ポータブル神社

 神社の便利なところは、「分社」ができることです。これは本社のフルコピーなのですが、ファイルサイズは極小で済みます。
 靖国神社を首相公邸内の「ポータブル神棚」に分社しておいたらいかがでしょうか。毎日、居ながらにして参拝ができますね。
 「俺は靖国神社なんか嫌いだ」という新首相は、このポータブル神棚をどこかの倉庫に預けてしまう。あるいは無理してその公邸に住まない。
 維新政府は「神仏分離」を行政命令で強制しました。その過程で、ある神社は寺とされ、ある寺は神社とされた。日本ではこういうことができる政治的伝統がある。靖国神社も、危機感を持たねばいけません。
 「ポータブル神棚」をいまからたくさん準備することです。そして首相だけでなく、いろいろな人に持ってもらうことです。
 以下また、摘録とコメント。
▼徳永真一郎『幕末閣僚伝』S57年
 天保改革で倹約令を断行した老中首席・水野忠邦が罷免された。発表の夜、江戸の市民数百人が邸の前に押しかけ、石や瓦を投げこんで歓声をあげた。
 しかし1844に英船が宮古・八重山諸島を測量したり、外交問題が頻発するので、1845に再起用された。
 老中は月に一度は大奥を巡視する。
 オランダのウィリアム2世の国書には、天保11~13のアヘン戦争で清国は数千の兵を殺されたと(p.10)。
 ペリー来航前、松前海峡を通過する捕鯨船は年間100艘以上あった。※吉田松陰はなぜ関東で密航を試みる必要があったのか。
 井伊直弼の開国論は、海軍建設、商船隊建設を是とし、キリスト教の受け入れも認めるというもの。
 ロシアは日米戦になったとき日本に味方して恩を売ろうという肚で艦隊をうろつかせていた。
 ペリーの9隻の軍艦は、江戸湾を封鎖したのである。※時間が経てば経つほど、江戸市中は飢饉に陥る。
 メキシコは米海兵隊によってすでに城下の盟を強いられていた。そのようにして条約を結べば、もっとひどいことになる。
 江戸直下型地震で藤田東湖らが死んだ。これ以降、水戸藩主の言動は筋が通らなくなり、ただ横車を押すだけの老人になった。
 幕末、すでに牛乳とバターが病人食。
 1680に堀田正信はハサミで首を切って自殺した。
 貧乏すると、敷居を枕にして寝る。
 堀田正睦は西洋銃剣術を藩士に学ばせた。
 安政3年にハリスは正睦を威嚇した。清国は16年前、イギリスと戦争を起こし、「百万人の命を失な」ったと(p.41)。
 江戸時代の歴代天皇で政治になにかと発言があったのは孝明帝だけ。ただし一事について表裏二つのあいまいさ。
 家定は臣下に道理で責められるとただ泣きじゃくるのみで一刻でも二刻でも何の答えもない。死諫もムダだろう。
 井伊直弼は部屋住みの頃、新・新心流という居合いの一派を創立した?
