摘録とコメント。

▼ロバート・B・テクスター著、下島連 tr.『日本における失敗』原1951-6、訳刊S27年3月
 著者は昭和21年春に来日し、23年7月に帰国した。ある程度、日本語を聞いたり話すことができた。軍属としての活動拠点は和歌山と大阪だった。文化人類学系社会学者としてディクタフォンを携帯していた。日本のあとはタイに向かったと。
 ラティモア序文にいわく、ドイツは「代用」品製造に加え、石炭と鉄をもっているので、米国が交渉するにあたっては他の西ヨーロッパ全体に対して必要なほどの大圧力が必要だ。ドイツが臍を曲げれば全ヨーロッパ工業が損害を受け、アメリカは困る。またドイツは西欧を捨ててソ連と結び、東部領土を回復することもできる。そのような強い立場。
 これに対して日本は必要な原料も食糧も支配しておらず、アメリカもしくはシナと不利な立場でその入手についてかけあわねばならない。※アメリカは日本に簡単に圧力をかけられるが、かつて鉄とコークスを供給していたシナもまた日本に影響力を行使し易い。日本人は「シナと組めばよい」ことを反米の理由にできる。しかしシナやソ連は日本に譲るべき広い土地をもたないという、誘惑の限界はある。
 またラティモアいわく、日本を合衆国のグルカ兵にすることを快く承認する日本人がある。
 日本から帰米した元占領軍のシビリアン職員たちはどうしてマッカーサー批判を憚っているのか。それは朝鮮戦争が始まった今、反マッカーサー言説は親コミーと疑われるからだ。
 「やっつけることができなかったら、手を握れ」……米国の地方の職業的政治ゴロの鉄則がある。
 「我々西洋人は、しば\/、民主主義を、その中で人間が活動する枠、もしくは骨格と考える。我々はその骨格の形をいためないために、非常な苦心を払う。アジア人は骨格の上にある肉により関心を持つ。骨と皮の民主主義に、彼等が惹きつけられるとは思えない」(pp.38-9)。
 ※民主党小沢新代表も民主主義の骨格は分かっていない。またおそらく今後、それを勉強する時間もなかろう。
 アジアでは、新しい指導者は、民衆に高い生活水準を約束することで追従者をあつめ、被剥奪者に対する正当な弁償にはなんらの注意も払わない。
 「所有権の不可侵性を強調するアメリカ人は」※だったらインディアンに土地返せ。
 北京大学で反米学生運動。1948の春、日本におけるアメリカの政策に抗議。
 大統領がソ連による原爆実験について確認した声明の数ヵ月後の1949-2-6、陸軍長官ローヤルは、東京の米国大使館内で新聞記者たちに、米国は日本を守る義務はないとの彼の信念を披瀝した。原爆を手にしたロシアが日本に攻めてきたら米国は日本を放棄することを考慮していると。ワシントンポストの1949-2-17報道。
 ハンソン・ボールドウィンは1950に、いまの米軍には台湾は守れないと。
 占領の最初の3年は農民はインフレのために裕福だった。しかしその後の占領軍のデフレ化政策で農民は怒った。土地私有農民こそ「旧勢力」だと。
 小作人ははなはだしくふくれあがった円で地主から土地を買うことができた。
 1949-1の選挙で共産党は300万票ちかく集めた。奈良県では1949-12現在で登録党員は157だが、県民は3万票も投じたのだ。
 共産主義者は大部分の病院管理理事会の支配力を握った。彼らが推薦する患者の入院料だけ安くできた。他には、学校と、アンチ税務署組織に勢力を扶植した。
 共産党とウルトラ・ライトに対する投票が増えたのは、占領軍がデモを禁ずるなどしているからだ。
 著者の希望の星は、日本最初のキリスト教徒の総理大臣、片山哲の社会党連立内閣だった。しかし連立の条件として左派を入閣させられず、閣僚の半分は他党員だった。
 片山は、社会民主主義だけが共産主義のアンチになるのだ、といってマックを納得させていた(p.132)。
 1949-1-23の選挙で片山は落選した。このとき共産党は4議席から35議席に増えた。
 日本人の再軍備論者は、大東亜共栄圏を復活させたりしないこと、絶対に赤とは取り引きしないことを米国人に納得させるべきであるのに、その努力をしていない。
 中道政党に投票した日本人を、命がけで抵抗するほどのたのもしい西欧の味方として当てにすることができるかどうかは疑問である。
 日本の動機は、余りにも、一貫性がないので、再軍備された日本は我々の信頼し得る同盟国にはなり得ない。
 西洋人官吏がよろこんで詳細に答える社会学的質問に、日本の管理は答えようとしない。これは「面目」を重視するためだ。
