宣伝芝居としての『ディズレイリ』

 1911年(明治44年)というと「ホワイト・フリート」の横浜襲来の3年後ですが、このとき米国と英国の間には、かつてなく緊張が高まっていました。
 要するに、サル山の若頭、世界最大の海軍力を建設しつつあった米国の指導的階層が、既に世界帝国を実現しつつもポテンシャルでは世界第二に転落しつつある(ただし唯一の同盟国日本と合算すればまだそうでもなかった)英国の「ボス猿の座」を不快に思い始めていたのです。
 似た者同士の近親憎悪がこじれるとえらいことになる──。この古典史の智恵を共有する英国指導部は、ただちに米国人に向けた懐柔宣伝の手を打ちました。
 その作戦の一つが、芝居の『Disraeli』のプロデュースです。脚本は英国籍のルイス・パーカー(1852~1944)が書きましたが、初演はソーホー(ロンドン)ではなくブロードウェイなのでした。
 英国の Devon で完璧な英国紳士として死亡した Louis Parker でしたが、じつは生れはフランスの Calvados で、ミドルネームも Napoleon といったのです。おそらくファーストネームの読み方は、もとは「ルイ」だったのでしょう。ところが明らかに彼は出自が英国であると米国人に思わせようとし、常にミドルネームを N. と略しただけでなく、ファーストネームを Luis と表記する場合すらあったのでした。
 ベンジャミン・ディズレイリは、ビスマルクと競ってスエズ運河の買収に成功し、インドをビクトリア女王に献上した、ユダヤ系の英国首相です。ちなみにディズィー・ガレスピーのDizzyも、「ディズレイリ」の愛称に他なりません。
 本劇のストーリーは至って単純で、19世紀のチープな大衆サスペンス小説と大して変わり映えはしません。主人公の首相ディスレイリが、イングランド銀行の頭取からはユダヤ人として蔑まれ協力を拒まれながらも、愛国心に基づく決心と、別のユダヤ人銀行家の助けと、ドイツのスパイを韜晦する機転とにより、英国の世界帝国としての地歩を確立するのです。そこに、モダーンな米国風の若い女性、そして、ハーバート・スペンサーとラスキンを愛読する社会主義にちょっとかぶれかかった上流青年(すぐに自分の反抗心が間違っていたことに気付いてディズレイリのための密使となり、最後は若い女性の好意も取り戻す)が絡むだけです。
 「いや、それが帝国を作る土台です。優越性を自認する事が、一英国人をして、三万人の蛮人の中へ平気で行き、而も彼等をして恐れしめ嫌はしめ又──崇拝せしめる理由なのです」
 「総理大臣と云ふものは、仕事を為なければ、為ないだけそれだけ間違ひが少いものだ。しない方が良い位だ」
 「貴女は、私が失敗した時、大英帝国も一緒に崩壊すると思ひますか? 否! チャールズや私など問題ではないのです。私達は単に車に油を差すだけなのです。然しそこに塵が入らない様に注意するのが私の義務です」
 「然し、時として、その猶太人は善良な市民となる事が出来ます。又時として総理大臣となる事もあります」
 (以上、いずれも同劇中のディズレイリの台詞/小林知治 tr. より)
 この劇が米国人に強調して伝えたかったメッセージは、英国はユダヤ人を最初に首相にした国であり、米国以上に自由で平等な近代社会を実現しているということです。したがって、ユダヤ人差別が依然として根強い当時の米国指導者層が英国を君主制の帝国主義者として攻撃する資格は無い、非難は筋違いだ……と認識させることにあったでしょう。
 だからこの劇は英国では上演される必要はありませんでした。1912年に米国で再演された後は、この劇の使命は終わったように見えました。
 ところが1914年に第一次大戦が始まります。英国はただちにこの劇を米国で再び上演させることにしました。爾後、米国の主要な大都市を次々と巡業させ、16年にはついに米国内で映画化もさせます。また同年には遂にロンドンでも初演をしました。
 この工作が1917年4月の米国の参戦の下地を作り、英国は救われました。この劇は1918年までかかっていたようです。
 「ディスレイリ」は、1921年と1929年にも、しつこく映画化されたようです(1980年にはテレビのミニ・シリーズあり)。戦間期にもなお、英国は米国の歓心を買う必要が大いにあったのでしょう。
 ユダヤとシナの違いですが、前者が自己の安全のためには近代を歓迎するのに対し、後者は他者をあくまで自己の反近代に巻き込もうとする性向ではないでしょうか。
 パーカーの脚本は日本では、昭和15年9月に国防攻究會から出版された、小林知治の『新政維新』という戯曲本に「ヂスレリー」として訳出附録されています。本編である「新政維新」は、出来映えはとるにたりない駄作ですが、桂小五郎や伊藤俊輔を主役のようにしていながら、その実、脇役で開国派の安藤対馬守(坂下門外で襲われ、負傷)を称賛し、水戸浪士式の攘夷ではダメなのだと明瞭に主張しているところに、時局的な興味が持てましょう。つまり英米との対決を避けて欲しいと願ったシナリオ・ライターがいたわけですけれども、哀しい哉、その才能は、パーカーの十分の一にも及ばなかったのです。
 大衆宣伝の良い見本は、ハリウッド製の1960年以前の古典映画の中に見出されるように思えます。演劇や映画業界の上出来のバックステージ物(たとえば『サンセット大通り』)が1950年前後にすでに作られておりますのは、観客のリテラシーもまた日本とは比較にもならぬレベルに達していたことを物語ります。この映画人たちが第二次大戦中に英国や米国の政府情報部局に雇用されて対外/対内宣伝を担当していたことは、秘密でもなんでもありません。
 たとえば1942年の米国映画の『ミセス・ミニヴァー』は、誰がみても英国発米国人向けの、上手い宣伝映画だったでしょう。同作に登場する古い領主階級のおばさんは、英国君主の象徴です。また、ここに登場する青年は、戯曲「ディズレイリ」の「チャールズ・ディフォード子爵」のキャラを借りたものです。