摘録とコメント。

▼『別冊歴史読本 日本古代史[騒乱]の最前線』1998-2
 弥生時代の一般的な手持ちの武器である有柄式磨製石剣は紀元前5世紀から出土。北部九州で広まった。瀬戸内ではなお打製石刃が継続して発達した。
 北部九州に青銅剣が出土するのは紀元前3世紀から。
 弥生中期に北九州に銅製武器が現れたのは、航海民が大陸で手に入れてきたもの。
 それを紀元前1世紀には北九州で鋳造するようになる。
 弥生の剣は短いのが特徴で、鉄剣でも60センチ。多くは20センチ台。
 楯は表面に皮を貼ったものもあった。
 北部九州の有力者の副葬品の青銅武器には折れあとや研ぎ減りがあるので、有力者も体を張って戦争を先導していたと知られる。
 戦闘は敵対するムラに矢を射かけることから始まった。
 縄文人骨で集団戦の戦死者とみられる例はほとんどなし。
 大和朝廷の半島進出が始まる四世紀なかばまで、国内戦では鉄器はほとんど使われていない。
 高句麗の騎馬兵は弓ではなく槍がメインアームだった。弓は歩兵が扱った。
 隼人の反乱では、「斬首獲虜合千四百余人」。
 ヤマトタケル伝承は4世紀の史実ではなく、大和王権の発展史を後代に擬一代記的に総括したもの。そのキャラクターモデルの一人には聖徳太子も考えられている。
 ヤマトタケルのクマソ征討伝承の背景に、大和王権初期の南九州進出の記憶が。
 蘇我氏は大和政権の財政を管掌することによって6世紀以降台頭した官僚タイプの新興豪族。知識源は大陸だから、大陸で仏教が流行するなら日本でも採用すべしと考える。
 物部その他の伝統豪族は、朝鮮は属国だからその真似をする必要なしと。
 物部氏の神社が石上神社。
 物部一族は弓では誰にも負けないので、587年、蘇我は守屋の配下の迹見を引き抜いて味方のスナイパーとして雇い、守屋を射殺させた。
 645に蘇我父子をほろぼした加担勢力は、隋や唐からの帰国組。律令制をつくらないと、唐に日本がやられる。※守屋はある意味正しかった。だから徂徠は「物」氏を自慢する。
▼近藤好和『弓矢と刀剣』1997
 宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究』によれば、李氏朝鮮(1392~1910)の軍兵は文禄の役の前には弓箭しか持たず、刀剣装備がそもそも皆無であった。主武器としても副武器としても刀剣類を有しなかったのである。こんな軍隊もあった。※それが「剣道」の宗家を騙るのか?
 打刀大小二本差しを身分統制令の一環として、武士身分だけのものとしたのが、豊臣秀吉の刀狩令。
 藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』によれば、刀狩の目的は、百姓の非武装化ではなく、あらゆる階層にまで普及していた打刀大小二本差しを、武士身分だけに限ってその標識・表徴とすることにあった。
 ただし初期江戸幕府がこれを確認するのは17世紀後半以降。「帯刀」とは打刀大小二本差しのことに。
 この帯刀権をあらためて軍・官・警が独占することにしたのが明治9年の廃刀令。
 古代の弓箭の遺品は、正倉院と春日大社に伝世する。しかし中世の遺品は数えるほどしかない。そのため博物館と美術全集に弓箭が露出せず、日本の武器=刀剣だと人々を錯覚させてきた。
 弓箭は「調度」とも呼ばれた。
 10世紀後半の摂関時代に儀杖と兵杖が分化した。後者は湾刀化した。
 革札よろいの鉄札交ぜは初期には胴の正面と左側面。
 780に鉄札から革札への転換が指導されているが、これは防矢力が革札の方がよかったらしい。※果たしてそうか?
