新刊と旧刊の摘録とコメント。

▼渡部昇一『昭和史 松本清張と私』2005-12刊
 松本清張の『昭和史発掘』は、その後の立花隆の『日本共産党の研究』で古くなった。 この両大作は、どちらもシンプルな個人の著作ではなかった。『昭和史発掘』は1964~71の週刊誌連載期間を通じて藤井康栄がデータマンを務めている。『日本共産党の研究』は、文春あげての調査体制を組んだもの。
 ※組織の一員となれば「仕事の効率」が得られる。それゆえに大企業のサラリーマンの給与は零細企業よりも良くなるのであり、中央官僚の「ご説明」は一人の党人政治家よりも隙が無い。ただし仕事の満足度の基準は、ギャラとは独立である場合がある。
 シベリア出兵を日本政府は渋り、アメリカが兵を出すなら日本も出しましょうと言った。連合国はアメリカのウィルソン大統領を口説き、日米共同出兵の形にさせた。
 共産党大好きの清張は、尼港事件の下手人に多くのシナ人や朝鮮人がいたことを書かない。また日本側に責任があったような書き方をしている。
 田中義一といえども300万円という大金を手土産に政党に入らないと首相にはなれない時代。それのどこが暗黒か。米国でもアイクは退役してすぐ政界には迎えられなかった。いったん大学総長になって民間人として共和党に入党している。
 中野正剛も尼港事件でロシアを庇護している。当時の人は「中野は赤化している」と見た。
 中野はコミンテルンからカネをもらっており、それを追及され死んだのではないか。
 摂政宮を爆殺せんとした朴烈の皇室憎悪は、コリア系共産党員と一部部落解放運動家にはよく見られた思想。
 荒畑、堺、山川などの大物共産党員が日共から離れたのもそれが理由。
 宮本はモスクワに従うのが正しいと。沖縄出身の徳田球一もそう。
 摂政宮にステッキ銃を発射した難波は無政府主義的な共産主義者。
 当時の法律では朴と金子文子は死刑しかないのだが、判決から10日後に特赦となって無期懲役に。清張は、でっちあげだったからだというが、これは当時の日本が成熟していたからだ。
 田中清玄いわく、朴はGHQに解放されたあと、北鮮に渡り、そこでスパイとされて殺されたと。
 清張はなぜ芥川の自殺の話の最後にミヤケンの論文などもちだしてくるのか。それは当時の日共への「ご挨拶」以外ないだろう。『改造』で懸賞2等になった小林秀雄の論文は時代を超えた価値があるが、1等のイデオロギー教条そのまんまあてはめている御文章を、今では松本以外に誰が評価しているか。
 芥川は昭和2年に自殺した。小林多喜二はその5年前に死んでいるが、死刑にされたわけではない。天皇を処刑しソ連に日本を進呈しようと運動する輩がその結社のゆえをもって死刑にされ得るようになったのは昭和3年以後のこと。しかしその後も治安維持法で死刑にされた者は一人もいなかった。逆に、共産主義者に殺され、片輪にされた警官は何十人もいた。警官が怒って取り調べが酷になったのもあたりまえだ。
 大正7年の米騒動で世間が驚いたのが、22府県で被差別部落の人たちが騒ぎはじめたこと。そして大正11年に水平社の創立大会。
 清張は被差別部落と浄土真宗の関係を初めて明確に指摘した。エタに市民権回復のチャンスを与えない代償として、来世に一般の者となって生まれ変わると説く浄土真宗の救済があてがわれたのだと。「今日どの未解放部落に行っても、貧しい村落には似つかわしくない大屋根の寺院が建立されている」。
 浄土真宗系の仏徒が靖国神社攻撃の急先鋒であるのも故がある。
 大正15年に福岡聯隊の演習に千人の水平社が示威運動を仕掛け、大騒ぎになっている。
 北原二等兵が岐阜第68聯隊に入営するとき、水平社の仲間たちが赤旗(共産党)や黒旗(無政府主義)あるいはイバラの冠を描いた旗(荊冠旗)を立てて見送り、北原本人も営門に着くまで反軍演説をして歩いた。
 北原を押し付けられたのは、気の弱い、兵隊あがりの中尉であった。
 入隊式の知事祝辞の最中に北原は勝手に班内へ帰ってしまった。軍曹は制止できなかった。
 またなぜか北原だけ、丸刈りではなく長髪のままでいることを許された。
 また北原は入営時の宣誓も拒否した。
 連隊長から呼び出されても、食事中を理由に待たせ、やはり宣誓拒否。
 酒保で将校に敬礼せず、それをとがめられても「北原二等兵」と名乗れば誰も手が出せない。
 外出を禁ずると差別だと騒がれるため外出させた。するといきなり帰営遅刻。
 やがてついに脱走。重営倉と陸軍監獄の分かれ目は、一週間以内に戻るかどうかだが、北原は一週間目ぎりぎりに滑り込んだ。
 直訴事件直後の中尉の処分は、まったく不明である。
 姫路の刑務所に入れられた北原は昭和3年の天皇即位で恩赦。しかし「悪いと思っていない」と拒否。
 清張によれば、当時の徴兵の検査官は北原のような運動をしている者は兵役にとらないようにしていたのだったが、なぜかこの検査官だけ、逆の考え方をし、このような者こそ軍隊で矯正して欲しいと思ったのだ。
 しかし田中義一が嘆いたように、軍紀は弛緩していた。
 『日本共産党の研究』によれば、日共が発足した1922に「二二年テーゼ」がつくられており、そこですでに「天皇制の廃止」は謳われている。それも、筆頭に。
 日本では共産党員は死刑になるのを恐れた。死に物狂いになるほど日本の大正時代は悪くなかったのだ。
 福本らがモスクワに呼びつけられると、いつ殺されるかわからないような雰囲気だった。そこで押し戴いてきたのが「二七年テーゼ」で、これによって党幹部たちは拳銃をもって警官を殺さなければならなくなる。
 なぜ田中義一は治安維持法を改正して最高刑を死刑にしたのか。昭和3年になると、いかに大正ボケした迂闊な日本の指導者層にも、コミンテルンとその支部の日共が何を本気で意図しているのかが誤解なく悟られてきたからだ。
 野呂栄太郎は重症肺結核だった。どこにいても死んでいた男。
 共産党員というだけでは死刑にしないようにしようじゃないかと決めたのは、田中清玄によれば、中堅~若手の検事団。彼らは自由主義的で国際的視野もあった。
 田中義一は死刑を求めた。が、検事団が反対しぬいた。
 農地改革は戦前すでにその萌芽はあった(p.160)。
 昭和元年の共産党幹部は年長の佐野が33、ミヤケンは17である。2.26の青年将校は、年長の西田が34歳、栗原は27だ。維新時の西郷は40、大久保は36、伊藤は27である。
