現代テニヲハの限界

 アダム・スミスは1761年に言語起源論を書いています。
 とうじの英国のインテリも、その伝統として、やはりギリシャ語とラテン語の基礎を十代のうちに学ばなければなりません。
 ところが、これは18世紀の英国では、もうとんでもない苦業のように感じられました。
 といいますのは、古代語では、ひとつひとつの語に、数十もの変化形があるのです。それを一つ一つ覚えぬうちは、古代文の作品鑑賞にまで進めません。
 そして無数の変化形をせっかく覚えても、古代語は死語ですから、それを使って語るギリシャ人もイタリア人も現代にはいないわけです。それを考えますと、もう学習の入り口ですっかり厭になってしまう。
 英語が粗雑で表現パワーが未熟きわまりなかった13世紀頃であれば、ギリシャ語やラテン語は、母国語では不可能な思考や表現を可能にしてくれる宝箱の鍵、魔法のツールだったわけです。だからインテリは必死でそれら古代語や現代外国語(特にフランス語)を覚えようとしました。モチベーションはおのずからかきたてられていました。
 ところが14世紀に英語の骨格が固まって以降、しだいに英語の表現パワーが増して行くにつれて、高等思考のためにギリシャ語やラテン語の修業は、不可欠ではなくなっていくのです。
 そして英国の軍事力が高まるにつれて、こんどはヨーロッパの外国人が積極的に英語を学ぼうとするようにもなりました。少年スミスはそのような時代にギリシャ語とラテン語を学ばされ、深く考えるところがあった。
 スミスは、古代のギリシャ語、ラテン語には前置詞がなかったこと、つまり、語の格変化だけで、精密な情報伝達を実現していたことに注目しました。スミスは、これこそ自然に狭い地域で形成された古代語の特徴なのだと考えました。
 ところが偉大な思想を生んだ古代ギリシャ語の文法は、時代とともに変わり、やがて、ぜんぜん別な文法におちついていくのです。それはなぜなのか。
 劇的に変化したのは、トルコがコンスタンチノポリスを占領してからだったと、スミスは言います。
 これ以降、ギリシャ語に「前置詞」が加わった。そのことによって古代ギリシャ語は死語への道程に入った。古代文法はその時点で破壊されて、別なものになったのです。
 その変化のキモは「単純化」でした。ある情報を精密に伝達しようとするときに、すべての単語を格変化させる必要がなくなった。たんに、語と語を前置詞で結んでいけば、それだけで十分に精密に、情報の記述ができるようになったのです。ユーザーは、格変化を覚える必要からは解放されました。
 ただしそれには代償が伴っていたのです。古代ギリシャ語では、一文の中の語の配列をどのように前後させようとも、情報を精密に伝達できたのです。ですから音楽的な構文が自在にできました。
 ところが、前置詞で語と語を結ぶようになりますと、前置詞の前後に来てもよい語と来てはいけない語はもう決まっていますので、語の配列の自由度はほとんどなくなりました。そして、一文を書くのに、以前は不要であった多数の前置詞を不可欠に用いねばならぬようにもなりました。
 この結果、ツールとして単純化したギリシャ語は、詩作にはぜんぜん向かなくなってしまった。非音楽的に、ガサツになったわけです。
 現代日本語が、古い日本語よりも、詞に自由に音曲を割り当て難いのと、これは同じ現象です。
 トルコ人に支配される前のギリシャ語は、たった300の根源語から、無限に新語を形成できていました。全盛期の古代ギリシャ人は、ギリシャ世界の外からは言葉を輸入しませんでしたので、古代ギリシャ語の変化はラテン語以上に複雑であったのです。
 しかし古代語が別な言語と融合すれば、いきおい、前置詞が導入され、変化は単純化されることになる。だからたとえば古代ラテン語も、ギリシャ語とトスカナ語との合成でしたので、その二つの母語よりは単純化されていたんです。
 スミスの時代の英語は、現在形、過去形、進行形以外の動詞は、10個前後の「助動詞」がないと、文としてまとまりません。伊語、仏語では、ふたつの助動詞が、動詞の不備をおぎないます。
 4~5の前置詞と、6つくらいの助動詞によって、古代語のすべての変化と活用を代用できる。この「経済」が、近代語において発見されたのである──と、スミスは分析しました。
 さて、わたくしも他人のことは言えそうにないのですが、日本語をみじかく端折ろうとしますと、ついテニヲハの割り振りが雑になり、伝えたい情報がほんとうに精確に伝達できているかどうか、あとで自分で読み返してみて、保証の限りではなくなります。
 少ない字数で、精密な情報を伝達するためには、明治時代の漢文読み下し調はじつに便利なものです。だからわたくしはそれを現代文を書くときにおいて愛用しております。
 現代の日本語のテニヲハは、漢文読み下し文や、現代英語の前置詞よりも規定力があいまいながらも、それでも同国人になら、なんとなく通じてしまう。このことに現代の日本語のスピーカーが無自覚であることが、米国における同時通訳者を、はなはだしく悩ませております。
 この無自覚は、「他人を知らない」こととニア・イコールですので、日本人の権力にとって危険です。他人を知らなければ宣伝もできない。否、その前に、まともな政治がしにくい筈です。
 若い日本人が、現代日本語のテニヲハの規定力のあいまいさ加減に自覚的になるためには、漢文の勉強か、外国語の勉強は、役に立ちます。だから小学5年生に英語を教えることは悪いことじゃない。問題は、その授業が、この「自覚」を導出できるかどうか、だけでしょう。果たしてこれを自覚できている教師が、何人いるのでしょうか? 日本語が話せない外人は、この問題を理解していないでしょう。