 1949-6-11のヘラルドトリビューンによれば、一部日本のビジネスマンは共産党の野坂参三に赤色シナとの貿易の斡旋を頼んだ。49-7-19タイムは、大阪の工業家がマルクス主義研究会をひらき、共産党に献金していると。50年2月の時点で日本の実業家は、米国からの援助よりもシナとの交易を望んでいる。
 七宝職人は40歳で目がいたむ(p.73)。
 米本国からVIPがやってくると、将官とその夫人が京都駅からつききりで観光させてやる。ただのIPなら佐官とその妻。金持ち用の女学校でバレーボールをしているのを見学させる。深刻な質問をし始めるころになると、漆器を買いにいく時間ですと。
 「稀には、民間教員官は日本の最も重大な教育問題になっている「エタ」、または、特殊部落の学校を来訪者に見せることに成功するかもしれない」(p.77)。
 故フラナガン神父が京都へ来たとき、社会救済事業を担当するガイドが、神父に向かって黒人の悪口を言い出した。
 マックは46-12-1に国防省に電報した。米マスコミの訪日許可は出版業者と編集者に限定し、記者は含めてはならない。クリスチャンサイエンスモニター、ヘラルドトリビューン、シカゴサン、サンフランシスコクロニクル、エムピー、デイリーワーカーは反占領軍的であるのでその関係者は除外したいと。
 ネーション誌の特派員も一年間申し込んだが入国拒絶された。マックの拒否理由はついに明らかにされなかった。※マックはプレゼン上手だが説明責任観念は無かった。
 朝鮮戦争の前、東京の英外交官がマックによびつけられ、ロンドンタイムズの東京特派員がよくない記事を書いていると警告された。
 そこで許可を得ている新聞記者は順応した。日本の女子野球チームについて、その他安全な記事だけ本国へ送るようになった。
 前シカゴ・サン特派員のマーク・ゲインの帰国後の著述は日本の民主化について悲観的だ。
 人類学者クルックホーン1949にいわく、戦中~戦後の日本人の道徳は Situational morality =情況的 でしかない、と。
 日本経済を調べるため派遣されたエドウィン・ポーレーは石油事業者で、1931~38に日本に86万537ドルの石油を輸出した。
 陸軍次官ドレーパーは1948に日本に滞在した。ディロン・リード投資金融会社の副総裁である。その総裁がフォレスタル国防長官だ。
 ドレーパーはドイツのカルテル解体を計画的に阻止させた。1949-4-30時点でドイツの独占事業体はひとつも破壊されていない。
 1937にアレンは、財閥は4つであり、それは三井、三菱、住友、安田だと書いている。E・B・シューペンターは1940に『日本と満州国の工業化』で財閥の役割を分析している。
 米国の商工人団体は、ある会社役員が他の会社役員にはなれないとするマックの命令を廃棄しろと1949に迫った。
 アメリカ鉛製造会社は日本化学の株の過半数を持った。日本石油および東亞燃料の支配権は米人に帰した。
 1917にグッドリッチゴムと古河合名が横浜ゴムを設立。前者の持分が半分だったが、開戦時には7.5%に減っていた。これが1950に35%になった。
 1949、嬰児殺しは彼等の伝統の一部になっている。GHQは、1970までに日本の人口は1億になるとみている。1949だけでも200万人増えた。
 1950、マーガレット・サンガーは講演継続をマックに禁じられた。カトリック教会からの抗議により。
 しかし米人のスペルマン枢機卿はカトリックでありながら産児制限について講演することをマックに許されている。
 1950の春、戦後はじめて人口制限についての出版物が刊行された。それまではGHQが禁じていた(p.169)。
 1947の日本人の一人あたり収入は100ドル以下。1946の米人は1269ドル。
 1949に英国の生産力は英史上最大に。マーシャル援助が有効に使われた。チャーチルは鉄道や電信の国有化に反対だったが、すでに国有化されているものをもとに戻す元気はなかった。
 1948-4に英労働者は1938より76%高い品物を買っていた。しかし、無料の社会施設という形で労働者が受け取る大きな利益を計算に入れずに、一般工業賃金は114%上昇していた。
 著者いわく1947になぜマックが炭坑国有化に反対したのか分からないと。
 小製造家はグループとして、多くの根本的な点において、大金融事業の、直接的間接的、支配を受けている。
 小製造業者は事実上傭われた労働者である。彼等は高い率の報酬を求めて交渉する立場にいない。小製造業者が切り詰めることができるものは、賃金だけである。照明の不十分さは戦前と変わらない。
