恥ずべき文化は何か

 ストーンズの1967年の“Sympathy For The Devil”を日本のレコード会社は「悪魔を憐れむ歌」と訳してしまい、これがいまだに訂正されていないのは憂うべきことです。
 シンパシーとは同感することで、同情/憐憫ではない。アダム・スミスの主著『道徳感情論』のキーワードに関する典型的な誤読は、昔はドイツ人の学者たちがおかしていたようです。しかし同書が1973年、ドイツ語経由のパーシャルな解釈を排して和訳されて以降は、このような的外しは本邦ではなくなったと信じ度いものです。
 各種のキリスト教会が上から命ずる愛や、聖書の権威による罪の脅かしではなく、市民(それは水田洋氏の脚注にあるように、「非教会的」の意味があり、おそらく日本の公明党にはシビリアン・コントロールの関係者となる資格は無い)が、あたかも商品のように各自の言動の適宜性に関する評価を互いに交換していきます。すると、その積み重ねにより、人々は、内心に公共的な規範・指針の基準を確保するに至る、とスミスは考えました。
 宇宙が、個々の天体同士の引力で結合されているように、近代市民社会は、平等な人々の互いの同感力のおかげで、自由競争のフェアネスが調整されているのです。
 人は卑下し過ぎるよりもすこし高慢でありすぎるほうが良いでしょう。なぜなら、それが他者と社会に自己流の適宜性判断という商品のプレゼンをすることになるからです。
 スミス式の近代英国社会には、「○○せよ」と命ずる神律はなく、恥の公共文化だけがあります。ルース・ベルディクトの生国の米国社会には、神律はあったのでしょう。日本の農村には「字」はありましたが「公共」はありません。武士も「天下」を考えるには儒学の語彙とパースペクティヴを必要としました。しかし『菊と刀』に関しての話は後日に致しましょう。
 堀江容疑者は自由競争をしたから非難されるべきなのでしょうか? 違います。アメリカ政府は、日本の株式市場、M&Aその他の自由競争ルールがあまりに不備であって、フェアな自由競争にはなっておらず、ヤクザやテロリストや反近代国家群に、近代世界を破壊する財力を与えてしまう、そんな闇のドレイン・バルブ(もともとは有力政治家が洗浄献金を手にするための便宜装置)が存在することを問題としてきているのです。
 つまり日本政府は自由の適宜性を米国から非難されているのです。法律を守らないヤクザや在日に巨億を稼ぐ自由を許してはいけない、と。カルト宗教を税制で優遇してもいけない、と。それはイランや北朝鮮に原爆ミサイルを持たせてパリや東京を脅威させることと結局イコールだからです。日本政府は米国からのその強い非難に応えるために手始めのエクスキューズとして、血祭りにあげやすかった掘江氏などを逮捕してみせているのに違いありません。けれども、これはやっととりかかりにすぎない。少数プレイヤーの恣意的な株価操作が簡単にできてしまうようなルーズで不透明な市場の実態が抜本から改まらぬ限りは、今回の事件の背後にある米国からの非難は止みますまい。
 米国にも大金持ちはいますが、あくまでルールを守ったフェアな競争の結果ですから、誰も妬まないのです。
 アダム・スミスは書いています。──金持ちは社会から簡単に肯定される。なぜなら、それは見え難い英知や徳とちがって、誰にもわかりやすい地位であり、社会としてとりあえず信じて安全なのである──と。
 ところが、日本の戦後の金持ちは、あいまいなルールの下、あまりフェアな競争によらずに成り上がっている者が多いと疑われているのではないでしょうか。また、金持ちが日本の表の景観風儀をとめどなく破壊し、社会を安定化させずに不安にしているとも思われている。典型的だったのがパチンコ店であり、都市郊外のデベロッパーかもしれません。
 明白にアンフェアな富裕は、近代化した大衆の嫌悪の対象になるのは当然です。先年、M&Aを仕掛けられた既存の大手放送局がぜんぜん同情されなかったのも、庶民は彼らが不当な特権を行使しているのではないかと見ているからです。
