蒋介石を相手に汁

▼以下、S42年8月pub.夏文運『黄塵万丈』の摘録とコメントです。
 屈原の「不辰」……自分の生れたときが悪かった。
 1906金州うまれの著者は、8歳から11歳まで四書五経を暗記させられた。
 シナ人のための中学がなかったので、日本人がシナ人向けに経営していた旅順師範学堂へ。
 国語教師はシナ人で、流行の「白話体」「注音字母(現代カナ運動のようなもの)」を北京から導入。
 とうじ、日本には5万人のシナ留学生がおり、一高などの特別予科にパスすれば、シナ政府の官費生となることができた。
 著者は広島の高等師範に入った。シナ人は百数十人いた。
 勢力を競っていた三勢力。国民党。中国青年党。共産党。後2者は、国民党にあきたりない勢力が、右と左に分かれた。中共がソ連の指導で1921に結党されると、同時に『醒獅』という雑誌を出していた集団が中国青年党を組織した。
 WWⅠ後、労働力が不足したフランスは、上海でシナ人の「勤工倹学生」を募った。毛沢東はこの試験にパスしたが、自分では行かなかった。
 満洲事変前、すでに朝鮮人は道尹(県知事)になっていた。が、満州では、張一族以外は役職には就けない。
 張学良は、夜遊びに耽って朝寝坊を繰り返す毎日だった。
 学良は易幟後、青年党を禁止した。
 学良はヘロイン中毒だった(p.185)。
 アヘンをやっている著者もヘロインがよくないことは知っていた。
 満州事変前夜、毎晩のように日本軍が演習して砲声が聞こえ、日本内地の空気も凄まじいので、不安が募る。奉天の馮庸大学では軍事教練用の小銃を土に埋め、トラブルを避ける措置まで講じた。しかし多くのシナ人は、日本はソ連を恐れて何もできないと思っていた。
 事変後、馮校長が大学専用飛行場から北京に脱出すると、地元暴民が大学を掠奪。
 満州国のために働いていた馬占山らは叛乱し、ソ連を後ろ盾にできる満州里に籠った。二人はソ領へ逃げ込み、ヨーロッパ経由で極東に舞い戻る。
 南満生まれの著者には、冬季のシベリアでの列車中泊はこたえた。またソ連軍は朝鮮族を将校にしてふつうにやっているのに、日本軍が満洲人を将校にするようなことはない。その違いに強い印象を受けた。
 張作霖は足が切断されたが即死ではなかった。気力だけで3日生き、変装してかけつけた息子に、日本軍にやられたと言った。
 日本とのトラブルは、満鉄平行線の問題だった。
 爆殺された作霖はシナ民衆から「大元帥」と讃えられ英雄視された。
 この事件でシナ人の日本観は一変した。
 中村大尉は日本の馬に乗っていた。蒙古人にはその馬が珍しかったので注目され、変装がバレてしまった。中村は取り調べに応ずれば助かった可能性があったのに、完黙した上、柔道技で相手を投げ飛ばしたので、司令部で射殺されてしまった。シナ軍も困って、その死体を山に埋めたのである。
 1924に孫文が連ソ容共路線を決め、国共合作。孫文死後の1927、反共右派の蒋が南京政府をつくり、米国の援助を受けた。
 この南京政府を屈服させるには、日本軍が河北・河南・山東・山西・チャハルの北支5省(満洲の南隣の地域)を統一し、なおかつ反蒋派の「南西派」と組んで、南北から中部の南京政府を挟撃すればよいと、日本軍は考えた。
 張学良は30トンの金塊を残して逃亡した。この行方は不明で、斎藤隆夫が陸相を追及してもいる。あるいは、関東軍参謀の土肥原、板垣、和知らが隠匿し、西南工作に使ったのではないか。
 1934に蒋軍は端金の中共ソビエト政府を攻撃して延安方面へ駆逐した。
 その督戦に西安におもむいた1936におきたのが監禁事件。
 田中上奏文は、田中内閣当時の参謀総長・金谷範三の論を基幹とし、松室孝良が発表したものだ。
 シナの新聞紙上では「田中奏摺」と題されてデカデカと報じられた。
 著者は学生時代からこれは偽作だと思っていた。作霖と学良の2代に仕えた秘書で、王●【くさかんむりに凡】生という湖南出身のシナ人が書いたものだとも聞く。
 国民政府には藍衣社という国内工作機関と、国際問題研究所という対外工作機関があった。この国際問題研究所の部長で対日情報担当の陸軍少将だった羅文軾に戦後、著者が日本で会ったとき聞いたら、王●生はじつは共産党員であったと。
