムが存在しないのである。これでは政治のリーダーシップなどあり得ず、選挙で責任をとらない官僚が独走したくなるのは自然だ。そして80年代以降、狡猾なシナは、この官僚どもを裏からコントロールしてしまえば、選挙とは無関係に国会、内閣、官邸を操れることを悟ったのであろう。
 ウォルト・ロストウは独自の理論をもつ頭の良すぎる経済学者であった。彼のすばらしい理論によれば南ベトナムはもう少しで「離陸」でき、近代工業国の仲間入りができることになっていた。それゆえ、60年代のインドシナの共産勢力に対する最強硬の対策をジョンソン大統領に提案し続け、とうとう米軍を「泥沼」に引き込んだ。
 68末、たまたま米国民はベトナム戦争に嫌気がさしていた。そしてべトナムから撤退してくれそうな共和党のニクソンが次期大統領に当選した。※かたや日本では69年になっても国民がシナおよび社共勢力の宣伝に操縦されており、対ソ・対支の核抑止の必要をぜんぜん理解しようとはしなかった。佐藤本人も、核武装は単に通常兵備よりも安価になるから有利なのだと考えていた節がある。「抑止」を理解できる政治家ではなかったのだ。佐藤がそうだとしたら、兄の岸もそうだったのだろうか?
 ICBMとB52とポラリス原潜の核の三本柱が充実してきていたので、米国にとっての沖縄基地の重要度は60年代前半よりもずっと低下しつつあった。特に平時の核配備について然りだった。
 沖縄復帰の交渉過程でニクソン政権は、核兵器撤去のための費用500万ドルを日本政府に負担させる方針だった。p.179
 佐藤は池田と正反対にシナを信じておらず、シナの核はまさに気違いに刃物だと66年12月にラスク国務長官に語った。※岸ラインだから当然。池田は吉田ライン。
 67-2にジョンソン政権は、シナの核戦力の高度に秘密なインフォメーションを佐藤だけに説明しようとした。しかし佐藤はその話が必ず外に漏れ、政権攻撃に使われると警戒し、謝絶した。結局、閣僚に対する秘度の低いブリーフィングだけが行われた。※つまりシナのミサイル基地の衛星写真や、開発中の対日攻撃用「東風3」のスパイ写真を佐藤に見せ、日本本土や沖縄への米軍の核貯蔵を公認させようと思ったのだろう。66年以降のこの時点でジョンソン政権が日本に核武装を促していたわけではないだろう。しかし佐藤には「核抑止」はサッパリ分からなかったのだろう。また、これ以後のある時から、日本の新首相は早期にホワイトハウスを訪問し、ホワイトハウス内において、高度に秘密の「ブリーフィング」を、日本のマスコミの目を気にせずに、受けるという慣習が出来上がったのだろう。
 63-2にマクナマラはケネディに秘密メモを提出。イスラエルは兵器級プルトニウムを抽出していて、核保有国となる決意も固く、2〜3年で核武装する、と。69年に米国とイスラエルは、「Don’t Ask, Don’t Tell」を決めた。すなわちイスラエルは核保有宣言を決してせず、アメリカもイスラエルにNPT加盟を求めない。
 フランスがIRBMを配備し、かつまた水爆実験した直後の68-9に佐藤は語った。「岐阜であれだけの話をしたのだから、一人ぐらい核を持てというものがあってもよさそうなものだな。いっそ、核武装をすべきだと言って辞めてしまおうか」。※そうすべきだった。官僚であった佐藤は「国民の教育」に失敗し、放っておいても返ってきた沖縄奪還の手柄に執着するあまり、NPTにサインさせられてしまった。代わりにノーベル平和賞を貰ったが、日本国民の権力はシナの核の前に丸裸となったのである。そして未だに「核抑止」が学ばれていないために、日本では核問題は「議論」以前の沙汰となっている次第だ。
 初代科技庁長官は正力松太郎。中曽根は59年に岸内閣の科技庁長官になった。※科技庁は50年代はあきらかに日本核武装の推進機関であった。
 しかし中曽根も核抑止に関する国民の教育には手をつけようとしなかった。
 70年1月に蝋山道雄ら専門家グループが政府要路に対し、外交的に核武装は得か損かという報告を提出し、外交的に安全にならぬこと、核兵備が大国の条件である時代は去った、などとネガティブな結論を出した。また同グループはそれに先立つ68-9に、ウタント報告のテキトーな数字を無批判に流用して、核武装は高くつき過ぎ、日本にそんなカネは無いと報告した。※この連中がキッシンジャー一派の意を承けた米人どものプロンプターを単に翻訳復唱していただけであることを歴史研究者として直感できなくては嘘だろう。自分たちで一から計算せず、世界公知のウタント報告の数字を使い、それでギャラを貰うとは、どういう「専門家」たちなんですか?
 75-8-6の新聞発表で日本はNPT早期批准を約束し、独自核武装の選択は封印された。
 ※ところでバンカーバスターの核弾頭版はどうなるのだろうか? 地中貫通爆弾は、現時点ではまだ浸徹量が10m未満。将来とて100mにも達することはなさそうだ。そして北鮮やシナが移動式ミサイルを隠している山岳地帯の横穴トンネルの上には、少なくとも厚さ数百mの岩盤がある。結局、トンネルのすべての出口に対するマッシブな核攻撃しか「カウンターフォース」の方法はないだろう。しかしイランの砂漠の地下工場については別な手が考えられるかもしれない。それは「十分の数キロトン」のミニ・ニュークをタンデム2連打で撃ち込む方法である。すなわち最初の一発を地表爆発させてミニ・クレーターを掘る。次にそのクレーターの底部にもう一発撃ち込むわけだ。