摘録とコメント

▼本間順治『日本刀』S14年
 素戔鳴尊の剣、一名、蛇韓鋤・おろちのからさび。
 万葉。太刀ならば呉の真鋤/摩差比[まさび]
 当時、シナ大陸でも呉のみ鉄剣を産し、他は主として銅剣だったので。
 截断に際して刀自体の重い目方を、青龍刀は必要とし、日本刀は必要としない。
 東大寺献物帳に現存せぬ唐太刀あり、「偃尾」と註してあるので、鋒が反った湾刀がもうあったと思われる。
 玉葉には、平清盛が宋に日本刀を贈ったとあり。
 鎌倉末期の刀剣書中に、大和の國正なる刀工の作を述べて、「一とせ異国のもの〔=蒙古の捕虜〕の首を斬りけるに百人ばかりも斬るにこたへけり」とある(p.10)。
 洋鋼延べ鋼に焼入れし偽銘を加えて出征勇士に売る商人あり。
 明治以後、古来の日本刀をば文字通りの無用の長物扱ひとなし、外装の金具のみが僅かに珍重せられ、甚だしきは外装中の金のみが地金として用ひられるが如き態で、刀身のごときは二束三文の有様となり、……。
 事実先般の蘇満国境の戦に栗原中尉が軍刀を以て敵の機関銃身を切放した。※謙信の「鉄砲切助真」からの作り話か。
 国宝保存の最初の法は、明治21年に臨時全国宝物取調局(宮内省)が始め、明治30年の「古社保存法」(内務省)に結実。宝物は国宝に。建築は特別保護建造物に指定さる。
 M42に初めて日本刀が国宝に指定された。
 大2に内務省宗務局が文部省に。
 S4年3月、「国宝保存法」制定。建物も国宝に。
 村田刀は日本刀づくりではなく機械造り。満鉄刀、「金研刀」もまた然り。
 幕府のタメシ斬りは、山野加右衛門、山田浅右衛門、等。
 「二ツ胴截断」「三ツ胴切落」等と金象嵌を入れた。罪人や死体を切ることを大身武士の刀のケガレと考えていない事実が重要だと。
 近年、偕行社と軍人会館が、それぞれ別々に軍刀の斡旋に努めている。昨年(S13?)から水交社を加えて全国の刀工動員体制を内務省の協力を得てつくった。
▼ジョン・マクマリー著、アーサー・ウォルドロン編、衣川宏 tr.『平和はいかに失われたか』1997
 1935のマクマリーの未公刊メモランダムにウォルドロンが解説をつけて1992に出版し、それが邦訳された。
 オリジナルの1935文書は国務省内で回覧されていた。グルーやケナンが愛読。1992にそれが初めて公刊物になった。
 職業外交官のマクマリーは東洋語はできない。国際法の専門家で、ワシントン会議の米国主要メンバー。FDRは友人のひとり。
 アメリカ人の布教活動はシナでは成功したが日本ではそうではなかった。
 ワシントン体制は、貿易や政治上の小さな利益の追求の中に、崩壊していった。
 1920sはシナのナショナリズムの時代と回顧されるが、1935当時には「ナショナリズム」と「革命」は一般名詞ではなく、マクマリー文書にほとんど出てこない。
 ハル長官は、スチムソン長官の路線をただ踏襲した。軍事力こそ行使しないが、日本を違法な侵略者ときめつけ、日本に反対する世界の輿論を結集しようとした。
 ケナンは朝鮮戦争中の1951春にシカゴで有名な講演をしたが、そのときケナンはマクマリー文書を読んでおり、それを引用した。マクマリーは、日本が徹底的に敗北した場合、その真空はソ連が埋めると予言している。これは当たった。
 マクマリーは1925に北京公使に任命された。クーリッジ大統領。
 身長176センチで54キロしかなかった。
 21ヶ条要求のいくつかを袁世凱が撤回させた。日本人は怒って反袁運動に手を貸し出した。1916に孫文への支援開始。袁は皇帝になろうとして墓穴を掘る。
 この時点で南支に本拠を有する国民党がシナを統一するなどとは誰も思っていなかった。北京を支配している袁らの勢力(1916の袁の死後、段祺瑞の安徽派と馮国璋の直隷派に分裂)が清朝をそのまま継ぐと世界は見ていた。
 広東人の孫文は外国で人生の半分を過ごし、シナには基盤がない。自分の権力を増やしてくれる外国なら、どことでも組む用意があった。あるときはドイツ、あるときは日本。
 けっきょくソ連の援助が国民党を強大にした。※ベトナムに援助して中共を挟撃したのと同じノリ。
 孫はコミンテルンを味方にすると、米国や日本から新たな支援を獲得する努力をしなくなり、反帝国主義と、不平等条約廃棄を基本教義とした(p.107)。
 1925の英国を狙い撃ちにしたシナ暴動はコミンテルンから国民党に派遣されていた顧問の助言による。ついで日本、ついで米国がターゲットにされた(p.108)。
