今月の古本・他。

 以下は中共系のあるHP記事を翻訳ソフトにかけた上で短く整理してみたものです。
 事実と違っているかもしれませんが、何かのご参考迄。
 1959年の9月、米国はやっと蘭州のガス拡散式ウラン濃縮プラントの写真を得た。
 偵察衛星の写真は1960年8月に得られた。
 U-2でもロプノールまでは飛びにくかった。
 米国は、シナの原子炉は1961年末に完成し、そこから1962年にプルトニウムが取り出され、そこから原爆ができると予測した。
 ケネディ政権の2年目の時点において、同政権にはシナの核武装について分析できる専門家がいなかった。
 1961年12月、コロナ偵察衛星が初めてロプノール基地を見分けたが、未来の原子爆弾試験場であるのかどうかは定かではなかった。
 1962年4月、米国の情報班は、シナの最初の原爆はプルトニウムを原料にし、最速でも、実験は1963年初めであろうと分析。
 1ヶ月後、台湾発のU-2偵察機が包頭の核工場を偵察した。しかし米国の情報班は、これがプルトニウム生産炉だと思い続けた。
 1964年、U-2と偵察衛星は、酒泉にプルトニウム生産炉が建設中であることを発見。そこから、最初の原爆はさらに数年後になるだろうと考えた?
1963年1月22日の米国の国家安全保障会議で、中共の核武装を制止するか延期させる方法についてあれこれ検討された。
 会議後、無任所大使のハリマンは、ドイツを核武装させないことについて米国はソ連に協力できる。それを代価としてソ連に中共の核施設を破壊させることができようとケネディに示唆。
 統合参謀本部(親玉はルメイ)は1963年4月に国防長官に報告書を提出し、可能性として、米国一国、または西方同盟国との共同で通常兵器の空襲をシナの核施設にかける方法や、戦術核兵器を使ってシナを攻撃する方法も示された。
 ここでの問題は、国際法上の正当性をどう担保するかだった。
 ペンタゴンにはソ連軍との対支共同作戦など問題外であったが、ホワイトハウスの文官がそれに熱中した。中心人物は安全保障補佐官。彼は5月中旬に駐米ソ連大使と会見し、シナの核について意見交換を望んだ。
 しかしソ連大使は逆に米国の「多角的核戦力」計画を問題にする。※これは欧州各国に独自核武装をさせないための米国案だったが、ソ連から見ると米国が英仏を核戦争時の「馬の足」化しているだけのように疑われた。前後してソ連も中共に対して「多角的核戦力」のシナ版を呼びかけたことがあり、毛沢東はこれに大反発している。
 1963年6月、フルシチョフは米国と「部分的核実験停止条約」を討論することに同意。米国はふたたび、米ソが共同でシナをなんとかする機会が生じたと期待した。が、ソ連は依然、「多角的核戦力=欧州核拡散」だと、反発しており、その気運でなし。ケネディ政権は、それが障害なら「多角的核戦力」の政策は放棄できるとも判断。
 ハリマンはモスクワで部分核停条約に署名するさい、フルシチョフに、シナの核は両国にとって危険だと伝えた。
 しかしフランスは独自核武装を進めていて、それと同じことをシナに禁ずることは難しかった。
 1963年9月、訪米した蒋経国は、CIAやバンディに対して、米軍が後方支援して、台湾軍が落下傘部隊を送り込んでシナの核施設を襲撃すればどうかという提案をした。しかし相手にされなかった。そんことをやればソ連と中共が一致団結するだけである。
 9月11日、蒋経国はケネディと会談。ケネディは「300~500人の降下部隊をあの遠い包頭まで撃墜されずに送り込めるのか」と尋ねた。ピッグス湾で懲りているケネディは、この台湾人の約束はとてもあてになるものではないと考えた。
 しかし蒋経国は引き続き、台湾軍を使っての、非正規的な手続きによるシナの核能力の破壊工作を各方面に説き回り、CIAは興味を持ち続けた。
 このとき国務省の東アジアの専門家が200ページ以上のリポートをまとめる。
 彼の結論。核武装したシナが将来、欧米の主要な国家の間の力関係を変えることはあり得ない。シナは米本土を核攻撃できない。その核武装の目的はシナ本土の防衛のための抑止である。米国はシナが核実験に成功したら周辺アジア国を助けて、それら諸国の核武装を防止せよと。※これではシナの工作員だ。