 立花いわく初期日共に組織論も運動論もなく、特高の掌の上で踊らされていたと。
 S3以降に治安維持法で一斉逮捕された日共党員のS6年の裁判は公開とされ、被告は共産イデオロギーの宣伝以外の陳述は自由に許された。それを新聞も連日報道した。多くの被告党員はクートベ(東方労働者共産大学)に留学しスターリン治下のおそろしさが身に沁みていたので、日本のほうが良い国なのではないかと考えるに至り、佐野学以下、つぎつぎに転向した。
 S7年11月の大森銀行強盗事件の背景は何か。大陸で国民党と中共の角逐が熾烈化し、極東のコミンテルンが地下に潜らざるをえず、モスクワから日共への資金の流れが中断したためのジリ貧から。
 清張は庇っていたが、立花本により、スパイMの謀略などというものはなく、これら破廉恥事件はすべて日共が日共の方針として起こしていたことがはっきりさせられた。
 昭和8年だけでも匪賊による都市襲撃は27件、列車襲撃は72件。
 露清密約を日本が知ったのは1922のワシントン会議のとき。
 袁死後、黎元洪が大統領に。すると1917に張勲が北京に攻め上り、清朝を復辟。それを安徽省の段祺瑞が討った。1920、安直戦争(直隷=北京周辺地のこと)。直隷派のボスの呉佩孚は、張作霖から援軍を得て勝つ。1922に張は満州独立を宣言。続いて張は1923年に北京をうかがうが、直隷派に撃退される。24年、容共親ソの馮玉祥が奉天(=張作霖)側について、張が北京を支配。
 溥儀の帝師だったジョンストンは1934に書く。「遅かれ早かれ、日本が満洲の地で二度も戦争をして獲得した莫大な権益を、シナの侵略から守るために、積極的な行動に出ざるを得なくなる日が必ず訪れると確信する者は大勢いた」
 溥儀は東京トライヤルで「覚えがない」などと否定したが、ジョンストンの本に序文を書いた上で御璽を2つ、押してある。つまり「実印つき」の一級資料なのだが、実印のない国が構成した極東軍事裁判では証拠採用されなかった。
 浙江財閥は、米国でキリスト教徒になった宋耀如がシナでの聖書販売権をもって帰国して成り上がったもの。米国は浙江財閥と姻戚関係ある蒋介石を頼んでシナにて英国と張り合おうとしていた。
 蒋介石の南京政府が1927に英日から承認されているのは、揚子江を押さえていたから。
 清張いわく、田中メモランダムの全文を見た者はないのに、なぜ竹内好[よしみ]は昭和40年1月の『中国』に全文を公表しているのか。
 日本は日露戦争後、満洲を清国に返しているし、清朝がつぶれたのちも、張作霖の満洲支配を黙って見ている。
 清張いわく、1924に北京の主となった作霖の得意や想うべしだ。日本のいうことを聞かなくなったのは当然だ。
 ※つまり清朝の後継王朝を自分が創始できると考えた。日本軍は彼が満洲で反共防波堤になることしか希望しなかった。無学な彼を日本のエリート軍人が随意に操縦できると思っていたが、馬賊の頭目がそんな愚か者であるわけがない。ところが日本の官僚は、自分が有していない能力、つまり受験テクニック以外の器量についての想像ができない。馬賊は無筆である。試験エリートにはなれない。しかし多人数の頭目である。無法の荒野で大勢を従えられる人間には、試験では測定できないずばぬけた「器量」があるのだ。そこが、器用なだけで器量の無い日本の軍官僚には分からない。無学な者はエリートが操縦できるし、もしも操縦できなかったら殺してしまう資格が自分たちにはあるだろうと軽く考えた。満州に限らない。多くのシナ人はどうしようもなくとも、少数のシナ人には日本の役人には無い器量がある。東南アジアでも同じである。それを想像できないのが日本の役人たちだった。「程度の高い土人」とまともにつきあえなかったのが日本のエリートの失敗だ。
 最後の御前会議で鈴木貫太郎が天皇に判断を丸投げしたのは、立憲君主制では絶対にやってはいけないことだった。
 28年の爆殺事件は、溥儀が満洲に入る、その露払いの事件だったのではないか。
 佐分利は一高でボート部。将来、大臣になれる可能性が高かった。幣原外相が駐支公使にした。幣原のペット、なる見方は当たっており、内地では不評だった。護身用の小型ピストルをもっていたが、それは自殺現場にあった大型拳銃とは違う。
 蒋介石政権の中枢にいて、条約破り外交(革命外交)を推進していた外交部長・王正廷のいいように交渉を進められ、国府に与えてはいけない言質を与えてしまったのが自殺の背景とされる。
 あるいは、公には申し開きのできない素性のカネをシナ側から私的(たとえば女関係)目的で受け取り、それを誰かに知られてしまったのではないか。
 天理研究会の大西愛治郎は、天皇はシナ人が日本にやってきてなったのだとの教説を垂れていた。さらに天皇は不徳なりとも言い切った。そして自分が天皇に代わるべきだとまでうそぶいた。不敬罪と治安維持法違反で逮捕後も持論をひるがえさず、一、二審とも懲役四年。上告し、大審院では心神喪失で無罪。これのどこが暗黒か。
 キングになるには正統性が必要で、だからナポレオンはフランス国王ではなく、皇帝になった。日本の天皇も国王であって皇帝ではない。
 昭和天皇は、「機関」のかわりに「器官」の文字を用いたら問題ないといった。本庄は天皇の意を体してこれを世間にリークさすべきであったのにしなかったから、美濃部が襲撃されることになった。
 当時の人も、政友会の機関説攻撃は異常だと思っていた。だから昭和11年の総選挙では民政党が躍進している。これのどこが暗黒か。
 大正元年の第三次桂内閣は、組閣手続きが非憲政的だとの護憲演説だけでつぶれている。
 野間清治はローマとイギリスを念頭して雄弁を日本に定着させむと夢見、明治43に『雄辯』を創刊。これが1万6000部売れた。漱石の『猫』すら1年で1万部しか売れなかった頃だ。翌年には『講談倶楽部』(講談の速記本)を発刊。
 佐々木邦の短編『閣下』に、海軍将校のなかに、出仕時には背広服を着て、本省で軍服に着替える者がいるが、陸軍にはまだそんな不心得者はいない、と元少将が嘆く場面がある。
 昭和5年のホーリー・スムート法が1929の株式大暴落の原因だ。1年で世界の貿易量が半分に減れば当然だ。
 つづく昭和7年のオタワ会議をみて石橋湛山すら、ブロック経済の行く末は戦争だと予測した。