 以上は、これから日本国内で次第に表の問題となっていくはずです。
 昔、ソニーやホンダを人々はどうして声援したのでしょうか。面白いことをあくまでフェアに実践していたからでしょう。今、「日本人はやはり物作りにこだわれ」などと言うのは、じじいの思考停止です。株取引や金融で利潤を稼ぎ出すのは大いに結構なんです。それは世の中にある資源をより有益に再配置してくれた、しかもリスクをとって心労してくれた、その報償です。
 なぜ人間だけが同感(すっかり他人の身になってその感情を脳内体験すること)ができるのでしょうか。スミスの時代にはまだ分かりませんでしたが、それは人間だけが言語を有するおかげなのです。
 乳児はウンコが臭いものだとは思っておりません。犬や豚もそう思っていません。言語によって「これは臭い」と知らされて以後、それは初めて臭いネガティヴな対象だと考えられるのです。人についての評判も同じことで、犬と違って人間は、言語による評判を噂に聞いて、ある人物が好きになったり嫌いになったりすることがあり得ます。
 歓喜に同感させるには、嫉妬をうまく排除せねばなりません。成金は往々にしてこの呼吸が分かりません。
 自らの思考の客観性を高めるための文学や音楽や数学や科学の教育が、ローマ以来のリベラル・エデュケーションでした。それは東洋の倫理学のように上から道を押し付けるものではなく、個人の潜在的判断力を「ひきだす」ものです。
 幕藩制時代の武士は庶民から嫉妬されませんでした。その理由を今こそよく考えることです。
 同感と好意と理解をもって注目を集めることが、社会の中で人が追求すべき利益になります。
 自己の説話が他者に信じられることはその人の権力にとって安全・安価・有利です。それが、もっと多数の他人を指揮したいという人の野心にも発展する。それゆえ西洋では「人にむかって、あなたはうそをつくと告げることは、すべての侮辱のなかでも、もっとも致命的」(水田訳)なのです。
 言動の交換による社会的に是認された良識風儀が広く確立しますと、人はやがて、誰からも見られていない場合であっても、規範と指針を守るようになります。適宜な利己行動のイデアに近づこうと行動できるようになるのです。これが近代的自我です。
 南極点に一番乗りしたアムンゼン隊は、ソリを曳かせる犬が弱ると逐次に弱ったものから殺し、それを他の犬の食糧に充てるようにしました。共食いです。そして、そのような一匹が殺されるとき、他の犬たちはまるで無感動で、その切り分けられた仲間の肉を平気で平らげた、と報告されています。
 しかし、アムンゼン隊が極点から引き返す段になると、犬たちは皆、帰還の途にあることを察し、元気になったように見えたそうです。
 自然の原理は犬からすらも察せられるでしょう。犬も死の危険に近づくことが嬉しいとは思わない。安全な基地に戻ることを喜ぶ。人ならなおさらです。こうした観察から自然権が推理されました。むやみに噛み付く犬は、いくら強くても、群からリーダーとして立てられることはありません。
 アダム・スミスは、人間の記憶装置としての脳の一回性には、まだ考えが及びませんでした。だから、同じ近代市民が暮らす英国と仏国とでどうして習俗が分かれたままなのか、ついに得心はできませんでした。
 脳が一回性であるために、甚だしくは、自衛権のような基本的人権に関してすら、異論が生ずるほどなのです。
 スミスは、理想の体系を一挙に実現しようと願う改革者は、じつは自分以外の人には価値がないと思っている傲慢な人たちであって、彼らは社会に安定をもたらしている既存のものを破壊するから気をつけろ、と警告しました。日本では、天皇制こそが西洋のキリスト教に匹敵する社会の持続的安定をもたらしてきました。
 このように『道徳感情論』はまさに宣伝者のバイブルです。これが政治運動家の基本参考書になっていませんのは、なんとも惜しいことです。