 1963年年11月22日、ケネディは射殺されて、LBJが第36代大統領に昇任。1964年4月末、ラスク国務長官は、例の東アジア専門家のリポートの要約をジョンソン大統領に見せた。
 1964年初め、米国は秘密のルートから、シナが同年に間違いなく原爆を爆発させると聞かされた。
 偵察衛星は、8月初めに、ロプノールの鉄塔などの建設を確認した。
 ジョンソン、マクナマラ、カーンらは、ソ連がシナを先制攻撃することを期待する。
 9月15日、フルシチョフは蘇支国境問題について談話を発表し「ソ連は“最も新型の殲滅性武器”を含むすべての手段で自国の国境を守る」と、核攻撃の可能性も暗示した。
 しかしワシントンの期待を打ち消すようにソ連大使は、シナの原爆は心理的な兵器で、ソ連政府にとっては取るに足りないとジョンソン政権に伝えた。
 9月中旬の偵察衛星写真は、ロプノールの準備作業がほぼ完了したことを教えた。訪中したマリ政府の要人は、シナは10月1日の国慶節で原爆を炸裂させるだろうとマスコミに予言。
 じっさいの爆発は10月16日であった。米国が13箇所展開していた観測所のうち、11箇所の装置が、きのこ雲の放出した電磁パルスを捕まえた。次いで飛び立った飛行機が、高層大気の塵を集め、原爆の材料がプルトニウムではなくウランであったことをつきとめた。
 1965年春、米国の海軍は、何らかのルートで、シナが数年の内に潜水艦を持ち、そこからハワイや西海岸に届く弾道ミサイルを発射するとの情報を得た。
 米海軍は、ソ連を装ったこの本土攻撃により、北京は米ソ戦争を誘発させたいのではないかと疑った。
 ポール・ニッツェは提案した。シナのミサイル潜水艦が処女航海するときに撃沈してしまえと。
▼古本の摘録とコメント
▼『戦後産業史への証言 三』S53年2月・毎日新聞社pub.
 終戦直後、国内エネルギーとしては、水力発電の電力だけが足りていた。ただし渇水に弱かった。
 鉄道と産業用の石炭は無かったので、奪い合いだった。全企業の生産意欲がどうなるかは石炭にかかっていた。
 白州次郎はまず重油をくれとGHQに要求した。それで製鉄した機械で炭坑を復活させると。
 石炭はストをやられると全産業が困った。最も困った電力会社が石油化に走った。
 イタリアは自前資源がなかったが天然ガスがポー川に出た。
 仏は1918に石油を専売制にして輸入を国家が一手にやっていた。
 日本の炭層は欧州のものより薄く、しかも波うっている。欧州の機械をもってきても合理化にならない。液化技術にしても同様。
 世界でいちばん良質でしかも安い石炭をもっていたのがかつてのイギリス。
 欧州の石炭は石炭紀。日本の石炭は第三紀。これは堅いコークスができない。
 出光は終戦直後は、旧陸海軍のタンクの底にたまった油の集積作業をして耐乏。
 戦艦大和が沖縄に突っ込んだときの燃料は、菜種油に重油を混ぜたものだった(pp.33-34)。それが徳山にわずかに残っていた。
 戦前、テキサスオイルは上海、漢口、天津に油槽所をもっていた。しかし売れていたのはスタンダードとシェル(アジア石油)だった。
 日本は戦前、原油から極力、重油以外のものを採るという「完全製油」をやっていた。つまり揮発油、灯油、軽油をできるだけ得ようとした。というのはそれらの油種は原油の1割5分の値段である。重油は逆に原油の7割の値段にしか売れなかったので。
 ところが需要量は重油が多かった。それで足りない重油は重油製品として別に輸入していた。
 この重油製品の輸入量が日本の石油全体の輸入量のなんと7割であった。
 昭和25年、タンカーは十何億円。油槽所は4億円。
 27年に出光がアメリカから戦後はじめて高オクタン価ガソリンを日章丸で輸入した。このガソリンはそれまで国内で消費されていたガソリンより燃費は少なくて済み、しかもエンジンを傷めないので、驚かれた。
 日米開戦後に米国では接触分解装置が非常に発達した。
 タンカーの船長にとってノロノロ走るのはいやだ。