 清張いわく、47歳の老先輩が、ほんらいは若い者がすべきテロをやったというので青年将校らは発奮したと。
 鈴木侍従長の妻は昭和天皇の乳母。鈴木本人も昭和4年から侍従長。2.26で天皇が激怒するのは当然だった。
 真崎の後任の教育総監の渡辺大将は、軽機と拳銃でさんざん撃たれ、軍刀でも一太刀斬られた。※2.26死亡者のなかで、最もハチの巣にされた人ではないか。いかに真崎が事件の動機であったか。
 高橋是清は布団の上で拳銃に撃たれ、さらに肩に斬りつけられ、右胸を刺された。
 高橋が生きていたら、日米の石油問題はどうにか解決したはずだ。
 宮城を警備していた大高少尉は中型モーゼル拳銃。闖入してきた中橋中尉はブローニングの大型拳銃で、そのブローニングからプーンと硝煙の臭いがしていたので疑惑をもたれた。
 清張川島陸相を評していわく、歴代中、おそらく最低の陸軍大臣、と。
 真崎を有罪にすれば皇道派は潰せるが、国民に反軍感情が起こると統制派も損だと。
 2.26当時、外地の満洲にいた南次郎大将もなぜか責任をとらされ、予備役に。これで現役大将は、植田、西、寺内の三人になった。
 広田内閣は寺内寿一のゴリ押しで閣僚入れ替えをして船出したが、私学出身の浜田代議士とのハラキリ問答に破れた寺内のゴリ押しによって瓦解した。官僚出身の広田の内閣が日本の立憲政治を葬った。
 2.26がまた起きるという恐怖が文民を金縛りにした。2.26がおきたのは5.15の殺人犯の刑が軽すぎたからである。犬養総理を殺して6年で出所しているのだ。これら凶悪犯を世直しの志士とマスコミがもちあげたのは大不況のせいだった。その大不況はマルクスの予言が当たったと解釈された。しかし実は原因はホーリー・スムート法なのだ。
 米英はブレトンウッズ会議で戦後、自分たちの誤りを認めている。自由貿易が世界的ルールになった現在、日本社会にはマルクスは必要ないし、日本が他国を侵略する可能性もゼロである。
 ※兵頭いわく、桜田門外のテロの成功で幕府の権威は地に堕ち、幕府の消滅が決定されたようなものである。2.26はまさしくそれに匹敵する。しかし2.26や5.15が起きたのは日本の内務省の警察武力が近代国家として貧弱すぎたからだった。一弾も反撃し得ずして警視庁ビルを明け渡し、それで切腹人も出ていないことの方が問題だ。日本は本州の東北と北海道の工業化をパスして外地に何を求めようとしたのか。石油を禁輸されたのはホーリー・スムート法とは関係がない。
▼国立歴史民俗博物館監修『人類にとって戦いとは』2000-4pub.
 ※「大坂夏の陣図屏風」の部分を挿絵に掲げ、いかにも兵隊は女を手篭めにするものなんですよ、と言いたげであるが、左翼らしい浅さである。この屏風に書かれているのは身分のある女で、だから両手をとって誘い、あるいは馬に乗せようとしているわけである。目的は後日の褒賞である。身分のある女と下賎の女は、当時は誰でも一目で区別がついたのだ。
 岩畔いわく、北支では規律があった。が、戦線が中支、そして南支に移ると、いまわしい情報が中央部まで聞こえ、戦陣訓のようなものを出すしかないと阿南陸軍次官に進言したと。また岡崎清三郎・教育総監部総務部長は、「某師団長の北支・中支における乱暴さは、松井石根総司令官をして、この師団を内地に帰さない以上は中支の治安は良くならぬと言わしめた」と。
 ドナルド・キーンが日本兵の戦死者のポケットから集められた日記を分析する仕事をしていたことは、鴨下信一『面白すぎる日記たち』1999に書いてある。
 『日清戦争従軍秘録』を書いた濱本利三郎は松山中学の夏目の同僚で、『坊ちゃん』の体操教師のモデルとされる。50名中35名が死んだ戦闘の生き残りで、凱旋後も数年間はその悪夢で飛び起きていたという。
 「一個師団のなかで、三人しか生存者がいなかったという激戦」(p.132)が203高地であったなどと信じている研究者が、兵隊日記を見て何を語りたいのか?
 1891に「輜重輸卒として入隊」(p.134)する兵隊などいたのか? 輜重兵ではないか?
 雷管式小銃がその威力を実証したのはアヘン戦争。
 シナ事変では二度目の補充あたりから「郷土聯隊」の建前は崩れた。他地域から混ぜるようになった。
▼石田龍城『戀の江戸城史』S9年5月pub.
 千姫は、お附き老女の刑部卿の局が手引きして大坂城を脱出した。徳川の間者であったのは当然である。
 ※坂崎出羽守(石州濱田1万石)は、ほんとうに槍一本で救出などできたのか。二代の娘が小名に嫁すわけもない。
 お留守居役と銀座役人は遊郭の保護者なり。
 お目付け1000両、長崎奉行は3000両(賄賂の相場)。
 「飛脚の野郎が巡礼に何んだか耳打ちをして、駈出しましたが、その駈け方と云つたら、全つきりなつてません」
 上履きの下駄のことを浄木[じようぼく]という。新興宗教の礼拝堂にはこれを手に抱えて集まる。
 遊女の出産(避妊失敗)率は案外に高かった。ここから考えて、武家の間ではかなり高率で水子殺しが行なわれていたのだと推定できる。
 11月、3000石の豊島刑部は、城中の廊下で、老中の井上主計に短刀で抜き打ち、肩先深く割り込んだ。二の太刀で胸を貫いた。
 つづいて藤森久兵衛に羽交い絞めにされたので、刑部は自分の胸を刺し貫き、その短刀が藤森の胸も刺し通した。
 本多正信は武功はなかったが家康から好かれていた。同輩の妬みをおそれて、5万石で満足していた。ところが子の正純はばか息子で、家康から宇都宮の15万石をうけてしまった。
 天井を二重張りにしたのが、いいがかりの一つの理由となった。
 松平定信の改革も、御側御用人の本多忠壽との提携がなければ不可能だった。
 将軍につく女中が「中ろう」もしくは「手附中老」。
 中ろうの大ボスを上ろうという。その出自は堂上家の姫君であり、姉小路、花町、飛鳥井、萬里小路などの役名がついていた。
 じょうろうのすぐ下に、中間管理職の「お年寄り」がいる。旗本の娘。
 御台所につく女中は「お清」。この人たちは容貌の悪いものが選ばれており、将軍のお手はつかない。
 大奥をクビにするときは「近来勤め向き思し召しに応ぜず」で、永の暇にできた。
▼司馬遼太郎『菜の花の沖』文春文庫・新装版 1巻 2000年(6巻まで同じ)
 山伏の杖は「犬追いの錫杖」。
 武家も庶民も成人儀式まで下帯(褌)をしないのが江戸期の習俗。北方に褌はなく、日本は南方文化であった。褌祝=へこいわい。
