摘録とコメント。

▼ラルフ・タウンゼント『米国極東政策の真相』大江専一 tr.日本国際協会S12年pub.
 シナは一村内で既に自給が可能。またそれは、短距離間といえどもかかる高関税によって助長されてきた。※老子の世界。そして人民公社。
 シナ留学生は勤勉だが「自分自身の裁量に任されるとなると、恐ろしく下手」。
 アメリカインディアンは黒人と違い、宗教的にも肉体的にも奴隷化されなかたのは不思議だ。
▼ヴァルガ『戦争と世界経済』和泉仁 tr.S15年
 ※独がソから油脂を輸入している事実を伏字としている。60頁。
▼ヨハン・フォン・レールス(Leers、独人)『世界制覇の争点』高橋文雄 tr.電通出版部S18年
 1930~3にスタは「スターリン運河」を掘りバルトから北海ムルマンスクへ抜け出られるようにした。
 弩級艦は吃水深くスエズからは来られない。※つまり石炭罐の重油罐化にも関係なく、またシンガポールをどう整備しようが、弩級艦とともに英国はシナ沿岸において日本の敵ではなくなった。
▼大河原蔵之助『一水兵より海軍少佐になるまで』S6年
 日露戦前の石炭積みは人夫が主で、艦内では機関部員が加わるのみ。水兵は手を貸さなかった。が、開戦直前から、すべて乗員でやることに改めた(p.86)。
 13ノット出すと、マストやヤードが唸り始める。
 水兵の給与は平時の倍になる(p.108)。
 合戦中は耳に綿栓を詰める(p.141)。
▼エヌ・シュペクトロフ『軍需工業論』S10年、原1934
 戦闘艦の1門の発射最大数は19世紀後半は110回/日、WWⅠで987発/day
 戦艦1隻つくるのに6年かかる。改装も、1隻1年以上かかる。
 WWⅠの独ではTNTの結晶物は砲弾用に、屑物は、手榴弾や地雷用に回された。
 イペリットのつくり方に、マイヤー法とレヴェンシュタイン法がある。
 1913型3インチ騎兵砲を除けばすべてのロシアの陸軍砲は最初のものがクルップ、のこりのすべてはシュネデル製である。
▼参 ed.『日露戦争に於ける露軍の後方勤務』大4
 ユダヤ人多いオデッサで最も応召率が低かった(p.20)。
 1904-9にクルップに120mm臼砲を注文。1905初期より到着。
 1904-12に奉天に手榴弾工場をつくった。
 満州は5月下旬~8月下旬まで雨のためぬかるむ。
 馬車鉄道により雨季の糧秣補給を確保(p.304)。
 無線も使った(pp.366-7)。
▼松本伊之吉『海軍施設系技術官の記録』S47年
 米では施設作業部隊を平時には一般公共事業に用い温存したのに、日本では軍縮で潰してしまった。
 工作車には特に特殊鋼が必要だが、モリブデン、クロム、ニッケル、マンガンが足らないので、磨耗の早いものしか国産できなかった。
 鹵獲のブルでいちばんよかったのがアリスチャルマーだが、これは米では二流のもの。
▼有終会 ed.『米国海軍の真相』S7年
 飛行船の母船が10余隻もある。
 ワシントン会議以降、ハンプトンローズ、グァンタナモ、ボストン、セントトマス、パールハーバーの貯油槽を大増設。
 サラトガ級が入渠できるドックは、パナマ、シスコ、パールの3箇所しかなく、うち2つはレキシントン級には対応できない。
 陸軍長官出身のタフトは大統領になると、海主陸従主義を定めた。サンフランシスコにしか港湾防御要塞がなかったのを、パナマ、サンディエゴ、コロンビア河口のピューゼットサウンド、アラスカ、ハワイ、グアム、マニラ、スービックの8防御港に拡大した。
 ついで1916に太平洋軍港の拡大案が提出され、参戦にもかかわらず推進。
 シスコは油田からのパイプに直結していたので特に重要だった。
 アラスカには、キスカ&シトカの海軍貯炭所のみ。
 ブラッセー年鑑などの公表タンク容量はアテにならない。航続力は各国極秘。たとえば、何速に於て何マイル、とは示さない(p.298)。
 経済速度は8~12ノット。これは艦が大きいほど小さくなる。しかし戦中は対潜のため15ノット以下で走ることはありえない(p.301)。※しかし日本海軍では、あり得た。
 油の量だけでなく、それを急速に給油できる港湾装置が充実(p.305)。
 S6年の ala moana 事件。ハワイ人が米海軍中尉夫人を暴行し、裁判中リンチで殺された。
▼中根千枝『家族の構造』
 英では16世紀以来、どんな関係であれ、2組の夫婦が同居することは全土的になかった。
 「腹は借りもの」などという考え方は、インドやシナの血縁重視の思想からはけっして出てこない。
 遊牧民のテントには1核家族しか入れない。
 蒙古における一子相続の慣習は、大家族とは矛盾する。
▼中根『家族を中心とした人間関係』