 昭和30年の米国内には、日本には暴動や革命が起こるのでリスキーだという心配がメロン財閥の中にすらあった。
 出光佐三いわく「役人というのは苦労していない。だから権力を持てばなんでもできると思う、あれはばか息子のあり方です」「生きるか、死ぬかのような苦労をしなきゃ。役人みたいに、大学を出て、うしろに国家権力を持って、それを振り回して威張っているものに利口なことができますか」
 萩原吉太郎いわく、日本の政策は課長以下の官僚が決める。若くて優秀なのだが、長い目でみると、まちがった方向に向いた精密さであって、どうも狂っている。
 官僚出身の佐藤栄作通産大臣は、言葉だけ調子がよく、石炭問題で泥をかぶる気はなかった。そこで炭労はある日の昼、佐藤と仲の悪い党人の大野伴睦・自民党副総裁に、池田総理を動かしてくれるよう頼んだ。大野は料亭で羽織を着、芸者を2人はべらせ、その片方の胸に手を入れ、もう片方には肩をもませながら、10分間、その話を聞いた。その日の夕刊に、大野が池田に会い、石炭問題に積極的に乗り出すように要請したとの記事が出た。
 野口照雄いわく、昭和24年時点で日本人は「ウィスキーの水割り」を知らなかった。小さなグラスでストレートで飲んでいた。来日したカルテックスの幹部が水で割ることを教えてくれた(p.58)。
 戦後の日本経済の成長率を米本土にいて予測できたやつはいない。何かの用事で来日して町の人びとが働いている様子を見て初めて考えが変わる。昭和24年~35年頃。
 30年たって石油が出るかどうかわからない事業に貸す銀行などない。だから石油会社は自己資本で何十年も続けられるところばかり。
 一号井ではふつうは出さない。鉱区の広がりを確認するために周辺から掘って、最もムダのない採取法を決める。しかしアラビア石油はカネがなかったので、鉱区の真ん中に一号井を掘った。これは出るのが当たり前だった。
 日本が鉱区を貰えた理由は、中東のナショナリズムの成り行き上の幸運。
 昭和30年代前半は役所の課長クラスに戦争体験者が多く、石油がなくて飛行機が飛ばなかったことをよく覚えていた。日本政府がフラフラしなかったのでメジャーズは敢えて妨害をしなかった。なにごとでも方針がフラフラしている国が妨害されるのだ。
 戦中は炭坑労務者の半分が外人(シナ人と朝鮮人)で、北炭では18000人もいた。
 敗戦でまずシナ人が蜂起した。これが日本の戦後の労働組合および労働運動のさきがけといえる。ついで朝鮮人。政府はシナ人と朝鮮人を昭和20年12月までにすべて送還した。
 北海道では昭和20年末に炭坑の労働組合組織率は75%に達する。これらはシナ人や朝鮮人のやりかたを見習ったため早かったのだ。
 三池のスト騒動で労組が、ヘルメット、覆面、末端がヤリになっている旗棒、右翼にドスで刺されない用心の週刊誌腹巻などを創始し、これが全学連に模倣された。
 大正8年に万国労働会議があって、深夜、18歳未満、女子の坑内労働は禁止せよと。日本は昭和4年から実行。
 昭和6年頃の国内炭坑不況は満鉄が撫順炭を日本へ300万トン/年もダンピング輸出していたせいだった。
 社長の構造再編決定で100%安心なものなどない。60%を目安に決断しなければサバイバルに失敗する。
 宇部興産の中安閑一いわく、稚内に石炭と石油の鉱区をもっている。天然ガスがあるかもしれない。※これがもっと早く出ていたらまずソ連軍がやってきただろう。
 昭和9年に初代の社長が宇部に1万トンの石炭船が横付けできる港を自費で造れと。これを実行した。いまは3万トンの船がつけられる。外国産石炭のトンあたり運賃は、1万トン船だと14ドルだが5万トン船ならば7ドルになる。よって国内炭が枯渇してもオーストラリアから買えば化学コンビナートを維持できる。
 石炭液化は、空気と遮断した炉で加熱して、一酸化炭素と水素に分解し、脱硫して、石油にする。フィッシャー法。
 アメリカが石油輸入国になったのが昭和27年。
 原茂いわく、組織の幹部の悩みは、敵と闘争することではない。味方の内部の意思統一に幹部のエネルギーの8割は消耗する。※「つくる会」の内訌を見ているとまさにこの通りであろう。ひきこもりネット少年の知りえない機微だ。