 将来、小企業が大企業よりも活気づくとは思われない(p.122)。
 吉田が自由企業を支持するのは、アジア各地で宣教師からくいものを得るために宗旨変えを誓う「コメのためのクリスチャン」に似ている。
 1937において日本の中流階級は多くない。フレダ・アトレー『日本の粘土の脚』。
 タルコット・パーソンズは1946にいわく、日本の特徴は中産階級が蜃気楼だということ。文化的、政治的、経済的自主性がなく、上から支配された。
 NYT特派員は1949-12に報じた。インフレが中産階級を一掃した。大学では、新興成金、闇業者、新円階級の息子たちが遊んでいる。まじめな問題に興味をもち、学園を指導しているのは共産主義同調者だけだと。
 大闇師は、ガサ入れされたときには身代わりとなる男に表面上、商売をさせている。
 ごろつき新聞は、この闇業者をおどかして、新聞で攻撃をしない代わりのカネをまきあげた(p.158)。政治家もこれらの新聞をおそれて、名刺広告を出した。
 著者は和歌山県でごろつき新聞に対する名誉毀損訴訟を奨励したが、無駄だった。
 ある漁業権力者は漁船で沖縄、台湾と密貿易して巨富を築いていた(p.181)。
 ドイツと同じく、占領軍によるインフレ→デフレの切り替え政策の直前までに資本を支配した者の地位が、デフレでさらに強化された。
 戦時中米国は生産力を50%増やした。
 1950-1の日本の工業力は、1936の三分の二。
 1934に9ポンドの繊維を消費していた日本人は、1947では3.5ポンドだ。
 コーヘンによれば、1934に2245カロリー喰っていたが、いまは1955カロリーだ。
 1948には1700カロリーだった。
 正味賃金は1936の26%だ。
 日本が直面しているのは、悪い計画か良い計画かの選択ではなくて、むしろ、良い計画か破滅かの選択である(p.148)。※これぞ白面のLawyer宣教師のビヘイビア。
 シナの赤化で英米は上海のタバコ工場を失う。
 日本の国際収支のバランスを恢復させるためには国民収入の23%も資本を蓄積しなければならない。
 47~48年、米軍は令状なしで数百人の女子通行人をつかまえて強制梅毒検査。
 日本の警察は占領初期、卑屈で、誰にも尊敬されなかった。四辻の交通巡査以外、誰もかれらのいうことをきかなかった(p.161)。
 ※CICと結託してアカ狩りに励むようになって、日本警察の株が持ち直した。
 NYTによると、1948に日本の新聞は、共和党指名大統領候補マックに対する、多くのアメリカ人の反対意見を報ずるアメリカ通信社の記事の掲載を禁じられた(p.166)。そのため、共和党大会でなぜマックが指名されなかったのか、なぜ十分審議さえされなかったのかと、多くの日本人はあやしんだ。
 1950に訪米した日本人教授は、現地ではじめて、マッカーサーの日本統治に反発する米国の社会学者が七割も占めていることを知って衝撃をうけた。マックに媚びてさえいれば世界に対するミソギになると信じていたので。
 ただし米人は、マックが朝鮮戦争を東京から一歩も出ずに指揮していることについては不評は言ってはいない。
 著者いわく、マックの賞味期限は統治3年で終わっており、もう民政からは手を引くべきで、その場合は沖縄かフィリピンがグァムに引っ込むべきであると。
 1920年代の社会立法は、日本の労働者をなだめるためでなく、世界からほめられるために可決されている。日本人は欧米から賞讃されるためにはしばしば極端なことをやるのだ。
 1948-7-15に日本の大新聞に対する事前検閲が廃止されると、日本の記者たちは、どの記事がプレスコードに触れるかを自分たちで決定せざるをえなくなった。その結果、アカハタ以外の全紙はいちじるしく臆病に記事を書くようになった。この事実を占領軍御用英字紙であるニッポンタイムズもAPを引用して1948-8-12に伝えている。
 1948-12-19、一オランダ少佐は、9人のインドネシアの民間人を並ばせて自分のピストルで彼等を射殺した。その中に教育長官のサントソ博士もいた。
 マックは49-3-3の大毎で「今や太平洋はアングロ・サクソンの湖となった」と語った。
 米国が日本各地に用意した、米書ばかり揃えた図書室。それを利用に来る日本人は技術の本だけを貪り読み、社会科学や民主主義の本には興味は示さなかった。
