監視(Watch)と「検閲(Censor)+Visilantism」の大違い

 市民的勇徳と恐怖政治とは一体だ──と考えたのが、ロベスピエール氏です。
 同氏は、フランス革命のさなか、ルソー氏(フランス人は太古には平等であったが、間違った社会をつくったせいで今は不平等になっていると18世紀中葉に考えた人)の遺した主張とはかけはなれた、恐怖政治の実践に熱中しました。
 ところがこんなロベスピエール氏は、同時に、大真面目なカトリック信者でもあったんです。
 ロ氏にとっては、古代ギリシャ式の市民的勇徳は、それだけでは自分個人の断行の支えになってくれなかった。彼には、絶対者的な何かを狂信している必要があったのです。
 それはなぜでしょうか? すでにルソー氏は説明してくれていました。人は数学や論理学の理性より以前に憐れみの心を有する。「われわれの同胞が滅び、または苦しむのを見ることに、自然な嫌悪を起させる」感性的ななにかを、先立って持っているのです(『人間不平等起源論』岩波文庫版、31ページ)。がゆえに、他者の命(自然権=人権の筆頭)をロ氏のような精力的な人でもなかなか平気では奪えないのです。
 自我ある一般人に、頭から爪先まで「聖」な者などいやしません。その「非聖」でしかない一般人が、他者の思想を偉そうに検閲することがどうしてできましょうか。
 三権分立制度によって、いかなる行動が社会人として違法であるのかを議会が定め、行政が違法行為を訴追し、司法が裁判にかける。これならば、「非聖」の一般人が他者の自然権(人権)をハンドルしても、正義が損なわれるおそれが最も少ない。過去200年間の西洋近代社会の経験は、そのように教えてくれているのです。
 さきごろ鳥取県議会で可決されたと伝えられる思想検閲条例は、法務テロリストによる日本社会破壊工作の一環なのでしょうが、21世紀の日本にゲシュタポを導入し、近代以前の「法の下の不平等」を公然と罷り通らせ、げんざいのシナや朝鮮のような三権分立も有名無実な「内面糾弾社会」にしてしまおうという、じつに大胆不敵な国家叛逆であると評する他ありません。
 そのための下ならしこそ、わたくしが前から「撤回させるべし」と主張している、全国の無数の市区議会による「非核都市宣言」だったのです。
 「自由は彼らが人間たる資格によって自然からさずかる贈り物だから、彼らの両親はそれを彼らから取りあげるなんらの権利をももたなかったのである」(岩波文庫版『人間不平等起源論』p.116)と1754年に揚言したルソー氏の勇徳に、そして古代ギリシャ市民の勇徳にも、日本の地方議会議員は、まるで及んでいない。匿名反日工作員は、日本の町人の無徳(=臆病)の弱点に、もののみごとに乗じているのです。
 人が意志の自由を失えば、もう、おのれの行動に対する善悪の判断もつきません(『社会契約論』のルソー氏の意見)。だから、16世紀カトリックの異端審問官のような、一般住民の内面の検閲は、200年の啓蒙期間を経て、近代国家ではもう誰にも認められないことになったのです。鳥取県はこれを一夜で逆行させようとしているかのようです。これが有権的に施行されるならば、近代日本国にたいする国家叛逆でしょう。
 よく、「日本人は古代ギリシャ人とは違うコミュニティに属しているから、古代ギリシャ人のような勇徳を発揮できないのは当然だ(=日本の町人らしく、戦場で戦うことを回避してもいいのだ)」と言いたげな文化人が目につきます。
 「成人の人格と共同体キャラクターは不可分だ」というのはわたくしも正しいと思いますが、日本の共同体は腑抜けの町人からだけ成っている(/いた)わけではありません。それを証明したのが「明治維新」の事歴です。町人も武技鍛錬によって武士に並ぶことができるのです。そしてそのように志す町人は常に何割かいたのです。
 戦後の公民教育の失敗は、明らかでしょう。
 いきなり「公民」をつくろうとする教育は、しばしば臆病者をつくるだけにおわります。
 勇気のための教育が、公民に必要な何かを付け足してくれるはずですが、その方法論(もっと詳細には、青年の人格を倨傲にも卑屈にもしないような武技のトレーニングメソッド)は確立されていません。
 わたくしが同和関係の機関紙に寄稿をする一方で、武士道の研究を続けていますのも、このような問題意識からなのです。