 東海原発の一本松は戦後まず阪大の浅田常三郎と原子力の勉強をした。
 正力松太郎は昭和31年に、あと5年でコールダーホール型の原発をつくるとブチあげた。一本松は石油とのコスト競争に自信がなかったが、現地を視察して考えを変えた。
 黒鉛ブロックはながいあいだ強い放射能にあたると収縮する。そこに日本の強い地震がくれば炉壁は崩壊しかねない。これがイギリスからの導入にあたって苦心したところ。
 鉄も、放射能によって脆くなり、温度が下がったときにボロボロになる。しかし50℃以上に常に保てばよいことを発見。
 フランスは原爆をつくるのに、アルジェリアの戦費の4000億円を何倍か上回る投資をした。
 その当時の最前の知識、努力をしてやって予期されないことが起こった場合、免責するのが常識。
 アメリカが撤去した賠償施設はほとんど腐って捨てられていた。要するに日本の戦争ポテンシャルを剥ぎ取ることだけが目的であった。
 特需総額は、米国の51会計年度で1500万ドル。FY52で2830万ドル、FY53で6760万ドル。たいした額ではない。当時は「別需」と呼称。別途需要。
 朝鮮動乱の途中まで半島への影響はソ連が圧倒していた。
 朝鮮で米軍は日本ストックの弾薬を使い果たしたに違いない。
 米の援助方針はペイ・アズ・ユー・ゴー。日本が自主的にやる気を見せれば援助のカネは惜しまないが、日本人がヤル気を見せないなら支援しない。
 MSAの域外調達は教育発注であり、アメリカの業界も好意的に技術の指導をした。
 小山内宏いわく、旧陸軍の平時編制の定員は20万人程度だったと。
 またいわく、吉田と池田は日本の再軍備に反対したから善玉となっているが、事実は、単に明確な方針をもっていなかっただけだ。なりゆきだと。
 特需の最大の恩恵は、アメリカのマネジメント方式が日本の防衛産業に注入されたことである。それまでは大福帳的な方法で後方補給資材の管理をしていた。現代にそんなやり方で対応できるはずがないのだ。
 もうひとつはテクノロジーマネジメント。米は航空機の試験装置を貸与し、その使い方も教えてくれた。
 今のダイキンは戦中の大阪金属工業で砲弾メーカー。
 P-2Vのライセンスは、高度な電子機器を搭載した大型機の最初の製造経験となった。
 昭和32年7月から37年6月末まで、「車両交換計画」。ジープを中心に、3/4トン積み武器輸送車(ウェポンキャリアのこと)、2トン半積み兵員輸送車など8万台の軍用トラックを、新三菱重工、トヨタ、日産、いすゞの各社がライセンス生産し、それを米軍が買って防衛庁に供与する。防衛庁はボロボロになったそれまでの貸与車両1万3900台を米軍に返す。主要な日本のトラックメーカーはこれで米国式の量産方式を学習した。
 ※「ウェポンキャリア」とは要するに兵員輸送向きではないぞという意味であったことをこの記事でようやく理解した。たしかに荷台は狭いものだった。
 P-2Vとジープが、弾薬特需後の穴を埋めることになった。
 当時の防衛庁には、防衛力をどうするとか装備の国産率をどうするかとかの経済絡みの長期ビジョン、企画力はゼロで、装備については安易なアメリカ依存。その文化がいまだにある。
 小松製作所は昭和29年の時点で、年に砲弾を100万発量産する能力を持った。いざ鎌倉のときは500万発にもできた。
 しかし、神武景気で、東南アジアに武器類を輸出する構想が立ち消えたため、これらの能力は延ばされなかった。
 武器については16カ国から60件の輸出引合いがあったのだが、政府がクレジットを設定してまで武器輸出市場を開拓せねばならぬ状況ではなかった。
 ATMはフランスから売り込みがあったが、防衛庁は断然国産主義を貫いた。
 日特金には河村正弥という生涯を機関銃に捧げた常務がいて、昼間の仕事が終わったあと、夜なべで機関銃の設計をした。これは昭和29年から開発開始、37年採用となった(p.258)。