 国学は現実論で、帰納法的。これに反し儒学は、最初から結論を定めて、それに適するようなデーターをあげる、(似非)演繹法。
 室町期に諸侯が勝手に上洛競争したことを見ている家康は、諸侯や家臣が勝手に朝廷と連絡することを厳禁した。
 家光が鎖国を決めたときに勅許など得ていない。政治を任されているのだから開国も勅許など必要ないのだ。
 水戸・薩摩・長州は天皇の取替えと幕府乗っ取りたくらんでいたので、それを潰したのが安政の大獄。ただし幕府としてはこれほど大きなクーデターの陰謀などを天下に公表はできなかった。
 長野主膳は早くから平田篤胤は唐心であって鈴廼舎の後継者ではないと言っていた。
 老中間部の要撃計画を自白した以上、幕法からいって松陰の極刑はあたりまえだった。 川路聖謨が23歳で勘定評所留役だったころ、剣術と槍術の道場に入門したが、同僚は「武術のために体を傷つけるようなことがあれば、出世の妨げになるぞ」と注告した。
 川路が佐渡奉行のとき稗飯を食ってみたがとても咽喉を通らなかった。
 勘定奉行は関八州の訴訟も裁く。
 川路が55歳のとき、江戸から木曽福島の本陣まで中仙道を15日で歩いた。1日7里半の計算になる。
 この頃の川路の日課。朝は丑の刻=午前2時起床。読書と執筆。空が白むころ、長槍のすごき2000回、大棒の素振り2000回。これは一日も欠かさなかった(p.95)。
 ロシアと交渉してエトロフ島を日本領と認めさせたのは川路だった。
 徳川斉昭が嘉永6年10月に対露交渉に赴く川路に贈ったうた:「わが国の千島のはてはえそしらぬ さりとて君はよそにとらすな」。
 「別して刀剣の楽しみ、大いに節すべきこと」を座右銘の一つにしていた。
 老中阿部正弘は37歳で胃癌で死んだ。
 川路の59歳・西の丸留守居役のときの日課。夜明け前から乗馬。午前8時に飯。読書。正午に飯。読書。午後4時に飯と酒一合。日暮れるや、重い鎗と軽い槍等、あわせて3500本のスゴキ。ついで、大棒を使うこと1000本、居合い刀(軽と重あり)を300回、さらに棒と居合刀を振り、曲尺をふむこと500、それより木馬に乗る。これで夜10時になる。
 体調がおもわしくなくなってからは、鎗刀をつかう代わりに、3貫目の荷物を背負い、1貫目余の太刀をさし、10匁鉄砲を携えて1里余、そこから鉄砲を持たずにまた1里余、そこから荷物も下ろして1里余、庭園を歩行した。
 それも医者から禁じられたので、邸内の精米機を踏む仕事をした。
 幕府は朝廷に恭順の意を示すため、旗本と御家人はしばらく鳴物停止、月代も剃らないようにしろとの達しが出た。
 川路は江戸城明け渡しの日、短刀で浅く腹を切った上をサラシで巻いて、咽喉を短銃で撃って自決した。旗本3000騎のうちこのようなマネをしたのは川路だけ。
 ある水戸藩士の申告によれば、斉昭は、クーデター&内戦を起し、米国に応援を求め、代償として琉球、佐渡、壱岐、対馬をアメリカにくれてやるつもりだったと(p.117)。
 文久元年の降嫁では浪士の襲撃を警戒して中仙道を選び、各宿場では2里四方を煙止めとて、炊事もさせず、10日前から近所で葬式もさせなかった。※火縄警戒?
 1862-12-22、伊藤博文は仲間一人とともに49歳の幕府の国史学者・塙次郎を自宅前に待ち伏せて斬殺し、その首を九段上の黒板塀の忍返しの上にさらした。
 廃帝の古例を調べていたというのである(pp.134-5)。
 松平春嶽の国事テロ犯人の赦免が暗殺を流行させた。
 天狗党の一件では392人を斬罪にした。安政の大獄ですら死刑は8人。
 当主が17歳以下だと国替えになるのが当時の幕府の制度。
 横浜駅に近い青木橋の前の丘陵にある本覚寺はアメリカ領事館のあったところで、その頃、日本で始めてペンキを塗ったという門が現存する。
 尾張は一度も将軍を出していないので幕府に不満あり。
 家茂の死因は脚気。
 小笠原長行は幕府の主戦論者だったが、意見は容れられず。その息子が、海軍中将・小笠原長生。
 無役の小普請組だった勝麟太郎は漢学熟を開いて生計としていた。それを蕃書翻訳所に抜擢したのは、大政奉還の発案者であった大久保一翁。一翁構想とは、朝廷がどうしても攘夷をしたいのなら徳川は遠駿三の旧領だけを支配する昔の一大名に戻ればいいというもの。
 安政3年の一翁のうた「ふたつなき三の宝のほかならば変わるもよしや民のためには」。これは三種の神器=国体のこと。
 一翁と改名したのは、49歳で断髪してから。
 一翁も日記をつけていたが焼却した。※日記には他見を憚るようなことも書くものだから、たいていの役人は晩年に焼却するのである。
▼S.J.Deitchman著『アメリカの限定戦略』S41年、上原和夫 tr.