 この庶民風俗を武家では格式ばって「元服」といっているだけ。
 若衆宿もシナ、朝鮮にはない。南洋習俗だろう。稲作と漁労という点で揚子江以南の楚、呉、越が倭人に似る。楚、呉、越の言語は古代タイ語系だったらしい。
 ひとつ村の異なる字ほど仲のわるいものはない。「このような社会意識は、あるいは日本だけの特殊現象ではないかと思われる」。
 忠義は人形浄瑠璃を通じて庶民に宣伝されていた。
 農業兼業なら漁労は沿海のみですむ。遠出の必要はない。だから逆に農地ゼロの漁村が遠洋に乗り出すことになる。
 蜂須賀氏は収奪が過酷で、領民は最後までなつかなかった。
 船上ではすべての言葉に耳を澄まさねばならぬ。よって無駄口は禁忌である。
 網元は社会保障の責任者でもあり、不漁時のめんどうをみなければならない。しかも天候に左右される。だから三代続くことはない。
 人別帳から抜かれた無宿人は、互いを石州とか備中とか呼ぶ。コジキ仲間でもそうである。
 兵庫港は小さい川しかそそがないので堆積がなく、深い。しかし後背に大農地や大市街が開けない地勢のため、大坂に負けた。
 北陸米を陸送で上方に送るときは馬の背に2俵づつのふりわけであった。
 幕府は500石船までを公許。この頃は商船は1000石以上まで黙認。
 紀州、淡路、四国の言葉がきたないのは、敬語・ていねい語が発達しなかったため。その理由はおそらく南方の無階級文化が残ったことにあろう。特に海浜がひどい。
 「江戸期もこの時代までくると、むかしの船のように順風だけにたよっているのではない。横風であろうが逆風であろうが、たった一枚の帆と舵を奇術のように操作することで帆走してゆくのである」(p.245)。
 そのために大きな舵が必要だった。
 苗字帯刀の帯刀は大小である。
 近衛は苗字であり、その上に氏として「藤原氏」がある。九条、三条、三条西、みなおなじ。
 藤原氏の分流で加賀介になれば「加藤」の苗字をつくる。伊勢なら伊藤。
 地名を苗字としたのは、開墾地主が土地所有権を主張するため。
 北条荘をひらいたから北条家になる。
 上方では冬でも日に何度も打ち水をする。商品にほこりをかけないためである。
 ジャンクは枡を3個縦にならべた構造で、枡から枡への通行はできない。シナ語で船をチュワンといい、それがマライ語で訛り、さらにポルトガル人がジャンクと紹介した。
 家康は、西国大名が鳥羽港から江戸を襲うのを警戒した。鳥羽城主が500石以上の船を集めて淡路島で燃やす役目をおおせつかった。
 1730成立の樽廻船は菱垣廻船と同航路だが、灘の清酒を江戸に早く運ぶ専用貨物運送業である。菱垣はつみこみに7日以上かかる。樽は1日で終わる。
 樽はシナ・朝鮮にはない。
 桶は古代にはなく、「曲げ物」に液体を入れた。神社の手水柄杓を大きくしたようなもの。
 日本の樽は灘の酒造業者の発明だろう。すぐに四斗[しと]樽ができた。
 関東の酒がまずいのは、火山灰地で水がまずいため。
 江戸は釘までを関西から輸入していた。
 海水を嫌う絹は陸送された。
 難破は多い年で1000艘もあった。
 旗本の家来、大名の足軽まで武士だとカウントすると、江戸時代は10人に一人が武士だった(p.340)。
 江戸初期の人口が1500万。うち、150万が侍。
 元和偃武の結果、各藩はしごとひとつに吏員御同役3人をさだめ、三番勤め(3日に1日出勤)としてワークシェアした。
 同心は、足軽なので、勤務中は袴をつけない。
 行政の請け負い組織が発達していたので、わずかな与力・同心で統治できた。
 兵庫から江戸まではふつうは10~30日の航海だが、風がよければ無休で3日で着くこともある。
 右へ70度、ついで左へ70度。これを「間切る」という。(p.381)。
 風をななめに帆に当てるのを「ひらく」という。
 船首を風から遠ざけるのを「おこす」という。風上に指向するのを「詰めびらき」という。
 これらの技術は瀬戸内で発達した。
 飛脚は1店から月に3度、出ていた。江戸日本橋から京三条まで6日で走るのがきまり。
▼第二巻
 戦国期の南蛮船の帆は亜麻。
 木綿を二枚あわせたさし子の帆は手間かかるわりに破れ易く、水で重くなり不利。
 廻船問屋は多数の人を切り盛りせねばならず、投機的でもあり、子孫はうまく継げない。
 こんぴらの語源はクンビーラで、インドのワニである。
 舟虫は船の敵ではない。船食虫が害虫。筆の太さで白く、長さ30センチになる。海水で呼吸している。そこで江戸期の船は淡水に碇泊しようとする。また冬は陸揚げして船底を火でいぶす。
 船が衝突した場合、風上側の責任が重い。
 オランダは九州より狭いが、誰もそれを知らない。識字率は欧州一であった。
 船の1トンは昔の10石と換算すればよい。
 つまり千石船とは100トン船にすぎない。
 和船の舵は多数の綱で吊ってあった。河口の浅瀬まで入るため。
 鰹は鰯を追う。干すと固くなるので、かたうおといった。
 熊野には古代から水産社会がある。紀州船はどこの沿岸にも入会権を主張できた。
 熊野人は山育ちでも海をおそれない。
 近代資本主義がないところでは会社は血縁でやるしかない。
 「信用」は農村の徳ではない。漢代に五常として「信」が加えられたのは、広域商業のせいではないか。
 西鶴は日本永代蔵のなかで、シナ人の「云約束」がたがわないこと、品物にこすいごまかしをしないことを絶賛している。
 のれんの信用が日本で言われるようになったのは幕末のこと。
 しごとは「段取り八分」
 八戸の町医、安藤昌益(1703~62)は、いっさいの支配者のいない世を「自然世」とし理想視。※ルソーの本が1750年代に出ているから、その影響だろう。
 水戸藩は他の2家にくらべて石高が半分だが格式維持のため出費がでかい。そこで農民を苛斂誅求した。商品生産は顧みられなかった。ところが偶然の地理から那珂湊が水戸城下以上に発達して助かった。
 津軽藩の城は弘前だが、内陸。そこで無人に等しかった浜に港をひらき、青森となった。
 日本海をきたのうみといった。波の底辺が短く、するどくとがっている。
 大型和船の最盛期は明治30年。
 シナ語には「いじわる」「いびり」に相当するものがない?
 あかを排水するのに「すっぽん」とよばれた水鉄砲があった。※スポンジの転訛?