 三菱電機は関義長が社長のとき、エリコンのSAMを社費で輸入してバラして調査した。※当時のエリコンも戦前と同様、ドイツ人の兵器技師たちの再雇用先であったかと思われる。
 自己資金で設備投資ができるような会社でなければ、防衛産業ではプライム・コントラクターになるのがむずかしい。
 YS-11はマーケティングが下手だった。YS-11が輸出では失敗したのは、開発コストを管理するノウハウが当時の日本にはゼロだったから。安いものよりも、良いものをつくろうとしたので。
 45トンの戦車をアメリカから貰ったって、日本では橋は渡れないし、トンネルもくぐれん(p.260)。だから61を国産した。
 千賀いわく、日本は兵器のインプルーブメントを考えない。61式TKはその代表だと。
 FXのF-11は空中待機能力が評価されて国防会議で内定していた。しかし千賀はF-100を選ぶのがふつうだろうという判断だった。マッハ1のF11を学んでも日本の航空機産業の飛躍にはつながらない。さりとてF-104は運用思想が有人ミサイルに近いもので、日本が将来独自に改造のしようがない。F-100ならガタイがでかいので学べる部品が多く、独自改善の余地も大きかろうと。
 F-104のライセンスは機体が75%、エンジン関係が47%、しかるにFCSはブラックボックスだった。エレクトロニクスの国産化率は14%で、高い月謝だった。
 昭和39年頃、米空軍はまだ日本におり、F-102を置いていたが、それが撤退するというので、穴埋めにF-104を継続生産した。
 千賀はバッヂのシステム見積もりとしてはGEのものが一番よくできていたようだと。ひとつのシステムがダウンしても他のシステムでカバーできるようになっていた。リットンのはコンピュータをどんどん継ぎ足していく方式だったが、つなげばつなぐほど精度が落ちるのではないか。ヒューズのはとにかく安価だったので、それに決まった。しかし買ってみたら要求性能を満たしておらず、次から次へと手直しが必要で、けっきょく高くなった。
 PPBSはフーバー大統領が1929に提唱した。地方行政機関はひとつの事業体である。その使命、任務をまず決めろと。そこから費用対効果が分かると。これをヒッチが精緻化してペンタゴンに適用した。
 千賀いわく、一次防、二次防……と竹の節をつぎたすやりかたは、発展途上の共産圏のやり方だ。これはPPBSにしなければならない。
 松野長官があらためてくれた。6年計画として、しかも3年ごとに計画を見直す。本当は毎年見直すべきなのだが。官僚は国会答弁で毎年ガンガンつきあげられるのは厭だった。「すでに決まっている。それにもとづいて今年も決めた」という答弁がいちばん楽なのだ。それで予算先取りの形式としての「○次防」が好まれた。
 四次防の途中で石油ショックとなり3割もの積み残しを生じた。これも3年ごとの見直しをしなかったからだ。官僚は積み残し部分を計画最終年にカットしてしまった。つまり最終年度ギリギリに「見直し」をした。これでは軍需産業はたまらない。
 民需の研究開発は3年だが、兵器は6年かかる。
 C-1の開発費はべらぼうではないが、調達機数が28機とあまりに少なすぎて、償却費が1機あたりべらぼうについた。
 小山内いわく、あれはジェットエンジンの開発に意義があった。
 50年の秋頃、兵器の共同開発の話がスウェーデンからあった。しかし国会で野党がなんでもかんでも武器輸出は禁止しろというのに官僚が迎合して、実らず。
 英国はホーカーシドレーなど黒字の会社が大合併して企業の開発体力をつけている。日本はまったく乱立。要は石炭のときと同じで会社の重役ポストが減るのが財界は嫌いなのだ。
 短SAMの開発が41年から始まったいまだに実用化のめどが立たないのも、一企業の自主開発の限界か。
 ホークは40年に千歳に最初に配置された。42年から国産。ほんとうはボマークを導入できれば理想的だった。
 ナイキは最初の一個大隊分だけ陸上自衛隊だった。
 通産から防衛に移った森田装備局長の鉄道自殺(1967-10-7)は、ホーク・ミサイル国産化をめぐる三菱電機と東芝の争いが背景だろう。※73式APCをめぐる重工と小松の争いではないか?