 1949秋のリール著『山下大将裁判事件』。朝日、毎日、共同通信はその本に言及してはならず、法政大学はその本を出版してはならないと、非公式にマックから命じられる。
 日本人はよく投票する。棄権は不穏当だという意識がある。そして候補者の主義主張ではなく、名声と地位が選好される。
 マックは個別訪問を禁止した。
 1948に非共産の政治家いわく、いまや集会を開くことは東條時代より困難であると。
 共産主義者は恐るべき抜け目なさを有するが、その選挙での成功は、社会不安の原因というより、結果だ。アカは、民族主義、排外主義、超国家主義を利用する。社会がまずそれらの主義をつくりだし、アカはそれを国民的熱度を高めるために利用するのだ。
 1950-5-30のメモリアルデイに共産主義者はパトロール中の米兵5名をつき倒して石を投げつけた。6月、マックは日共中央委員24名を公職追放。
 米では共和党員すらこう言う。共産党を非合法化するのは利口ではない。地下にもぐらせるだけ。合衆国では、犯した行為ゆえに人は告発される。心に抱いている思想ゆえに人は告発されない。
 一つの党が非合法化されれば、第二、第三の適用があり得る。
 日本ではCICはチャールズ・A・ウィロビー少将が編成した。そして各県に分隊を置いて県政を支配した。※つまり落下傘内務省だった。
 CICが部下にしたエージェントには元特高が多い。特高警察のネットワークは県下に起こるすべてのことを知っていた。CICはたいへん重宝した。そして占領軍職員のシビリアンであるニューディーラーの左巻き活動をこれらエージェントが監視してCIC経由でマックに通報していた。
 ※この腐れ縁は今もある。公安は「監視力」を時の権力(それは官邸のこともあれば米国のどこかであることもある)に高く売ることだけ考えているから、北鮮人が日本人を拉致しても生暖かく見守っている。(ただしその責任は公安にはなく、自国民を拉致する北鮮を敵だと考えない堕落した有力政治家とマスコミにある。)この占領中の公安の真似をして米国向けに点数稼ぎをしようと張り切っているのが検察だろう。
 CICは最初は超国家主義者の活動を警戒する諜報機関であった。が、すぐにそれは日本国内のアカおよび占領軍シビリアンの中の親共分子の発展を阻止することに全力を傾けるようになった。
 マックは日本に来てから東京近郊を離れたことは一度もない。
 日本人の半数は土から離れている。この率はアジア一である。農村はすでに人口過剰だ。工業化をすすめる以外にこの過剰人口はどうしようもない。
 戦前の組合加入率のピークは1936で、420589人だった。
 日本に個人主義の伝統がなく、戦後は急激な発展をしたために、組合は独裁的に運営されている。
 米国でのみ、政治的なことと経済的なこととが組合活動の中で分離できている。
 ある撮影所の組合は疑いも無く共産主義者に指導されていた。共産主義者900人を会社が解雇しようとしたところ、スト。この1500人を会社敷地から立ち退かせるために、700人の日本の警官が出動し、米軍は、偵察機×1、装甲偵察車×4、シャーマン戦車×4で後詰めをした。
 日本の繊維品の安さは、輸出がされなくとも、間接的に米国に害をあたえる。というのは世界のバイヤーがその価格を根拠に米国製品を買い叩くからだ。
 日本人工員の賃金は米国の25%だ。
 いまやイギリスも日本同様に「輸出か死か」である。
 1949には30万の国家警察と95000の地方警察、そして200万の有志消防夫がいた。
 NYTは概してマック贔屓である(p.210)。
 キャンプファイアはGHQが1948に持ち込んだ。
 50万冊の米陸軍の文庫が横浜に死蔵されていた。これがさいきん、配布された。
 敗戦から1948までに日本に流入した英文書籍は125万冊以下だ。
 商業ベースの翻訳出版は占領開始から3年9カ月後に許可された。
 1947に農林省が土地改革のポスターをつくるための紙が公式ルートでは手に入らず、ヤミで調達した。
 1949にライシャワーの『日本・過去と未来』およびベネディクトの『菊と刀』が5500部づつ、翻訳刊行を許された。この2冊だけが真に価値がある。ジョゼフ・グルーの『滞日十年』は日本の社会問題をスルーしているつまらぬ本だが、こちらは7万部も許可され、しかも戦後外国書籍で唯一、点字版が刊行された。
 1950までに次の小説が翻訳出版された。『風と共に去りぬ』『仔鹿物語』、ダグラス著『ローブ』、ブラッドフォード・スミス著『武器は公平である』、ハーシー著『ヒロシマ』、シンクレア著『龍の牙』『勝利の世界』。