 嵐の夜は、落水者を見捨てたといわれないように、艀、または板を数枚、放り込んで去る。
 朝鮮には貨幣がなく、商船がなく、したがって漂流船もほとんど出さなかった。
 かみぶすま、とは、仙花紙の袋のなかに、砧でよく打ったわらを詰めた布団。江戸末期でも綿布団を買えない町人はこれであった。
 商人が遠国者と交話するときは浄瑠璃の敬語を使う。武士は狂言。
 帆柱は江戸のある時期から寄木になった。細い材を鉄環でたばねてある。これはオランダ船の帆柱よりすぐれている。※オランダ風車の軸がこの方式ではないか。
 けやきのことを、関西では槻・つきという。
 滑車・せみの材は、桜か欅でないと、摩擦で発火する。
 出戻り、は船言葉だった。
 門を構える許可はふつう、苗字帯刀権をともなった。
 すでに売買文書が一般だったので、無筆では船頭にはなれない。
 帯刀を許された百姓でも両刀を帯びるのは婚礼、山の管理などのときだけ。旅行は脇差のみ。
 砂鉄を精錬するものを「ムラジ」といった。
 苗字はなくとも定紋はかならずあった。
 昔の剃毛は、温湿布でぬらしておいて、いきなり剃刀。
▼第三巻
 サメのことを関西以西ではフカという。
 柄巻きのサメ皮は南方のアカエイ。
 なまこやあわびは清国沿岸でもとれた。フカヒレも。それをわざわざ長崎に買いに来た。いかに清国が内陸主義帝国であったか。人民が海に出ることを警戒し、沿岸の漁業従事すらも許さなかったのだ。
 肉体が痛いと他人のことを考える余裕はなくなり、徳がなくなる。だから商人の親玉は病気になったら引退すべきだ。
 鬢づけ油は、ゴマあぶらかなたね油に、蝋、竜脳を加える。
 旗本に雇われる最下級侍の年俸が3両1分。よってサンピンという。
 トンは、英国がフランスから葡萄酒を買うときに樽を叩いて数えた音から。
 柱は杉の心材の周りに細く割った長い檜を巻いて鉄環でしめた。
 706年の遣唐船の1隻は「佐伯」という名だった。
 律令政権は、地方権力者が稲作をうけいれればそれでよしとした。
 北海道のことを古くは「わたりじま」と。
 松前氏の祖先は武田信広。コシャマインを斃した。
 鰊(アイヌ語)のことを和語でカドという。カドノコが訛ってカズノコ。
 松前藩だけが鯡と書いた。さかなにあらず、コメと同格という次第。
 若狭湾→琵琶湖北岸→大津。このルート上に発達したのが近江商人。
 1669に松前藩はシャクシャインを毒殺。
 安藤昌益は将軍も商人もことごとく盗賊だと。
 青森の「十三」と表記される地名は、むかしは「とさ」だったとさ。
 昭和30年に江上波夫らが十三湊のアイヌのチャシ(城)を発掘した。
 平安後期、東北は平泉藤原氏の半独立国だった。それを安東氏が継承。
 津軽海峡の潮流は3.5ノット。
 1万石大名は城はゆるされず、陣屋もち。松前は幕末に家格があがったので、最後の築城ができた。
 百石以上の船は寿命が15年。北前は年に2航海くらいしかできぬ。それ専用船を造っても20往復で寿命が尽きる。
 幕末の函館山は薬師山とよばれていた。
 旗本の御普請役は家禄だけがあって役料がない。よって家計は苦しい。無役と同じ。
 ○○番とはすべて戦争役。
 幕府には「縄・竹・残り物奉行」なんてのもあった。
 コサックは黒貂をもとめてシベリアに来た。貂を獲りつくしたのでラッコに切り替えた。ラッコは北太平洋にしかいない。
 松前藩はアイヌに和語を学ばせず、農業も禁じた。山丹への人身売りまで強いていた。 ラッコの毛皮の特徴は、なでると毛がどちらにもなびくこと。
 最上徳内は農民だったが定信が直参に引き立てた。
 都市では商品経済のため道徳価値観は相対的になるが、農村では道徳教育は純粋まっすぐ君を生む。
 鰯も金肥だが、鰊粕にくらべて効果が低い。よって安い。
 幕府は薩摩藩には海路の参勤交代を許さなかった。
 1796に英船が噴火湾のアブタに停泊した。
 室町商人は茶と美術品。江戸商人は学問に数奇を向けた。
 明治の勅任官は、幕末の三千石・無役。
 厚岸に最初に入った洋船は寛永年間のオランダ船。
 幕府は大名をクビにできる。しかし藩政に口出しできない。
 「嘉兵衛は、目がくらむほど腹が立ってきた」(p.340)
 厚岸は直径30センチの牡蠣の死骸がぶあつく堆積していた。牡蠣がアイヌの冬の食糧になった。
 アイヌの家屋は草でつくられていた。
 大名の弓術師範は容儀端正(p.394)。
 巻末解説。逃げ込み所のない長汀を海の者が灘と名づけた。これは陸の者の呼称ではない。
 醸造酒は半年でまずくなる。西宮の水をつかうとその期間が先延ばしされた。六甲山地地下の貝殻層で硬水化し、さらに西宮地下で海水に混じるためらしい。
 西宮水は石鹸の泡立ちが悪い。庭石に苔がつかない。
 この水は、海岸から200~400mに湧く。その範囲外では清酒造りの原料に不適。
▼第四巻
 古代インドの一部族、そして東アジア騎馬民族のすべては、一種の月代をし、弁髪にする慣習があった。シナ人だけがそれをしなかった。
 定信が科挙を始めた。湯島で幕臣に受験をさせ、成績次第で登用した。
 科挙と違うのは、幕臣と与力と地方代官の地役人に受験資格を限ったこと。
 探検ベテランの徳内は四月中旬にエトロフにわたった。
 板に縄を通す穴をあけるときは、焼け火箸を使う。
 アイヌの櫂は穴があり、それを舷側のヘソに固定して漕ぐ。アッサプという。
 岬をノッケという。野付崎。
 道東北部では南風が霧をもたらす。西風で晴れる。そして西風はめったに吹かない。
 澗・ま。逃げ込める小さい入り江。
 シナ皇帝は宇内の唯一のぬしである。よってモンゴル人がシナ皇帝になったとすれば、その故郷は以後永久にシナの「版図」であると考えられる。また清朝が成立したことで、満洲と沿海州とシベリアも永久にシナの版図になった。これは西洋の領土観とまるで違う(pp.125-6)。最上徳内の千島日本領説はこの同類だった。
 版は戸籍、図は地図。土地支配ではなく、その人民を畏服させると、土地が版図になる。日本のヤクザの「シマ」意識と近い。
 対馬藩は朝鮮王から官位をもらって冊封をうけていた。これを根拠に李承晩も対馬の領有を主張。
 皇帝に発見した土地の地図を贈る。これが西洋人の「領土発見」の儀式。
 狩猟民族の特徴は、土地への執着がないことと、歴史を書かないこと。
 千島の島の名がことごとくアイヌ名であることは確か。
 ピョートル在位は綱吉~吉宗期。
 ロシア人はバイカル湖で遠洋航海の訓練をした。
 北千島には、北海道で滅んだ古アイヌ語が残っていた。
 黒田が榎本を海軍中将にした。とうじ、大佐以上の海軍人はいなかった。これは外交官としての格式をつけさせるため。
 旧幕の旗本は容儀が堂々としていて対外劣等意識がない。だから薩長人よりも外交に向いていると判断された。