 45年の中曽根は将来の米軍基地は北に1箇所、南に1箇所でいいという考え。
 PXLで川重は身銭を切ってモックアップまで作っていたのに白紙化された。
 千賀鉄弥いわく、対潜哨戒機のキモは使用するソフトウェアのみ。P-3Cのエレクトロニクスなどハードに関してはごくオブソリートなものである。機体は1950年代の旅客機だ。しかしソフトで米国にぜんぜんかなわなかったのだ。
 ソフト開発は人件費が大きい。日本は研究開発予算が少なすぎるので勝てない。フランスでは防衛費に対して研究開発費は17%、米は9%(その分母が巨大だが)、西独は6%、日本は防衛費に対してタッタ1%だった。
 YS-11を太胴にするか、細胴にするか。細くしておけば気温が高い環境でも有料荷重を減らさないですむ。また片発停止時に高度維持ができる。これで決まり。次期エンジンに自信があれば、太胴にしてもよかったが。
 飛行機の開発はとにかくトレードオフ項目が多いので、若い芸術的な創作能力が不可欠。これは30歳代までしか維持できない。零戦を設計したときの堀越が32歳、久保富夫が20代だった。YSの主任設計者の東條輝雄はそのピークを越していた。
 特需産業から防衛産業にきりかわった境目は昭和30年。
 昭和30年に通産省は自動車の国民車構想をうちだした。だれものらなかった。
 YSは官が55億の開発予算と特殊法人を用意しなかったら、できるわけはなかった。
 なぜC-1を軍用にも民用にも使える機体にしようと考えなかったかというと、防衛官僚がまじめで、要求性能を100%欲するため。また、どっちつかずの予算の獲得や執行をやれば、あとの会計検査がうまく通らないのが日本の官庁のしきたり。
▼『防衛生産委員会十年史』S39年6月・経団連pub.
 口絵写真の最初の国産警備艦『いなづま』に長魚雷。
 米軍から最初に完成兵器として製造の発注を受けたのは4.2インチ迫撃砲。27年5月3日に、大阪機工が528門受注。
 苦労したのは領収検査。品質管理が日本企業にはついていけてなく、ここでハネられた。すると納期が遅延し、資金繰りが苦しくなった。
 弾薬のような単純なものでも、ダメだった。※いかに戦中の日本軍の砲弾が戦場での効果が少なかったか。
 兵器製造設備は高精度でなくてはならず、したがって設備の損耗が早い。他に転用もできぬ特殊なものが多い。また投資技術の陳腐化が早い。発注の長期見通しが無い。納期は確実性が求められる。メーカーとしてはとてもリスキー。
 保安庁調達はさらにやっかいで、窓口によって規格や仕様が異なる。
 バズーカと銃剣を受注したのは日平産業。
 29年には日本製鋼に75ミリ無反動砲16門の試作発注あり。
 神戸製鋼所は28年から2年弱で105ミリ榴弾を100万発製造した。普通信管と、最も難しい時計信管は高野精密工業(株)が下請け。ファイバコンテナは菱森工業。
 同時期、小松は4.2インチ迫撃砲弾をやはり100万発製造した。
 1954にビクターオート府中工場(旧軍施設)は水陸両用車も受注。
 ハーフトラックも米軍のカネで国内生産して装備していた。1953年度に149両、7億4500万円。1954年度に187両、9億3500万円。1955年度に149両、7億4500万円。
 航空機の仕事は、27年7月に昭和飛行機が軽連絡機の分解修理を頼まれたのが戦後初。
 ジェットは28年に新三菱と川崎航空機が、F-86とT-33の分解修理をうけたのが最初だった。
 新明和は、30年に、米海軍の飛行艇の修理をうけおった。
 国産計画の当初は、航空爆弾は、10キロ、30キロ、454キロの三種類。
 航空部門の朝鮮特需はタッタ10億円だった。昭和30年には防衛庁の仕事だけでもこれを上回った。
 昭和27年に、カナダによる1940年のオレンダジェット・エンジンの開発が日本に合っていると経団連は通産省に建言。