 また『テリーとバンキーの野球』『一ダースなら安くなる』『ポパーさんのペンギン』といったしょーもない本も翻訳されている。
 日本版リーダーズダイジェストは150万部のバケモノ媒体になった。
 1949時点で日本の映画館はタイトルの1/3がハリウッド製。
 著者は『オクラホマ・キッド』『アメリカ交響楽』『フランケンシュタインの息子』『ターザン』、そして西部劇などは米国人の税金を使って日本人に見せるようなものではないと嘆く。※潔癖症の疲れる奴。
 1300台のポータブルトーキー映写機がGHQから各県に貸与され、記録映画を上映させた。片山内閣の最後までにGHQが提供した記録映画はたった9篇だった。
 1950までにタイトルは173に増えた。
 「理解」は、外部世界との関係をつくるのに必要ではあるが、十分な基礎ではない(p.245)。
 1950夏までに国立大の外人教師は35人のみ。宣教師は1949春までに1000人も入国が許可されていた。やっとICUの1951開校がマックに許された。
 1949春時点で在米のシナ人留学生は3914名。ニップは75名。1949秋には230名に増えたが。
 井上勇は1950-1に占領軍御用新聞に英文で書いた。GHQが米文学の翻訳を認めないので、日本人はフランス文学とロシア文学に傾倒しつつあるのだと。※おめでてーな。
 占領軍の正規米将校の多くは、生れてから一度も投票したことがない。
 マックは1937以降、いちども米本土の土を踏んでいない。
 1949にウィロビーはスメドレーを文書攻撃した。彼女は告訴しようとしたがマックがウィロビーを防禦した。
 ウィロビーは1939の自著『戦争における作戦行動』で、ムッソリーニを褒め称えていた。またフランコや日本の行動にも肯定的だった。
 ドイツでは各州は文官に支配された。日本では軍政だった。
 日本がベトナムにコメではなくサトウキビや植物油をつくらせたために1944に60万人が餓死した(p.276)。
 日本占領の最初の4年に合衆国は13億ドル使った。7年間では21億7000万ドル。
 ロイベンズ1949論文によると、1930年代のなかごろ、日本は近隣国が輸出するうちの2~15%を買い、また、その地域の総輸入量の15~30%を供給した。日本にとっては、総輸入の1/3、総輸出の1/2が、アジア相手であった。
 日本の1949の対アジア貿易は、1934の15~20%である。1936にはアジアの食糧輸出の2割は日本が買ったが、1948ではたった3%だ。
 なぜ日本工業を復活させる必要があるか。購買力のないアジア人には、安い商品でないと買えないのだ。それを大量に作れるのは欧米では無理で、日本だけだ。日本工業がその役割を果たさないと、スターリンの商品がアジアを席捲する。
 明敏な国務省は、シナとロシアを引き離して、西欧の力を強くするために、あらゆる役に立つ機会をさぐることだろう(p.283)。
 GIのジープを日本人のトラックやタクシーが追い越すと、GIに止められ、怒鳴られる。これが1949の世相。
 日本の社交家のグループはユネスコで商売しようとしている。「ユネスコ万年筆」「ユネスコ・キャラメル」の製造販売願いが出された。
 1950-5のリーダイに引用されているところによれば、1950春、マックは「日本は『極東のスイス』になり、スイスが中立国であると同じ理由で、日本も中立国となるべきである──どちらの側につこうとも、日本は破壊を避けることはできない」と言った。※ニュークをシビリアンに支配されているので軍人マックはヤケを起こしていた。破壊とは原爆投下のことである。
 朝鮮戦争で日本人はこう考えている。民主主義は望ましい。原爆は恐ろしい。その中間のどこかに共産主義がある、と。
 北鮮が南侵をはじめるとアイケルバーガーは言った。「アメリカ人は8500万の日本人を味方に持つ。日本兵は司令官の理想の兵隊である。彼等は死ぬまで持場に頑張る連中である」。
 著者はいう。日本人の民主化なんて信じられないので、1953よりもっと先まで、米国の文民が日本を占領しつづけるべきであると。
 またいう。国連軍が日本人を利用するとすれば、その危険の無い方法は、大隊または聯隊単位の戦闘部隊として、それをもっと大きな米軍の中に混ぜて使うことであると。
 ※自分だけが正しくすべてを知っていると確信できるプロテスタント・ニューディーラーで民主主義宣教師。日本語を知らないベネディクトの足元に及ばないルナティックな高等痴人。この若者のその後はどうなったのだろうか?