 南西工作が失敗した日本軍は、満州南隣地域の安定のためにチャハル省主席の宋哲元を担ぐことに決めた。宋には政治手腕はなく、実直な武辺者であったのが日本人に評価された。宋は南京政府と日本軍の圧力の板ばさみとなった。
 あるとき板垣が胡漢民に、満洲は対ソ防備のための重要拠点だから、シナから切り離して独立地域にするというと、胡は、「盗亦有道」(盗むにも道理が必要だ/老子)、満洲を独立させるなら、シナ人(を代表する胡)にその代価5000万ドルを払え、と求めた。日本は無為無策でチャンスを失った。
 土肥原は土匪だ、満洲のローレンスだ、などと悪評が高かったが、会ってみると儒将の風格があるとシナ人に驚かれる。宣伝ほど恐ろしいものはない。
 1935に中共が延安に遷った。1933までは第三インターの指令は外蒙古または新疆経由で上海で受けた。瑞金から外蒙のどこかに移れと命令されたのも1934のモスコーからの暗号無電。モスクワからのクーリエによる命令伝達は上海にはないのだった。しかし延安では直接にソ連人が差遣されてきて、その指令を受け取れるようになり、蒋介石政権に対しての立場が強化された。
 宋哲元が使えていた親分の馮玉祥は、清朝末期から有力軍団(西北軍)を形成し、シナ人としては珍しい近代教養を有し、米国には「クリスチャン・ジェネラル」だと自ら宣伝していた。馮は決して士官学校出身者を用いず、宋をも兵隊から抜擢した。宋は自分の名前がようやく書けるだけだった。
 中原会戦で蒋は、閻と馮の連合軍を撃破。閻は大連に逃げていたところを関東軍の板垣が飛行機で山西の太原に送り込む。閻統治時代から山西の財源はアヘンである。
 このとき蒋介石は<昔からシナは武力によって統一はできないといわれたが、しかるに自分は武力によってこれを統一した>と得意の絶頂。
 馮はソ連に逃げ、洗脳されてすっかり左翼化して帰国。内蒙に勢力をのばしたが、周囲は中共党員ばかりだった。
 蒋と長く争った宋哲元の二十九軍は張学良に支配された。
 胡漢民は反蒋の南西5省(広東、広西、貴州、雲南、四川)をまとめ、東南アジア華僑3000万と結託して日本の資金援助で開発株式会社をつくろうとした。
 磯谷廉介少将は宋哲元をまったく頼んでいなかった。ところが磯谷の部下の影佐禎昭が宋をプッシュし、冀察政務委員会の首班とした。
 宋の約束実行を待てないというので日本軍が冀東政権を樹立させたことは宋にしてみればまったく面白くない。宋が反日に寝返る一因となった。
 また宋と交渉する関東軍と天津軍の方針がバラバラで、日本軍は信用できないと思われた。
 天津軍の経済参謀が池田純久。
 西安事件で、国府の国防部長の何応欽は、西安への爆撃や出兵を主張し、蒋一族に誤解されてこまった。蒋を釈放させたのはソビエト第三インターの指令だ。
 中共にあやつられた学良のために蒋介石は抗日をやるという一札をとられた。盧溝橋事件は必ず起きるというべき緊迫状態に。
 事件当初、最高責任者の宋哲元が北京を不在にしていたのが拡大の一因。
 宋の片腕が張自忠(三八師長)だったが、宋は師団長よりも格上のポストの天津市長を手兵がゼロの蕭振瀛に与え、しかも最有力の相談相手にしていたのが面白くなかった。
 張が実力威圧によって知日派の蕭を南京に逃亡させ、みずからが天津市長におさまると、宋軍閥にはインテリがいなくなり、共産党としては操りやすくなった。北京には親日の空気は皆無となった。
 盧溝橋事件のとき、張は親日を装い、日本訪問中であった。
 7日の盧溝橋事件から29日の事変拡大まで3週間も経過したということは、これは満洲事変とは違って、日本側の計画的な事件ではなかったことの証しだ。
 拡大の責任の8割はシナ側にある。日本の責められるべきは、ただ眼識が無いことだ。
 冀東政権は親日で固め、対日貿易で利潤を得させていたが、長官の殷汝耕は日本留学組だったからともかく、その部下の幹部は侮日であった。保安隊司令官の張慶余はシナ語が分からない和知参謀の隣室で「新しい天津軍司令官は香月とかいうそうだが自分が北京の前門外にある芸者屋で買った女の名前と同じだな」と高声に談笑していた。著者はこれはヤバイ侮日の兆候だと思い和知参謀に警告したがスルーされた。やがて通州事件を起こしたのは張の保安隊である。
