摘録とコメント──山田吉彦氏の二著作

 沖ノ鳥島に往復した8日間の間に蚕棚のような二段ベッドの中で雑多な読書をしました。余談ながら、他にすることがなかったせいか、連日豪華客船なみの食事内容であったにもかかわらず、出発時計測の体重70kgが、帰宅時には66kgに減っていました。ダイエットにはタグボートでの遠洋航海をオススメできます。
 さて山田氏は日本財団の「事務長」という肩書きで本船(航洋丸)に乗り込んでおられましたが、一フリーライターに過ぎぬ兵頭が今回テレビや新聞主力の調査団に混ぜてもらえましたのは、どうやら氏の「快諾」によるものなのです(『新潮45』編集部W氏の談)。
 このようにお世話になりながらご本人の著述を知らないままでは申し訳ないので、さっそく通読したのは言うまでもありません。
 以下にご紹介する二冊はいずれもエクスクルージブな内容を含み、広く人々に推挙できる良著でした。ただ残念なのが、タイトルや「宣伝コピー」に目新しさが欠けている点でしょう。類書との差異を市場にアピールできていない憾みがあると思いました。
▼『海のテロリズム』(2003年10月刊、PHP新書)
 江戸時代、加賀の米を大坂に運んだ北前船も、関門海峡の壇ノ浦と角島沖は、日和を見て潮を待って船出した。
 間切り航走術を発明したのはヴァイキング(p.88)?
 日本の輸入する原油の8割はマラッカ海峡を通過し、その量は毎日56万トンである。
 長さ300m、20万トンのタンカーが毎日3隻、日本に向かって通峡する。アラビア半島から日本までは14航海日。ペルシャ湾から日本までの間の海域を常時40隻の日本向け巨大タンカーが走っている。
 シンガポールには世界一の規模の石油精製所がある。
 なぜ15世紀にイスラムが東南アジアに普及したか。それは西方から海送される商品の魅力であった。改宗した現地人には、ダウの船長はこれらの商品を預け、「信用」を与えた。この功利を得んがため、現地人は競ってイスラムに改宗した。
▼『日本の国境』(2005年3月刊、新潮新書)
 現在のわが国の漁業従事者はたった30万人弱まで減った。外航船員は2003年で3336人、内航船員と漁船員などあわせると8万6208人。頼みは今やフィリピン人船員。
 03年の日本の海上貿易は9億1677万トン。
 日本の船会社は商船1873隻を支配するが、日本船籍なのは僅か103隻。日本船籍だと日本人船員を一定割合乗せねばならず人件費高のため、大概は便宜船籍(7割はパナマ)の選択となる。
 ただし船内では船籍国(旗国)の法律が適用され、便宜船籍船に日本の法律は適用できない。犯罪の捜査権も旗国の判断が優先される。しかしパナマ政府や警察が、日本の船会社のために骨を折ることなどありえようか。
 3浬領海を最初に主張し列国に強制し得たのはオランダで、英仏戦争から中立するための措置だった。18世紀前半の沿岸要塞砲の射程と一致。
 1977年以降も日本政府が宗谷、津軽、対馬(東水道、西水道)、大隈の4つの国際海峡に12浬領海を主張せぬのは、ソ連潜水艦を浮航させるガッツがなかったからだ(p.26)。※おそらくこれは平時の同盟国の潜水艦を隠してやるためで、有事には特例措置を停止してソ連潜に対してのみ通航拒絶する肚だったのだろう。
 大陸棚にコミットする省庁は、内閣府、海保、資源エネルギー庁、文科省で、一枚岩になりにくい。調査予算は各省からの掻き集めで04年度はたった150億円。1000億円用意しないと、200浬以遠の大陸棚の主権を国連委員会に認めさせるだけのデータは揃えられないというのに…。
 ある地質学者いわく、大陸棚に10兆円の資源が眠っているとしても、それを掘るには今の技術で10兆円以上かかる。
 04-12のシナ船のオキトリEEZ調査は、海中に音波を発信しながら航行していた。※ということは海中環境音の収拾ではなく、海底地形調査なのか。ちなみに先進国海軍の海中音響調査は、海域毎の常態バックノイズをデジタル化しようというもの。パッシブソナーのデータからこれをマイナスしてやれば、敵潜の音だけが浮かび上がる。シナはまだこのレベルに到達していない。※ただ、精密な海底地形調査もないがせにできないことは、05-1に米原潜『サンフランシスコ』がグァム島南方560kmを南下中、地図にない海山に衝突し死者を出した事故で再認識された。
 二月下旬の初鰹はオキトリEEZで獲れたもの多し。マグロの産卵地も、オキトリ=フィリピン=沖縄の三角形の中にあると推定されている。そこから三陸まで北上してくる。
 台風通過時のオキトリ近海の波高は17mになる。
 オキトリは護岸完工後10年しないうちに傷みはじめ、げんざい毎年2億円かけて補修している。
 旧海軍はS14〜16に10トンのコンクリート・ケーソン×500個を投入したが対米開戦により未成。そのあとが今の「観測所基盤」だ。
 やぐら組の「観測施設」は建設省が88年に組み立てた。
 04-11の日本財団による第一回視察団(団員45名)は、沖縄←→大東諸島に就航している貨客船『だいとう』をチャーターした。那覇からオキトリまでは1080kmで、船長はオキトリに行ったことがなかった。たまたま台風25、26号が発生し、終始荒天で、最悪日は波高6mだった。
 第一回視察では31名が東小島に3時間だけ上陸できた。
 日台間に海上犯罪に関するとりきめがないため、密輸・密猟事件の容疑者や証拠物件のとりあつかいは常に両国間の駆け引きになる。特に12浬以遠。台湾漁船も初夏に回遊する本マグロを追っており、石垣沿岸でかなり悪いことをしている。
 ただし台湾漁民は戦前から尖閣や先島群島の海域で漁業を営んでいたので、それを顧慮せずに締め出したままであるのは日本の落ち度ではないか。
 尖閣の久場島と大正島の米軍用射爆場は現在、使用されていない。
 ※解役巡視船『たまゆき』(1966竣工)がアルミ骨材で檜張り(p.133〜4)なのは、触発機雷対策ではなく、磁気機雷対策に非磁性材を使ったものと想像される。
 シナは1955にミスチーフ岩礁に漁民の退避施設と称する建屋を設け、いまやそれを定住施設に強化した。
 『つるぎ』は50ノット走行が可能(p.194)?