 日本の幕府は直轄領は500万石にすぎない。また、加賀の102万石大名も、土地を私有していたわけではない。徴税権、人民支配権があっただけ。これは西洋の貴族や王族とはことなる。
 樺太と千島の交換は、ロシア側から働きかけた痕跡が明らか(p.177)。
 エトロフにはもともと蝦夷人が700人しか住んでいなかった。鍋一つ無く、20代で老人化していた。
 与力は町人相手に生涯を送る、特殊な武士。町奉行支配。
 日本最大の長崎港にすら、埠頭や桟橋はなく、瀬取りであった。荷揚げのための石積み足場だけはあった。
 ジャンクの断面はU、和船はVで、和船は荷物がないと安定しない。
 サシは東北で岬のこと。
 津軽半島、つまり左の半島の陸奥湾沿岸では潮が南流する。
 津軽海峡は、周年、不意に南東風(やませ)が襲う。
 囲炉裏は下賎とされ、松前の高級武士宅では火桶で手をあぶるだけだった。さすがに一室だけ、塗り籠めの間があり、冬はそこに籠城。一酸化炭素で頭が痛くなる。
 伊能忠敬は測量の旅で1日32キロあるくこともあった。杖先に羅針がついていた。夜は星を天測して緯度を測った。
 エトロフの沿岸魚はオホーツク向きに多く、太平洋向きは少ない。
 羽太正養『休明光記』によると、エトロフのアイヌは酋長は獣皮を着ているが、他は鳥の羽をつづったもので、ひどい者は草をあつめてひっかぶっている。15歳以下は冬でも赤裸である。小屋はあるかなきかで穴居同然である。
 鱒の夏の遡行がものすごかった。灯明用の油をしぼり、残骸は肥料にする。天日で乾燥させ粉々になったものを上方に運ぶ。
 船頭は宋代のシナ語。
 野差し=長脇差。
 陪臣、つまり諸藩の藩士が幕臣の前に出るときは、たといこちらが家老であっても、丸腰になる。大名と旗本だけが、将軍の直々の臣だからである。
 苗字帯刀御免の町人は、町人まげのまま大小を帯びて役所に行き、その大小を玄関であずけて、丸腰で奉行に対面する。
 嘉兵衛の船の一つは『福祉丸』(p.371)。
 巻末解説。「め」は海藻のこと。みるめ、わかめ。めかり神社。昆布だけは別格だったので、めがつかない。
▼五巻
 天領と郡代は、勘定奉行の配下。勘定奉行は常に4人いた。
 井上靖が『おろしや国酔夢譚』を書いた大黒屋光太夫は嘉平より18歳年長。死んだのは光太夫の方が一年あと。
 間宮林蔵は生涯独身。
 露米会社は、東インド会社の真似。
 1779にオホーツクに津波あり、ウルップの山に船が登った。
 元の貿易政策の反動で、明は銅銭を農村で使用させず、自国民の海外渡航を禁じ、小船ですら海に出ることを禁じた。同時期におこった李氏朝鮮ではさらに徹底していた。
 幕府は八王子同心の厄介(2、3男)100人を寛政12年に屯田兵として蝦夷地に入植させた。が、地理に適応できず、数年で壊滅した。
 農奴制のロシアからはどうしても水兵・水夫が供給され難かった。地主は裁判権すらもっていた。その逃亡農奴がコサックになった。
 シビル汗国がシベリアの語源。
 クロンシュタットは首都をまもるための軍港。
 1700ころ、大坂商人は江戸のことは「いえんど」と発音していた。「いしだ」のことは「いしんだ」、「おおさか」は「おさか」であった。
 ピョートルはスウェーデン軍の捕虜を大量にシベリアに流した。
 江戸時代に人頭税はない。薩摩だけ例外だった。
 ポーランドはカトリックゆえ、ローマで起きた進歩はすぐに伝わった。ロシアには、ルネサンスは伝わらなかった。
 ロシアにドイツ人やスウェーデン人が多いのは、新教を守らんがため。
 オランダが対日貿易で英国に勝ったのは日本の需要を調べて知っていたから。英国人は毛織物が日本にも売れると思い込んでいて敗退。
 エカテリーナ2世の次のパーヴェル1世は貴族たちに暗殺された。
 英国商船は100トン未満でも米国西海岸と広東を往復できていた。
 フリゲート艦は船団護衛用の快速帆船のこと。20~50門で武装。日本ではフレカットと書いた。
 ロシアの国書は皮革に金で書いてあった。
 1803、光太夫は、ネヴァ川で二人乗り気球を見た。
 執権北条氏のことを人々は公方とよんだ。
 スペインはカリフォルニアを鎖国させて交易を禁じた。
 ハワイ大学のステファン教授が書いた『サハリン』には、洞富雄の「少くとも北樺太が中国の領土であったことは明白である」説が引用されている(p.241)。
 ダッチハーバーはウナラスカ島にある。
 アリューシャンの聖パーヴェル島は原住民の抵抗が強く、ロシア兵が6人死んだ。
 バラノフ島は全島が針葉樹林。
 砲1門をもつ十数人のロシア兵に200~300人のエトロフ守備の南部藩士は火縄銃もありながら、なすすべがなかった。この報が伝わって奥羽~江戸人は非難した。
 幕末の艦砲は水平直射のみ。※だから土手で低く守ることは有効だった。これを補うためにロケット弾があった。
 シベリアは冬季にソリで旅すべきところであった。
 嗣子に役職に習熟させるためには、親が40歳のときに家督相続させねばならない。
 つまり武家や商家の息子は30歳前に家督をつぎ、家業である役職に乗り出す。
 社会的年齢の成熟と老化が早いのが江戸時代だった。それに応じて、人物の挙措動作や風貌も45くらいで老人化したのだ。
 農本政策をすすめている幕府が交易するわけにはいかなかった。諸藩はフリーだった。 巻末解説。銚子、は、海から見た河口の形態のことで、平安時代からある。
▼第六巻
 咸臨丸のブルック大尉の日記に、塩飽諸島からあつめた水夫の無秩序、卑屈、臆病ぶりが活写されている。
 カムチャッカに広域社会なし。家族と村だけがあった。
 さしものロシア人でもカムチャッカでは農業は不可能だった。
 カムチャッカ人は魚を穴で発酵させ保存食にするしかなかった。これはひどい匂い。
 ペトロには1人の士官と50人の兵しかいなかったが、大砲が24門あり、これは加賀藩より強力であった。
 その大砲訓練は毎日していた。小銃はたまにやっていた。
 ナポレオン軍60万のうち遠征軍は42万、うち仏人は30万。ロシア軍は21万で迎え撃った。
 ロシア海軍は、農民→水兵→将校の道をひらいていた。ただし貴族出身者のような教養の余裕の無いギスギス者が多かった。
 ロシアでは軍人が軍服のまま文官職を務めた。
 「小舟には、使者をあらわす白い幟がひるがえっている」(p.394)。
 単行本のあとがき。 古浄瑠璃の『頼光跡目論』は、実子よりも有能な実弟を2代目の源家棟梁にしようとする話。そこに渡辺綱のセリフとして「真向をたゞ一打ちの勝負なり」と出る。
 ※司馬氏の後期の作品だが、貴重な情報の数々が、長くてつまらぬ小説の中に散在しているために、読みながら脳内での切り替えが大変だ。これをなぜわざわざ小説仕立てにする必要があったのだろうか。「このシーンをどうしても小説で書きたかった」という部分がどこかにあったのかもしれない。
▼安倍公房『榎本武揚』S40=1965年7月pub.