 停戦協定は7月11日に結ばれたが、夜、どこからともなく北京城外で銃声がきこえてくる。この銃声は双方の監視員たちにも誰のしわざか分からなかった。
 じつは劉少奇が夏期休暇中の北京の学生3000人を動員して南苑の高粱畑で軍事訓練させ、抗日気勢を盛り上げさせていたのだった。
 急遽、帰国した張自忠は、逼宮(三国志に出る曹操の作戦)を宋哲元に応用した。すなわち日本軍との交渉をまとめさせず、宋をして「知難而退」せしめるというもの。宋は忍耐力の無い男だった。
 張は香月司令官との会談から北京の自宅に戻る宋哲元の専用列車を砲兵団長の揚少佐に命じて爆破させようとした。しかし揚がターゲットが宋であると気付いて驚き、スイッチを押さなかった。
 宋は北京でこのプロットを知らされ、日本軍のさしがねではないかと疑った。
 香港に逃亡した揚が人に話したので、下手人が日本軍でないことがわかった。
 張自忠は宋哲元に委員長を辞任させ、自分がそのあとがまに座ろうと考え、直接、そのように求めた。宋は事件の解決を委任すると言い、幕僚を引き連れて郊外西苑の二十九軍司令部に入るや、ただちに三八師の副師長に対して、今晩12時に天津日本租界を攻撃せよと命令を発した。
 天津襲撃は7月29日。通州虐殺事件も同日である。
 驚いた張自忠は米国兵営に逃げ込み、変装して自転車で天津に逃げ帰り、南京に向かった。二十九軍は日本軍に駆逐されて平津地区から南下敗走を開始する。
 しかし張自忠はこの件で蒋介石に認められ、陸軍大将に進級したが、大別山脈での対日戦で死亡した。著者によると、事変拡大の第一責任者は張自忠だ。
 著者がおもうに、日本軍は居留民保護が念頭にあるために、万一のときの早期解決を重視して天津軍を増強させた。それが冀察側を刺激した。
 日本軍の方針は局地解決と全般的解決の間の連絡がなく、場当たり的だった。
 日本軍の情報収集は、特務機関によるものばかりで、軍としてのシナ研究の下地がない。そのため、特務が雇用していた程度の低いエージェント(多くが日本語のできた朝鮮人)の寄せるいいかげんな情報ばかりを信じ、程度の高いシナ人からの情報収集を怠った。しかるに特務機関の高級軍人たちは、シナ人とシナ語では話も通じないくせに、自分がシナ通だと自惚れていた。
 特に中共をあなどっていた。最後までシナに共産党などないのだという認識だった。ところが宋哲元の作戦主任・参謀処長の鄒大鵬は正式党員だった。3000人の学生に武器を渡したのも彼だ。馮玉祥夫人も中共シンパのインテリで、中共は彼女を通じても宋を動かしていた。
 特務機関の指揮官同士に功名心競争があり、またエージェント管理の引継ぎがなく、機関長が転出すると、情報資産はすべていったんチャラになった。
 天津軍の三人の高級参謀の間にも功名争いがあって、一人が得た特ダネを他の二人は妬んで無視し、情報を共有せず、バラバラに策動し、天津軍としての統一意思がなかった。
 日本軍を北京郊外から原駐地に戻させないように策動していたのも中共だ。
 終戦直後の国民党時代、満州には漢奸はないとされ、逮捕者がなかった。日露戦争時代の満洲馬賊は、多くが日本軍に協力している。
 上海では日本の憲兵隊が無線監視班をもっていて、送信するとすぐに急襲された。
 藍衣社は拳銃による暗殺を得意とする。
 広東料理店は出入り口が両開きの軽いスイングドアである。
 シナでは、ある人物がトップの側近であるかどうかが価値のすべてで、その人物の正式の肩書きなどに意味はない。ところが日本の役人風に考える高級軍人にはこれがわからなかった。中央統制調査局長で藍衣社のリーダーの戴笠に日本の陸相からの親書を渡せばすぐに必ず蒋介石に届くと著者がアドバイスしても、日本の参謀は、戴笠の肩書きが一少将で局長クラスだからダメだと、相手にしなかった。
 蒋介石も最初は日本の政治の仕組みがよくわからなかった。近衛総理に実権が無いなら、誰が和平のできる実力者なのか? 重慶の防空壕の中で、蕭振瀛が、「三人います。それは日本の軍部の大佐、中佐、少佐です」と冗談をいい、そうした少壮軍人を代表するのが板垣陸相なのだと説明した。