 F-86を国産するときにアメリカ政府がその経費の46%も負担してくれた。※朝鮮戦争から1964までが「失われたチャンス」だった。この間の歴代内閣の無気力が日本の核武装を不可能にした。
 内閣も国会も怠慢で、国防会議よりも先に防衛庁と三自衛隊がスタートしてしまった。やっと岸内閣が32年に「国防の基本方針」を決定した。つまりはじめの3年間は自衛隊に「方針」がなかったわけである。
 昭和30年に米は陸上自衛隊のために261億5200万円の装備品をくれた。また、405億2200万円の弾薬をくれた。同じ年、海自用の艦船供与は76億9900万円、弾薬無償供与は4億5300万円であった。※このようにタマ代が装備品代を上回るのが陸軍の大特徴である。兵器で勝負するのではなく、弾薬で勝負するのだ。
 WWII後、アメリカは東南アジアに15万台の車両をタダでくれた。6年でポンコツになるが、平均12年も使い続けていたので更新需要があった。米陸軍省は、日本企業にそのチャンスをやろうとした。
 昭和31年7月、いすゞ、三菱、トヨタ、日産に16台のトラックを試作させ、アバディーンで半年の性能試験をした。これが合格し、32年5月に防衛庁と協定。
 59年度以降の分担は、1/4トン車が新三菱重工、3/4トン兵器運搬車と2+1/2トン兵員輸送車はトヨタ自動車。
 とうじ、艦艇は建造に3年かかった。
 兵器輸出がふるわないのは、政治的・技術的な秘密事項が多いことと、口出しする省庁が多すぎてその折衝でメーカーが疲れ果てることが阻害要因である。
 また純国産であっても、ミルスペックを使っているのだから、米国に対する「信義」の問題を生じてしまう。いわんや国産武器には外国武器のパクリが多かった。
 欧米には兵器の設計と試作だけで企業として喰っているところがある。なぜ日本は兵器の量産と開発を切り離せないのか。
 NASAと国防省はみかけ上分かれているだけで、連絡委員会が存在し、緊密に方針を調整して重複投資を避けている。そして成果を互いに利用している。
 武器産業、なかんずくロケット産業は開発費の比重が高く、社内蓄積がよほどないと乗り出せない。
 従業員の半数は大卒以上でなければならない。
 昭和35年時点で陸自の武器と戦闘車両類は2000億円くらいあったが、ぜんぶ米国からの無償供与で、そのため陸自は人を増やすことだけ考えればよかった。唯一、第七混成団の機甲化装備だけを国産する計画だった。
 自走無反動砲、特車、特殊運搬車は、第七師団のために開発された。
 初期に米からの供与にのみ依存しすぎたために、ふつうの軍隊では正面に対する後方の経費が全体の6割になるのだが、陸自のみは2割と、とんでもなくいびつな比率が定着してしまった。
 兵站機能の充実を犠牲にして装備の調達量を増すことは、けっきょく未稼働資産を何年も抱えることになって無意味であり、予算効率を低下する。
 旧軍人は初度費と年々の運用費を脱漏なく勘案できない。有事に国家総動員すれば良いというものではない。
 防衛庁は民間企業と違って減価償却の資金留保ができない。長期計画の中に更新費用を見込んでいかないとだめ。
 国防の満足な水準は定量的に表せない。しかし兵站は管理できるのであって、その点は大企業と変わりはない。大福帳式ではだめ。
 老朽陳腐兵器は不良資産に相当し、これは勇断をもって廃却しないと予算効率を低下させる。
 兵器発注は契約までの時日がいたずらに長く、本決まりとなってからの製造期間が短くなり、作業は納期である年度末に皺寄せられ、同企業の他部門が圧迫され生産ラインを撹乱させられるパターンが多い。これは間接損失といえる。だから36年に数社の地方(北海道、近畿、九州)企業が、防衛庁からの武器受注を辞退した。
 経団連は池田新内閣に、GNPの2%を長期的に防衛費にあてろと申し入れ。
 36年7月の閣議決定で、1ヵ月分の弾薬備蓄を方針策定。