 ※60年安保さわぎ直後の作品で、とうじの左翼運動の中に「わざと敗北する」ことを狙った裏切り者がいるのではないかという思いが、函館戦争前後の榎本の事蹟に関する疑惑物語としてぶつけられている。すばらしい日本語の文章を書く著者も、人格は小児的なレフトであったと了解される。
 厚岸に戦争中のちっぽけな砲台の跡あり。
 榎本は明治2年から5年まで東京の監獄。
 榎本の銅像は終戦後、「追放」されなかった。
 霧は灯火の遠近をわからなくしてしまう。遠いのに近く感ずる。
 兵部省糺問所、つまり軍法会議。
 昭和14年ころ、西園寺が石原莞爾を憲兵司令官にしようという運動があった。※東條一派とヤルかヤラレルかだった。
 退屈な者にとってのカミサマは、おおむね信じている本人の似顔にすぎない。
 階段のカドをけずって丸くしたら階段の機能は悪くなる。
 嘘は早足、眞は鰐足。
 著者いわく、土方いわく、剣の極意は、信念を切る。わが信念だけは、ぜったいに切らせてはならぬ、と。
 直参の近藤を切腹させなかったのはおかしいと。
 幕府脱走兵は竹刀胼胝が隠せない。
 徳川氏のけんぞくは維新後、アメリカの蒸気商船で駿州にピストン輸送された。あっというまにいなくなった。
 榎本は裏切ってわざと負ける戦をしたのだ。だから仲間から暗殺されるのをおそれて辰口の番所に避難しているのだと。
 大鳥いわく、榎本入所していらい、ここも封建が郡県になったと。
 牢内では一と六の日に入浴させていた。
 土方は、榎本を嫌ったが、大鳥をば憎んだ。
 大鳥は英人エストワン著のメリケン合衆国南北戦記を獄中で読んだ?
 榎本は米国留学のはずだった。が、内戦のためオランダに行き先を変更した。
 大鳥は志願の無頼町人から5尺2寸以上のものだけ選んで仏式に訓練した。
 福地源一郎『懐往事談』、1867の11月。米、仏、蘭の3公使は、こと定まるまで前将軍を主権者とみとめ、マゼステーと称することを主張。英公使は反対し、京都こそ主権者で、EXタイクンのことはハイネスの敬語がふさわしいと。英仏間の口論を福地は近くで聞いた。
 1867-12、近藤は左肩に銃創を負う。
 ペリー来航から明治元年のあいだに物価はほぼ10倍になった。※このインフレは開港貿易のせいだろうか? 政策だったのではないか?
 海舟いわく、大坂から逃げ戻ってきた慶喜は洋服で、刀を肩からかけていた。
 大坂城からは、書類、刀剣、古銭20万両だけを運び出した。※刀剣にこだわるのは、それが象徴的戦利品として宣伝されるからだ。
 1868-1 英米仏伊蘭普は中立宣言。
 毛虫の皮に帰る蝶はいない。
 雷は十里の外に聞こえずというが、火薬の爆発音はもっと遠くまで聞こえる(p.111)。
 内戦の早期終結をはかっての八百長戦争じゃないか、といいたい。
 戊辰戦争当時は「敵を殺せば、腹を裂いて肝臓を食ったというような時代だった」(p.206)。
 「当節流行のプラモデルではない」(p.207)。
 榎本は、官軍も自分たちと同様、鷲ノ巣(八雲の手前)や室蘭の方に上陸すると思っていたのに、江差にきたので裏をかかれた。
 開陽丸が沈んでいるので、そこは官軍も敬遠するだろうと考えたかったのだ。
 江差を攻めようとした土方軍をなぜ軍艦で運ばなかったのか。これ疑問。
 榎本が釈放されるとすぐに北海道開拓使になり、晴雨計を函館に運んだ。これが日本最初の測候所だ。
 大鳥が、フランスと組むことに反対した。それでは英仏戦争になるだけだと。
 函館戦争で『蟠竜』は砲弾を撃ち尽くして自沈。
 榎本は欧州でプロイセン軍のデンマークでの勝利を目撃し、封建国家ではダメだと。
 土方が処刑した新撰組隊員はみな、代々の武士家系。
 榎本は五稜郭を要塞ではなく作業場にした。
 海舟は事を成したあとは自分の足跡を歴史から消すのがよいという考え。だから柳生但馬の遺跡がないのに感心している。
▼トマス・ホッブズ著、田中・重森・新井共訳『哲学者と法学徒との対話──イングランドのコモン・ローをめぐる』2002-4初版イワブン
 国王だけが民兵を招集でき、民兵だけがわれわれの身の安全を守ってくれる。
 「人は生まれながらにして名工たりえず」(p.27)。
 制定法に反する行為は不正義。理性の法に反する行為は不衡平。
 国王がだまされて認可を与えたことは取り消すことができる。
 コモンローの法諺。「いかなる人も不可能なことをなすように義務づけられていない」
 人は、自由なしで生きることもできようが、法律なしには生きられない。※つまり国家なしでは。内乱は人命や所有権が誰によっても保障されぬ事態であることを、ホッブズはその目で見た。
 もし国王が税金を徴収できなければ、国民の土地の所有権は守られないではないか (p.54)。
 ※つまり国家が強くなくては国民にも権力があるわけがないと考える。欧州大陸には強敵が存在するので。
 内乱の法的な終息方法に特にページを割く。大赦例について。人殺しもなかったことにされる。そうするしかない。
 英国では修道院が解散させられ、その土地が多くの私人の私有地になった。
 「なにが衡平かを知っている人は、千人に一人もいない」(p.72)。だから裁判官は先例を重視する。しかし、これは正しくない。
 英法でも、「ヘンリ4世治世4年法律第23号」といった記述をする。この場合、西暦は使わない。
 海事裁判所はローマ法にもとづいている。
 陪審はコモンロー裁判の慣習。それは必ず衡平に向かうだろう。
 慣習は必ずしも法の権威はもたない。これがホッブズの立場。(p.97)。
 それが慣習であるという理由ではダメで、それが衡平の原理に合致しているから良いのだ。
 衡平とは理性の法であり、それは成文法に対立する概念。
 ※これは要するに、古ゲルマンの慣習では侵略は悪いことではなく、領土掠奪はいつでも誰でも a OK なのだが、近代人のホッブズは、今後の英国内ではそれをやめさせようと考えるわけである。