 WWII中の6コDは、5000t/d、補給所は各10日分を貯う。
 マレーでの英軍は、「ゲリラをジャングル外に追い出す」を主眼として成功。
 ノルマンジーからラインに向かった第三軍の平均速度は24km/dで、最高はその倍に達す。
 北アフリカのクルセイダー作戦中は、32km/d ~ 64km/4hの間。
 1コDの補給に800台のトラック要る。そのうち、荷物を積んで前線に走っているのが400台(2日分)。空荷で後退中が400台(2日分)。
▼河田嗣郎 ed.『時局と農村(2)』S13年
 戦時は肥料工場が火薬工場となり、当然、農業減収が起きる。
 肥料はチリ硝石からつくっていた。
 1916の英ではイモの価格を抑えすぎ、生産低下した。その反動で値上げしたら1918は出来すぎた。英は小麦の逆ザヤ政策をとる。
 英では必要量以下の配給となったことはない。
 仏ではヤミ流行。
 軍や包囲市民への食糧割り当てをレイショニングという。
 英では1917-10から1918-2-25の割当制施行まで、queue(行列)がみられた。
 ベルリンでは1916からポロネーズ(舞踏・行列)を生じた。
 独でもWWⅠ中、ヤミ横行(pp.72-3)。
 1918の仏は農村より370万人動員した。蹂躙された農地は全国の6.31%だが、そこが最も豊饒地だった。
 ビスマルク以来の保護政策で、ドイツはWWⅠ初め、自給できると考えられていた。しかしそれは水増し勘定を前提にしていた。
 デンマーク、オランダ、スイスの酪農品、ノルウェーの魚は、輸入できた。一時はルーマニアから麦を輸入。
 英はノルウェーの鰊を買占め、これを遺棄してドイツに渡らぬようにした(p.157)。
 イモ5パーセント混ぜパンが1914末よりドイツで作られた。褐色。1915~17には、米国産のトウモロコシ、大豆、カブまで混入された。
 ドイツはイモで豚を飼うシステム。
 ドイツの1913の農業人口は1千万人。うち16~50歳男子は340万人。うち200万が徴兵されたのでは農業成り立つわけなし。
 そこで Freiherr Theodor von der Goltz は1890’sに工業化のいきすぎに反対。
 この頃から、漂泊労働者が国外より大量流入し、農業に従事。
 イモ、ダイコンなどの耨耕作物は、労力・農耕蓄・照明を必要とするので戦中に廃れ、穀物に転作することになった。これで総カロリーは減った。
▼堀毛一麿『ペレコープの戦』S9年
 スターリングラードはもともとツアリチンといい、スターリン、ウォロシロフが1918末に防衛にあたり、「赤いヴェルダン」といわれた。
 ペレコープはクリムの地名である。
 レーニンは、「党員はクラウゼヴィッツの兵書を読め」といってブレスト条約。
 英国は赤と白の永遠伯仲を望んだ。
 レーニンはパン列車を敗戦ドイツに送ろうとするも拒絶さる。日本の大震災のときも慰問品を宣伝文とともに送ろうとして断られる。
 東部戦線の独軍は休戦条約と同時にモラル崩壊した。
 マンネンハイムはコルチャックに、独立承認とひきかえに10万援兵を申し出るも、尊大な拒絶に会う。
 ロシアの赤白内戦で飛行機は殆んど用いられなかった。
▼吉田庚『軍馬の想い出』S54年
 東北から牝馬中心に徴用した。
 台湾Dを上海に投入した。
 重傷馬は薬殺。
 脚貫通、首盲貫でも馬は使える(p.46)。
 縦隊では前馬の尾に鼻をつけていこうとする。
 軍馬が斃死しても食べない。それが兵隊のプライド。総動員の10%以上が特務兵(輸卒)だった。
 家族は出征者には心配事をいっさい伝えないのが習慣だった。
▼マキシム・ホーソーン『戦車旅団全滅』S16年、富田邦彦 tr.