 英人フランク・サットンは張作霖に迫撃砲の製法を教えた(p.25)。
 ウォルドロンによるとマクマリーはウィルソン流。
 ウィルソンにとっての国際連盟が、マクマリーにとってはワシントン条約体制であった。
 シナで近代国際法を最初にマスターしたのは、ワシントン会議に送り込まれた駐英公使の顧維均。彼は「事情変更の原則」を前面に出した。
 WWⅠ後のドイツ人、また革命後のロシア人は、シナでの治外法権を奪われた。
 クーリッジ政権の国務長官、フランク・ケロッグは、米世論に神経過敏で、東アジアの専門知識がなかった。
 こいつが1925-5のシナ人の暴動デモに狼狽し、ワシントン条約のフレームを壊し始めた。条約改正交渉によらない、一国単独の、一方的特権返上。
 これに反対するマクマリーを在支の宣教師団が批判し、マスコミに叩かせた。
 この暴動はコミンテルンの使嗾によるとマクマリーは見抜いている(p.73)。
 けっきょく英国は1926のクリスマスメッセージで対支宥和路線へ。
 1927-1に英の漢口、九江の租界は実力接収。揚子江に大型砲艦が遡航できない時期を狙って、国民党左派が蒋介石を困らせるために兵隊を突入させた。
 1927に米国はシナでの治外法権を一方的に放棄せよという決議案が下院に提出された。背後には駐米シナ公使と、国際伝道教会事務局長のウェーンシェイスが…。
 米国民のためよりもシナ人のために責任をとろうと考えるセンチメンタリストの要求には反対すべきだと、マクマリー。
 ケロッグの後任のスチムソン(フーバー政権)はケロッグ以上に国民党に宥和的。国民党はマクマリー公使の頭越しにワシントンと交渉するようになる。マクマリーは1929-10に公使を辞任した。
 プリンストンの学長にならないかと誘われたが、断る。外交官キャリア(たとえば初代の駐ソ大使)にまだ野心があった。
 ※米人はなぜ公職に興味があるか。誰も知らない秘密にアクセスできるから。
 リガはソ連未承認時代のアメリカのロシア情報の収集拠点。ケナンもいた。
 スチムソンは不承認主義の元祖。満州国は日本の国際条約違反であり承認しない。
 対日冷却関係だけが次期FDR政権に引き継がれた。
 FDRは海軍を拡張し、1933にソ連を承認した。これはどちらも対日政策。
 だが同時にハル国務長官は、日本の行動を9カ国条約に訴えて日米関係をさらに敵対的にもっていくことは控えた。
 9カ国条約には、シナの主権、独立ならびに領土的および行政的保全を尊重する、とある。
 1933のソ連政府も多くの国際法を廃棄または改変したがっていた。
 1926の米国国務省は、シナによる条約の一方的否認を支持する教会団体の圧力に影響されているとマクマリーは見た(p.52)。
 1926にシナはベルギーとの条約を一方的に廃棄した。これが世界から許されてはシナが他の国にした約束も簡単に踏みにじられることになる。またドイツがシナの真似をするかもしれなくなる。そこでマクマリーはベルギーの味方をせねばならないと思ったが、ケロッグ長官はシナ支持声明を出してしまった。
 ベルギーは国際常設法廷に提訴したが、シナは訴訟手続きを軽蔑して応じなかった。これは新しい先例となった。
 田中義一政権当時の1928にシナは対日条約を一方的に廃棄した(1896および1903の日清条約)。このときもワシントンはシナ支持。
 1927、米政府は日本に一言も相談せずに新しい米支関税協定を結んだ。日本は、多国間協調外交に見切りをつけた。
 1937にFDRはマクマリーをシナ大使にしようとしたが、当時トルコ大使だったマクマリーはそれを断った。
 1920s後半のシナの南北角逐では「双方いずれの側も、民族的な熱意で他方をしのごうと努めた。その結果は一方の側が満足できる立場もしくは思い切った立場をとると、他方がそれ以上の対策を講じなければならないので、いつまでも問題の解決に達しない始末であった。もちろん中国人プレイヤーにとってゲームで大事なのは、双方が解決に至ることではなく、むしろこの競争を利用して政治権力を握ることであった」(p.67)。
 北方派が条約否認派ならば、南方派も負けてはいられない。
 諸条約の一方的破棄について国民党のスポークスマンは、北方軍閥を崩壊させた1925後、国内では人気の高い非妥協的な態度をとった(p.69)。