 重慶政府内にも、和平を実現した者が次の内閣(行政院長)を背負えるという野心がめいめいにあり、各派閥が競争していた。
 蒋介石は、黄埔軍官学校を設立する前に株式取引をやっていた。
 張李鸞は、汪精衛工作を、影佐の「欺君罔上」(天皇を騙している)であると。
 汪の重慶脱出は、たぶん蒋との事前了解の下だろう。昆明からハノイに飛行機で飛んでいるのは、オーソライズされていたからとしか考えられない。※ルドルフ・ヘスか。
 戦争のゆくえがどうなろうと、重慶もしくは南京のどちらかの国民党が生き残る。
 汪は17歳のとき清国の摂政を暗殺しようとして逮捕された。
 汪は自分が死んでも国民党に尽くすという考えだった。彼が読みきれなかったのは、日本が英米と戦争を始めたこと。まさかそうなるとは夢にも思っていず、非常に後悔したという。
 これは著者も同じで、もし日本が英米と戦争すると知っていたら、協力するシナ人は一人もいなかったろうと。
 影佐と和知はどちらも陸士26期で競争し合っており、重慶工作を自分の手でまとめて将来の大将になってやろうとの野心に燃えていた。
 繆斌工作は重慶特務の戴笠が日本の情報をとるためにやらせただけ。極東裁判でマッカーサーが証人として繆斌を要求すると、蒋は繆斌を銃殺させた。
 国民党特務のうち、射撃の腕が求められるセクションには、満州系統の人が希望された。射撃名人が多かったので。
 「孫子もいっているように、戦いには戦いで、戦力を養うほかはない」(p.169)。※いってねー。
 朝鮮人と満人は日本の憲兵隊から通訳兼エージェントにされていたケースが多かったので、終戦直後は命の危険があった。
 日本降伏と同時に北京には城防隊という訓練された特殊工作隊が中共によって送り込まれた。国府軍と違い、中共は終始、平津(北京、天津)の都市に潜入していたので、国府の先手をとって諸都市を押えた。
 それに遅れて藍衣社が入ってきた。鉄道が中共ゲリラに破壊されているので、彼らは兵站を米軍の輸送機のドロップに依存していた。国府兵士の入城とともに北京市内は無差別な掠奪にさらされた。
 重慶の漢奸懲罰令によると、日本軍占領地に住んでいた住民は漢奸となり、占領下の大学生は偽学生、人民は偽人民となって、粛奸委員会が勝手に逮捕できた。
 共産党は蒋介石に漢奸摘発をやれやれと慫慂した。そのとおりに実行すると、人民の怨みは自動的に国民党に向かうわけである。
 李宗仁が親日的だったので、北支では戦犯銃殺が一人も無い。中支、南支では多数のB級戦犯が銃殺されている。
 銃殺は都市郊外のきまった場所でやるので、そこに連れて行かれなければとりあえず安心。
 殷汝耕は南京で銃殺されたが、獄中での態度は終始端然。他の要人はそうではない。人間が落ちぶれたときに、修養した人としない人はすぐわかることを著者は体験した。
 シナ人は逮捕されると急に仏教を信心して読経する者が多く、その声がうるさかった。
 国民党は、辺境民族に仏教信者が多いので、要人の中に仏教徒の戴天仇を混ぜて宣伝とした。
 著者は獄中生活のためアヘン中毒が完治した。
 蕭萱という湖北出身者は日本に留学したほどの男だが易者で、蒋介石の母の墓を選定した。風水。蟹の手に似ている地形のその蟹の指のところに家族を葬れば一家は繁栄するのだと。
 風水は明の劉基が元祖で、皇帝のために全国に易者を派遣し、いい墓地がみつかると、付近の道を破壊して水脈を断った。そうすることで将来、皇帝より良い運勢の人は現れ得なくなるからだ。
 蕭は1949年に蒋の母の墓付近を再調査したところ脈に反応がない、つまり将来がないので、台湾にいくのを止めたと。
 その頃、中共系の新聞に、毛沢東の両親の墓の話が載っていた。1934頃、何建という将軍が、湖南の毛の父母の墓を破壊し、屍を灰にして撒き散らした。これで家の運命は断たれたはずであった。ところがその新聞には、何が壊したのは本当の毛沢東の祖先の墓ではなかった、毛姓の他人の墓だったと。わらうべし。
 辻の潜行を保護したのは軍統局の戴笠だろう。辻は蒋の母の墓を破壊せず、逆に盛大に供養したので、蒋が恩に着たのだと。
 直接にシナ人民と接する憲兵が、シナの程度の高い階層に対する人扱いが粗暴であったため、シナ人の反日態度を決定付けてしまった。