張学良は耳が不自由な人だったのか?

 引越し直後で郵便・宅配便ともに混乱しておりましたが、ようやく『諸君!』が届きまして、あらまし目を通すことができました。(しかし『文藝春秋』本誌と『中央公論』はまだ届かん! 住所変更しとくれよ~~)
 中西輝政先生は『諸君!』でも「張作霖を殺ったのはソ連の工作員だ!」と、フィーバー is high 状態ですた。
 先生、そろそろ Calm down してくださいましよ。
 戦前のシナ人が虚実の情報(他人のも、自分のも)をハンドルしていたノリについては、夏文運『黄塵万丈』(S42年刊)という本などが参考になります。
 確かに言えますことは、自分の実父や実母を殺した真犯人について死ぬまで誤解しているシナ人の大物なんてあり得ません。必ず真実の「風聞」は、まあ遅くも2年以内に関係者には達するでしょう。それがシナの情報環境じゃないですか?
 (とうぜん、1937南京屠殺の場合は、ウソと知りつつ、わめいているだけです。)
 また今回感心したのは月刊『正論』誌上で藤岡信勝先生が、某重大事件ソ連工作説などは信じ難いというニュアンスの公正なコメントをつけていらしたことで、疑わしいポイントが適確に指摘されている。この御方は冷静ですわ。
 それともう一つ、雑誌と関係なくて偶然に見直しましたのが、故・司馬遼太郎氏が『菜の花の沖』の中で、日本の文化のコアに南洋文化があることにつき、褌[ふんどし]を例として解説していたことです。さすがは大先生だけあるぜよ。
 ガセ(この語源は gossip)に舞い上がって大コケしてしまう人間の心理を考えてみますと、やはり「特別扱いされた」ことに、人は防禦壁を崩されてしまい易いんでしょうなぁ。
 「この情報は先生に最初にお知らせするものですが……」なんて言われると、「よし、この特種紹介でオレは名をあげられるぞっ」と計算してしまう。もうあとは冷静ではいられません。欲心から期待がどんどん先走っちゃって。
 政治家さんも同じでしょ? 小泉氏は皇室典範改変騒ぎでは、どうも旧厚生省の役人に操縦・使嗾されたのではないかと『諸君!』で秦郁彦先生が示唆しておられた。これもあり得そうな話だなと感じ入りました。
 「先生に最初にお知らせ」という、ご注進・ご進講のカンケイを濃厚に構築していた役人たちだったら、首相となった元厚相(元ボス)に、何を吹き込むこともできるに違いない。政治家は彼ら下僚を信用することで名を売り出してきたんですからね、ずっと。もう習い性です。
 このように、小泉氏のように選挙で圧勝できる長期政権のリーダーでも、役人には簡単に操縦されてしまうのです。これは、日本の公務員のクビを政治家が勝手に切れないように定めている日本の法律がおかしいためでしょう。この法律は有害です。
 個人は活動期間が有限です。政治家は任期が有限です。組織は無限に存続します。その組織をバックにし、活動期間が無限に保証されている高級役人に、個人の政治家が勝てるわけがない。勝てるのは共産党や公明党のようなシロアリ社会政党だけ。そんなのが勝っても日本人は幸福になれません。
 政権の役職にある政治家は、現役の高級官僚のクビを、いつでも、何の理由でも、即座に切れるように、いますぐ法律を変えねばなりません。またその逆の「ポリティカル・アポインティー」(政治家による高級官僚ポストの政治的任命)も可能でなければならない。
 さもないと「改革」などできない。とんでもない「満州国」ができかかっているんですよ、すでにもう。
 各省庁が独立の主権国家のように手柄と権益を競い合い、高級官僚が日本国の富を食いつぶす。諸外国とも、省庁単位で、勝手に連絡をとり合う。試験エリートの役人たちは、頭のよくない国民と運命をともにする気はさらさらないので、国家指導部に、求心力・カリスマはゼロ。したがって、草の根からの国防力はゼロ。これが「満州国化」です。
 選挙で選んだ政治家が狂った政治を進めて国民がひどい目に遭うというのなら、これは自業自得で納得するしかないのです。
 しかし選挙で選ばれておらず、政治家が自由に任免もできない秀才官僚が、政治家を(個人の寿命を超えて永続する)組織力を梃子にして操縦して、祖国をあの満州国のような自滅に誘導することを、どうして国民は許せるんですか?
 この正当な怒りを言語化するのは評論家の仕事だと兵頭は思いますが、日本の役人のすごいところは、会社員の新聞記者や、自由業のコラムニスト/コメンテイターにまで「この情報は先生にだけお知らせするんですが……」の工作を仕掛けて、籠絡してしまうことです。
 巷間の著名批評家たちの小泉ヨイショ(皇室典範は改正してしまえ等)も、小泉タタキ(郵政改革は悪しきネオリベだ等)も、どちらも役人発の耳打ち工作を、確かな全局的な証拠資料を入手した(あるいは、乃公のみが理解・把握できた)ものと早計にも信じ込み、気負いこんで、踊らされてるだけでしょう。あきれたものです。
 しかし希望の光はある。『諸君!』に載っていた、若い大学の先生の文章には感心しました。(わたくしはすぐに本を捨ててしまうので、なんという人であるか、思い出せないのが恐縮です。)目次的には扱いが後ろの方でしたけども、巻頭近くのコンテンツより数等善い。一読して晴れ晴れしい気持ちになりました。雑誌編集部の判断力までは曇ってはいないのだな、と、お見受けします。