 1982の細谷論文は、幣原外交は国際協調を旨とするワシントン体制の維持を強調してきたと書いている。※事実は、1927の英国の苦境を傍観し、出兵せず、体制を崩壊させた。ワシントン条約でシナの秩序維持を任された日本なのに、国際協調のために期待された責任は懈怠した。
 カーゾン卿は、支配と独立の間には中間的な方法があると。
 1934に米議会は10年後のフィリピン独立を決議した。
 1923に孫文が広東の海関を接収すると脅しをかけた。米英は共同で軍艦を広東に派遣したが、最大受益国である英国の努力は最小だった。英国はいつもそうなのだ。
 共同租界の警官は英国籍だった。
 シナ北方人は感情は鈍重。シナ南方人は感情は変動しやすい。
 原総理が暗殺されると政党の力が弱くなり、しばらく軍人内閣の時代になった。これらの政権は選挙での基盤が弱いためにアジアでの国防問題ではまったく譲歩ができなくなった。
 米国内のシナ愛はまずクリスチャンジェネラルの馮玉祥に。馮がソ連に走ったので、こんどは国民党が支持対象に。1927-3の国民党兵による南京列強領事館汚辱事件で評判がぐらついた蒋介石は、自身がキリスト教に改宗すると公言して米国人の支持をつなぎとめた(p.123)。
 愚かな米新聞は蒋をジョージ・ワシントンになぞらえた。
 さしもの米人宣教師も1927末にはシナ奥地にはいたたまれなくなる。
 1926の国民党の広東から揚子江への進軍には、政治宣伝部員が先行して大成功。コミンテルンが派遣したロシア/ドイツ人顧問がアドバイスしていた。
 脚注。田中メモランダムは、1929-10-23~11-9の京都~奈良の太平洋問題研究会で初めてシナ側によって持ち出された。
 1929-12に南京の雑誌「時事月報」にシナ文と英文が発表された。在南京の重光代理公使はただちに厳重抗議した。中日倶楽部が訳した日本語版は1930-6に内地で出た。
 この英語版が満州事変のさなかに上海の新聞で再掲載されて有名に。
 宇垣は戦後、この文書は民政党がでっちあげ、シナ人に売ったのだろうと。
 1927-6に参本の鈴木貞一が満洲の分離について森格らと議論し、斉藤博駐米大使がそれを無難なペーパーに修正したことはある。これが民政党員に知られたのだろう。
 米英は1943-1にようやくシナでの治外法権を正式に放棄した。
 マクマリーが理解できないのは、なぜ日本人が張作霖を爆殺したか。アホ息子の学良と、作霖のとき以上の関係が結べるわけがなかったのに。
 ※考えられる可能性。満洲の軍事力を一貫して弱めることに利益を見出すモスクワは、日本の若手の軍人に接触し、作霖を殺したら、ソ連から蒋介石への軍事支援を止める、等と、利益を示唆して誘導した。名声欲にとりつかれた一部若手軍人がこれに騙された。
 マクマリーが1935で予言できることは、日本はシナ領土を際限なく侵略しつづけ、満州国式の支配を拡げていくだろう(p.185)。
 「アメリカは、太平洋には真珠湾以遠に適切な基地を持たないので、地理的な条件からこの海域では、戦略、戦術、兵站すべての面で日本が優位に立つ」「ワシントンおよびロンドン海軍軍縮条約は、日米がお互いに、太平洋の広大な海域を渡洋作戦できないような比率を合意している」(p.187)。
 「中国貿易には対日戦争を賭けるほどの価値はない。実際問題としても近代において、対中貿易が対日貿易ほど利益をあげたことは一度もなかった」(p.192)。
 シナ市場は、日本の全輸出の1/4をしめている(p.199)。
 「日本人は、表面的には感情を表さないように見えるが、実は深い憤りをひそかに育て、不意に逆上して手のつけられなくなるような国民なのだ」「こんな国民は恐らく世界に例がないと思われる」(p.200)。
 米国は、北京公使館の警備隊、義和団議定書にもとづく天津の歩兵連隊、相当数の上海における海兵隊(最近は天津にも)を展開している(p.201)。
 いちど不承認と宣言した満州国を米国が承認することは日本人にみくびられ、ばかにされて増長させるだけである。
 訳者いわく、来日した孫文や蒋介石の「大アジア主義」は日本の意図とはしょせん同床異夢。
※「諸列強」なる訳語はおかしい。powersの訳が「列強」である。すでに複数概念である。
※シナ政府にとっては列強から「無視されないこと」がこの上なく大事で、核武装もそれが目的であった。戦って勝つためではない。