 筆者はウランバードルでT-37アンフィビアスで訓練受く。
 芽イモを食って下痢になり前線をのがれる方法がある。
 「肉弾戦は野暮な過去の戦いであって、廿世紀の戦斗法ではないと聞かされていた」(p.17)。
 日本軍と違いロシア側には十分な拳銃があった。
 水陸用T-38が並んでいた。
 独立TK旅団は各10両の11コ中隊から成る。
 筆者は「最新式」のS型軽戦車を指揮。
 この中隊は、火炎放射戦車×1、ATG×3を配属された。
 杉の葉をいぶして蚊よけとす。
 モスクワTK学校から送られてきた鉄条線は軽戦車を捕獲できるという話。3本で中戦車も。
 TK車内は騒音のため、クルーは手まねで話す。
 TK同士はKey無線でしたらしい。しかも走行中。
 1Coは3小隊。
 スターリン誕生日に前線で特別食出る。
 帝政下のロシア上級将校には命令軽視の風あり、上級指揮官同志の抗争で負けることもあったのでスターリンはこれを厳正に。
 ソ連ATGも実戦場では100m以上では有効ではなかった。
 親子戦車(p.232)?
 通信系。偵察機←→Bn長車←→Co長車←→Pt長車(ここまで無線)←→各車(手旗)。
 天蓋は、中からおさえていないと、外から開けられてしまう。
 パーカー両頭戦車(p.256)。
▼M.マクルーハン『メディア論』原1964、訳1987
 ※著者は1980死。
 ルイス・マンフォードは『歴史のなかの都市』で城壁都市を皮膚の拡張とした。
 歴史家のマコーレーいわく「それについて読むとわくわくするような時代に生きるのは楽しくない」。
 子供が一日のできごとをおしゃべりしたがるのは、再認識こそが生きるあかしだから。 電話が赤線地帯を廃止し、コールガールを生み出した。
 都市はそれ自体軍事兵器で装甲板である。
▼海野芳郎『国際連盟と日本』S47年
 英は多くの自治領の数だけの投票権を握った。
 従来、オランダ植民地は多量のアヘンを産した。
 日本の対支密輸が最も巨額。モルヒネを含んだ。
 台湾でもコカを栽培した。数千エーカー。
 1920頃の公娼制度下では、内地18、朝鮮17、台湾16から雇ってよく、23歳まで需要のピークであった。
 条約は就業最低を21にしようとした。
 内地公娼(私娼は除かれる)を調べたら5万人で、うち8000は文盲だった。
 1921に条約批准。21歳以下の(?)完全禁止は1927より。ただしザルだった。
 シナの技術顧問となったドイツ人「ライヒマンは実に日本側にとっては連盟保健部長の職務を逸脱して頗る排日的活動を行った不穏分子であったのである」(p.168)。
▼大場脩『江戸時代の日中秘話』1980
 台湾に逃げた鄭成功は1648から60年間、5度にわたって日本に反清援助を求めた。
 鄭が唐王であったことから、江戸人はシナ人を唐人と呼ぶようになった。
 吉宗は1720からシナの書籍を長崎に発注。
 江戸時代前半までは書籍の舶載はほとんどなし。
 シナでは銅の生産がなかった(p.37)。?
 日本が輸入した生糸は鎧のおどし糸など、ほとんど軍需。
▼小野武夫『日本兵農史論』S13年
 初期の鉄剣が直刀なのは、刺突を主としていたから。
 槍の初出は、倭健の東征にある「比比羅木之八尋矛」(古事記)
 火箭の初見は、欽明15年の新羅征伐に於いて。
 反り刀は馬上戦闘多くなるにつれ。
 山縣はM4に欧州をみてまわり、プロシヤが仏に勝ったのは予備兵が多かったからだとし、国民皆兵を12月に建議。
 柳田国男によると峠の俗称を味兵・あいひょう、とも言った。