「敵国恐怖病」のワクチンは「戯画化」なのだが……

 わたくしが小6か中1で読んだ最初の「ナチ文献」は、確か「サンケイ・第二次世界大戦ブックス」の初期シリーズに入っていた『ヒトラー』(ウロ覚え)でした。このシリーズ、後から気付いたのですが、えらい大幅な「抄訳」でした。当時は写真点数の多さで、まず多数の読書家を啓蒙していく必要があったのだろうと思います。
 先に『1960』の紹介でも触れましたように、まだ昭和40年代ですと、無知ゆえのナチス礼賛者は日本の若い人の中に少なくありませんでした。なんと90年代アニメの「ガンダム」でも、まだずいぶんナチ色豊かだったでしょう。あれとかアニメ版の「宇宙戦艦ヤマト」を制作していたオッサン世代が、要するに啓蒙され損なった最後の「無知世代」なわけです。──「な〜に結末で主人公を特攻させて殺してしまえば、その前のいろんなチープな戦争シーンも免罪され、PTAからの攻撃を免れるだろう」と腹の中で計算していた団塊の精神がよく表れていたなと思います。
 で、その抄訳『ヒトラー』なんですけども、この原作、「ヒトラーは貧乏学生時代にウィーンでユダヤ人娼婦から梅毒をうつされ、それでユダヤ人を憎み、脳みそもスピロヘータにやられていた」との新説を唱えまして、発表当時は世人の耳をそばだたしめたイギリス人の(これもウロ覚え)ノンフィクションでした。
 その著者の目的意識は、ヒトラーを要所々々で滑稽に紹介することで、それを読んでいる英国人に「悪魔的偶像」に対する気持ちの余裕を与え、現今の欧州大陸諸国に対する精神的な優位を強化せしめる、というところにあったように兵頭は思います。
 なぜそんなことをする必要があるのか? それは、英国の知的エリートの義務だからですよ。
 そういう活動を継続的にやらないでいれば、近未来の欧州大陸に「第二のヒトラー体制」が登場した暁に、英国の有権者は「恐怖」を感じてしまうでしょう。国民大衆が、対岸の強敵と敢然と抗争する気概を示すことができずに、最悪の場合、敵国に宥和的なスパイ的な首相候補を支持するようになるかもしれません。
 そういう民主主義の自殺にも等しい事態を予防していくためには、過去の恐ろしい強敵をコケにし続ける国内宣伝活動が、国家の指導者層に属する表現者としては最低限、必要なんです。
 この逆のことをやっているのが、戦後日本の原爆教育であることはいうまでもありません。
 ナチス・ドイツが、フォークランドのアルゼンチン軍のような鎧袖一触の弱敵であったのならば、なにも戦後の英国人として、馬鹿にし続ける必要などないでしょう。
 戦前のドイツは真に強敵だったし国民はヒトラーに大いに恐怖を感じたという事実があったればこそ、その歴史的なヒトラーの権威を英国の教育宣伝担当者たちはあくまでも剥ぎ取らねばならないのです。
 戦後、西ドイツの復興の勢いは驚異的なものでしたし、フランスの指導者は「反英国」を剥き出しにしていた。ソ連は中欧のどこに進出するか分かりませんでした。
 斯様な次第で、かつての敗者ドイツに対する戦後英国政府主導の「叩き」は引き続き、執拗です。
 しかしこれは何も「対ドイツ」だけに限ることではないので、「ドイツ叩き」の前には「オランダ叩き」がありました。
 英語には「ダッチ××」という、オランダ人を無闇に馬鹿にしたような俗語表現が多いのですけれども、これは、かつて英国人がオランダと互角のきわどい大戦争を戦わねばならなかった歴史の遺産だと言われます。一度はテムズ河口までオランダ艦隊に攻め寄せられながらも、かろうじて英軍は持ちこたえ、最後にやっと強敵を蹴落とした。その折の恐怖の裏返しが「ダッチ××」という軽口として今も受け継がれているわけです。
 もちろん、ナポレオンやフランス人を茶化す表現活動も、とっくに英人の伝等芸風になっています。シンガポール陥落から戦後しばらくの期間は、日本人もまた徹底的に戯画化されていました。さらにまた近隣憎悪という点では、アイルランド人を馬鹿にした小噺は、質・量ともにものすごいものです。アイルランド系のケネディが米国大統領になったときの英国人の恐怖は、いかばかりだったでしょうか。(じっさいに「スカイボルト」の米英共同開発プロジェクト破棄という大うっちゃりを、英国政府は喰らわされました。)
 ドイツを占領した米軍がドイツ人の街を見て感心したのは、そのインフラの整い方が、英国の田舎よりは米国の都市にはるかに近いぞということだったそうです。
 また、植民地に不足していた戦前のドイツからは、大量の移民が米国へ流出しています。おかげで米軍の高級将官でドイツ系の姓は珍しくありません。そして彼らは英国軍よりは余裕をもってドイツと戦い、圧勝できた。
 そのゆえか、戦後の米国政府は、英国政府とは異なり、反独宣伝をすぐにやめてしまいます。米国映画の中で「ソ連共産主義者のイメージ」をドイツ人役に担わせることは一般にありましたけれども、「ナチでないドイツ軍将校」は等身大の人間として扱われたように見えます。
 たとえば、朝鮮戦争後の反共精神が生んだと説明されている往年のテレビ映画シリーズ『コンバット』では、ドイツ兵が驚くほど格好良く描かれていました。あれを視て「ナチ軍装マニア」になった米国少年も少なくないでしょう(それがまた野放しであるのもヨーロッパとの大きな違いでしょうか)。
 外敵(独&日)との戦いのために、いまや戦友である南部人を差別するのはやめよう、という国内向けの宣伝教育が、あの大作『風とともに去りぬ』です。そして、これからはソ連との戦いだ、俺たちは西ドイツ人を守るぞ、というキャンペーンが、戦後の英米のいくつかの戦争映画には微妙に埋め込まれています(たとえば『レマゲン鉄橋』や『大脱走』におけるSS/ゲシュタポと国防軍の描き分け)。
 真に劇的な変化は80年代以降の戦争映画にあらわれ、もはや戯画化されたドイツ軍キャラの方が珍しくなってしまいました。それでも、米英合作の『遠すぎた橋』を観て、そうしたトーンの変化にあらためて感慨を抱いた人も多かったのではないでしょうか。ただし、敵が弱いと葛藤ドラマとしては弱くなりますもので、『遠すぎた橋』は戦車マニア以外には大不評。興業的に大失敗しました。
 タブーが無いように見える表現世界にも、厳然とタブーはあります。米英のどちらの映画界にも、ヒトラー個人を一人のキャラクターとして存分に描いた作品は、例外的にしか存在しないでしょう。大衆向けの映画のキャラクターとすることにより、「悪魔の偶像」が復活することを、やはり英米人は恐れているのです。
 日本でもそろそろ、シナ事変の戦争映画が制作される必要があるでしょうね。わたくしはいつでもそのシナリオを提供できます。