 初期の大よろいは、弓をひきやすいように胸板が小さい。そこで鳩尾板と栴檀板を付加せねばならなかった。
 かぶとを含めると最重で40kgに達した。
 草摺の構造は乗馬専用で、これで歩くと前の草摺に足が当たって不便。
 弓の上端を末弭[うらはず]、下端を本弭[もとはず]という。丸木を弓にしていた頃、根元を本、梢を末といったので。
 鈴木敬三によると、最初の合わせ弓(伏竹弓)である外竹弓[とだけゆみ](木材の背側に苦竹を張ったもの)は、奈良時代に舶来していた大陸の角弓を12世紀の平安貴族が国産材料で真似たのだと。その競技は歩射だった。これが武士に採用されて、南北朝期には三枚打弓が全盛に。室町時代には四方打弓になり、近世には 弓胎弓[ひごゆみ]ができた。
 矢束[やつか]は、握り拳ひとつを「一束[そく]」、指一本を「一伏せ」と数える。古代の矢は鏃をふくめて長さ80センチ弱だが、中世では90センチ強であり、合わせ弓の弾力に対応していた。
 箆の端の彫[えり]が「矢筈」。
 野矢は二立羽を矧[は]ぐ。征矢と的矢は三立羽。三立羽の左旋回を甲矢[はや]、右旋回を乙矢[おとや]といい、二隻一手で諸矢とよぶ。
 鏑矢は征矢に2隻加えた。つまり1人で4本しか射てない。
 鏃の無い大型の鏑を「ひきめ」と称する。笠懸は「ひきめ」を使う。流鏑馬は鏑でする。
 西洋でもシナでも馬には左から乗るが、日本のみ右からだった。
 著者いわく、日本の舌長鐙は疾走用ではなく、騎馬が不得意だから落馬のさいにすぐ足が抜けるようなスタイルに発達したのだろう。
 日本の在来馬は体高4尺を基準として、1寸高くなるごとに「一寸[ひとき]の馬」「七寸の馬」などと呼び、8寸以上、つまり体高145センチ以上を「丈に余る馬」といった。
 材木座で昭和28年に大量に発掘された、新田の鎌倉攻めの際の人馬骨をしらべたところ、推定馬高は109~140センチであった。
 秦の兵馬俑は実物大だが、その馬の平均体高は132センチ。
 厨川柵の攻防で、鉄を撒くとあるのは、鉄菱のことだろう。
 弩の実戦使用を示す最後の記事が、厨川。
 南北朝以降の文献の「石弓」は、綱で吊った岩石を落とす装置のこと。
 平維茂の郎党の寝所の構えとして「布の大幕を二重ばかり引きめぐらしたれば、矢など通ふべくもなし」。
 今昔物語には組討で敵の首をとる記述がない。そのようなスタイルは治承・寿永以降である。
 戦闘で射る矢は、次々と矢継早に連射しなければ効果がない。※というより己が危険なのである。
 『吾妻鏡』で大場景能は保元合戦を証言する。為朝は鎮西育ちのために、騎馬の時は弓の扱いが思い通りにならないことがある。
 また佐々木高綱の証言。歩立のほうが弓が引き絞れるから、騎射の弓よりも短くてよいのだと。
 また1224に漂着した高麗人の弓は、皮を弦にしていた。
 著者いわく、中世の流鏑馬は的は正面にあったのではないか。現在の小笠原流(吉宗が再興)と肥後細川藩の武田流は、どちらも中世に直接つながっていない。
 ※馬の上から俯角射撃をするためには大弓の下三分の一を握らないことにはモトハズが馬体に当たってどうしようもなかったわけだ。
 馬上打物戦こそが南北朝の戦闘の特徴だと著者。
 源平盛衰記の宇治合戦で筒井浄妙は、敵のかぶとの鉢に当てた長刀が折れ、太刀では敵のかぶとも頭も破ったが、目貫き穴のもとから折れた。
 源平盛衰記の石橋合戦で佐奈田義貞は、一人の敵の首を掻いたが、その次の敵との組み討ちで刀が鞘から抜けず、後ろから来た別な敵兵にかぶとの項辺穴に指を入れて引っ張られて逆に首を掻かれた。最初の納刀で血をぬぐわなかったために、固まってしまって抜けなかったのだ。
 ※とすれば居合の納刀は「拭き取り」動作を必須とすべきである。
 『盛衰記』の飛騨景高と根井行親の対戦。根井がまず馬を射、飛騨は落馬。すると根井も馬を降りて、太刀でかかる。飛騨根井は「勝負はふたり」と叫び、両者、徒歩での斬り合いに。すると飛騨の刀が折れる。すると根井も「互いに組んで勝負」と太刀を捨てて組み討ちになり、根井が飛騨の首をとった。
 ※著者は無批判にこの記事を例示するが、これは典型的な「武功記録の美化」(この場合は根井家による)であろう。延慶本平家物語で敦盛の死体がどのように争奪されているかがリアルであろう。ひとかどの武士には複数の従者が運命共同体として形影相伴っており、「手を出すな」と言っても無駄である。
 盛衰記の巻29には、後続の味方、乗り換え馬、じぶんの郎党がついてこないシチュエーションでは組み討ちはするな、と戒められている。
 「柄も拳も通れ」という表現は、鍔のない腰刀だからリアル。
 鎌倉中期以前の短刀の現存遺品はごくごく少ない。