 古い法律の文字面に人民を支配させてはいけない。その法律を立法したときに何が意図されていたのかをまず究めよ。(p.99)。
 ※議会の暴走を王の裁判官が常識を働かせて止めることができる。そうでなければ国民の人権が守られない場合がある。
 英国の制定法は文章が長い。そして、なんと、文法の意味がとれないものがある(p.101)。
 衡平法は何が罪であるかを人々に教えることだから主教職がその裁判官=大法官になるのは妥当。
 法を実現するのが正義。そして衡平とは法を解釈すること。また法による誤った判決を修正すること。
 国王の敵に与したもの。偽通貨をもちこんだ者。国王が任命した裁判官を執務中に殺した者。これらは大逆罪=死刑。
 使用人による主人殺し、妻の夫殺しは、反逆罪。※古ゲルマンの慣習法。
 臣従の宣誓者による領主殺しも叛逆罪。
 王国の国民の安全は、国王の安全にあり(p.109)。
 軍隊指揮官の対敵通牒も大逆罪。大逆罪は、すべての法をいっきょに破壊するから。
 今の国王が簒奪者だと言う者は叛逆罪。
 ※「過失」「未必の故意」といった用語がないためか、過失罪の衡平についてはホッブズはずいぶん外している。
 盗むとはどういうことかの定義でも四苦八苦。※これも、ゲルマン法や内乱の歴史のせい。
 ヘレシー(異端)とは、もともとギリシャで、アカデミア派(プラトン)、ストア派(ゼノン)、エピクロス派、ペリパトス派(アリストテレス)のどれか一つを選ぶことをいった。
 ギリシャで学校教師になるには競争があった。それで他派誹謗から殺し合いが起きた。
 ニカイア信条では、「我は聖霊を信ず」。※つまり、処女懐胎はじっさいにあったと心から認めねばならない。
 火刑は英国の制定法では廃止されようとしていたのに、教皇権が大きくなったことで、ヘレシーその他に関して、また復活されてしまった。
 クック(=法学徒)は反王権思想家。※ホッブズは、それでは英国人は外患に弱くなって必ず不幸になると言いたかった。
 「真のそして完全な理性は、個々の人びとの理性的能力のあいだの相違のなかにこそある」(p.189)。
 刑罰を王が決めるのでなければ、刑罰を誰が確実に実行できるのか。ギャング団を処刑できるのは最高軍事力だけだと。
 ※現在の英国の諜報機関は国王直属であり、法律に掣肘されない。だから「殺しのライセンス」が保障されているのである。
 大逆罪は、絞首刑。それでもまだ息があれば、地面に横たえ、内臓を引きずり出す。※映画『ブレイブハート』で再現されている。
 ユダがみずから首をくくり、はらわたがひきずりだされた。使徒行伝・第1章18節。
 反逆罪の犯人が女の場合は火あぶり。クックいわく、女に断頭や絞首は適用されぬと。 正当防衛殺人をクックは重罪とする。ホッブズはそれは無理だと。
  ※「法文による支配」と「法の支配」の違いの好例。後者は、理性・衡平を重視。
 反逆罪や重罪の犯人は血統汚損者となり、相続と被相続の権利がない。
 アムネスティア……忘却に付す。アテネの内戦収拾の智恵。
 十分な警戒態勢を整えても、その恐怖を除去できないばあいには、相手を攻撃しても、それは正当だと言えよう。(p.231)
 イングランド人が所有している土地は、厳密にはすべて国王の土地である。そうだとしないなら、土地保有の権原が無効になるだろう(p.234)。
 生まれながらの自然人には土地所有の権利は主張できない。
 ゲルマンとは戦士のこと。それが彼らの商売だった。
 家族や従者に対する主人の支配は絶対だった。
 そこには自然な衡平法しかなかった。無筆だから成文法もない。
 ゲルマン社会では、男系の血統が絶えた場合は娘に相続させた。
 イングランドの領主たちは、国王に戦争に召集されたとき、兵士たちの糧食を戦争のあいだ負担する義務があった。(p.240) ※だからグルカ兵に糧食を支給せずに遠征に駆り立てるなんてこともあり得ない。
 土地保有を認められる見返りに軍役があった。それはイングランドでは次第に貨幣でたてかえることが可能になった。土地にみあった騎兵を出せという習慣はなかった。歩兵だけ出せばよかった。
 州代表がナイトである。都市代表がバージェスである。これを国王の議会に送った。
 バラとは選挙区としての都市のことである。
 以下、訳注。
 クックは1552-1634で権利請願の起草者の一人。国王の裁判干渉に反対した。法と議会は王より上だと考えた。
 787の第二回ニカイア会議で、キリスト、マリア、聖人、天使の画像礼拝がみとめられた。
 フレデリック・バルバロッサは、神聖ローマ皇帝としてたびたびイタリア遠征した。
 キケロの立場はアカデミア派とストア派の混合。その文体はラテン語の模範に。すべてのヨーロッパ近代語の文章に影響を与えた。
 以下、巻末解説。
 国の主権は一つでなければならない。国王ではない宗教家などに国政を左右されてはならないというのが一貫した主張。
 一つであるならば、国王でも議会でもよかった。現実には、国王と議会が一体となったものがよかった。
 国王も参加者であるところの議会にイングランドの主権がある、と言い切ったのはロックだが、その理論はホッブズが準備した。ホッブズの共通権力・コモンパワーは、そのままルソーのヴォロンテ・ジェネラールである。
 クックは民衆絶対で国王否定。それではダメだと。
 クックは司法権を第一と考え、ホッブズは主権が司法界におびやかされてはならぬと信じた。
 国王は最高の裁判官である。つまり聖俗両方を統括する主権者だと。※そうしないとカトリックにやられる。
 議会と国王の対立は、軍事大権と官吏任免権をどちらが握るか。
 国王が国防のための大権として新税を導入せんとしたのが、ピューリタン革命のきっかけになった。
 ※衡平(エクィティ)とは何か。簡単な例では、借金より担保の方が巨額なとき、コモン・ローでは担保はただどりであった。それは不衡平であろうというので、差額を返せという命令がエクィティ判決。ここから、純資産のことを米国ではエクィティという。ex.エクィティ・ファイナンス。