 原始には氏族はなく、家族だけがある。古代と現代が小家族の時代。社会の富が不均衡で、超定着的な時代に大家族が現れる。
 原始基督教時代に一夫多妻があった(p.76)。
 アフリカでは弟に対する兄の命令権はない。シナ、インドでは、非血縁の親分・子分関係は生じない。
 東南アの家族制は世界で最も自由形態。結婚をしない自由がある。また女の社会進出はあたりまえ。
 インド人も距離の近い人と結婚しない。本家と分家もない。シナと同様。
 ハイパーガミーの行われるインドでは、上層に独身女、下層に独身男が増える。そのため下層女の持参金は莫大を要す。
 シナでは結納金が貯まらずに結婚できない男が多かった。
 シナでは父なるがゆえに父権がある。日本では家長なるがゆえに父権が附いてくる。シナでは父権は死ぬまで維持され、隠居制は無い。
 英人は10代に母親の世界から父親の世界に入る。
▼斉藤真 ed.『デモクラシーと日米関係』1973
 明治はじめのキリスト教入信者は、これを儒教の延長だとみた武士階級。
 南北戦争後の米事業家は、スペンサーの「ミリタントタイプオブソサエティからインダストリアルタイプオブソサエティへ」なる社会進化説に多大の影響を受けていた。ロックフェラー、カーネギーら。
 大正の日本人がアメリカ映画をいかに愛したか(pp.134-5)。
 ウィルソンは、自著『国家』(邦訳1896『政治汎論』)の中で、社会は進化によってのみ善くなり、革命は退化につながると。
 吉野作造は典型的なウィルソンかぶれ(p.147)。
 大正期に訪日したジョン・デューイは、反米論あることを報告。
 内村は米のWWⅠ参戦に絶望した。
 評判の悪い「写真花嫁」は1920に廃止。
 アメリカでの差別待遇を黙過すると、日本人は世界中から劣等人種とみなされて、いたるところで海外発展を阻まれることになる(p.184)。
 1900前後の日米開戦論は米側のみの一人相撲。
 1920’sを通じ、米海軍は、排日は戦争をしてでも貫くべき国益とみなした(pp.188-9)。
 日本政府は排日問題を重要なものとは考えず。よって大使の引き揚げもなし。
 大正デモクラットは人種差別をアマく見た。
 東部では100%アメリカニズムと19世紀末風人種主義がWWⅠを機に復興した。
 排日法が大陸進出を正当化した。
▼伊藤政之助『戦術史講和』大15
 オクスフォード大学は「戦争研究を度外視する大学は決して政治家養成の良学園にあらず」と、戦略・戦史の講座を置く。
 仏は1871~90は守勢作戦時代。独はこの間、先制を欲したが自制した。
 1890~1910は仏の攻勢防御時代。この間に独は力をつけた。
 1910~は仏の攻勢時代。ジョフル参謀長。
 英にはボーイスカウトの他、少年「チャーチ」旅団がある。本国のみで65万人。
 WWⅠで伊は総勢100万なのに50万の墺軍に防戦のみ。
 米の毒ガス生産は1日分で東京市民全滅に足る(p.22)。
 ベルギーではこの頃、強いアルコールを禁じていた。
 明治20年に至るや中隊を散兵と援隊とに改め、戦闘正面を150mに、散兵の間隔を3歩に縮め、おおいに攻撃精神を高唱せしも、「独断」の範囲は甚だ狭少であった(p.115)。
 ナポレオン下のアーゲローは黒人出身(p.309)。
 WWⅠの男子数に対する兵員。仏27%、独25%、英23%、伊20%だった。
 兵員100に対する馬の数は、普墺戦で15頭、普仏で17、日露で20、WWⅠで30である。
 WWⅠの陸兵1人あたりの毎日の純陸軍戦費は、英20円、仏5円、露・伊・独・墺が4円である。日露役の日本では2.3円だ。
▼川瀬一馬『日本文化史』
 7~8月の季節風は、日本の西南海地方(沖縄)から大陸に吹き、その後は逆に吹く。しかし、季節風にのっても、大陸からの戻りは困難。
 日本の西南地方は、風と海流が悪く、接岸が困難。
 揚子江は風道なので、上下行ともに「信風」を利用できる。
 日本海岸は夏のみ平穏で、秋の終わりから翌春まで交通できない。
 太平洋岸は一年中使えるが、午前は凪ぎ、午後に荒れる傾向がある。
 安倍仲麿は、おきなわ島まで到着しながら難波してまた大陸に吹き戻された。
 武家文化は文字でなく視聴覚に拠った。禅はテキストで教導せず、師との接触によったので、武家にウケた。
 足利学校は禅院の形式をとった。
 林羅山の宋学はまだ単なる紹介解説だが、素行が出て初めて宋儒を論難し、仁斎、徂徠が続く。
 神道の教義は全く儒仏に依存。あるのは祭式のみ。
▼北見俊夫『日本海上交通史の研究』
 柳田の『風位考』。日本海岸は陸路は往来し難いため航海が発達したと。
 山口県沖から海流と追い風にのった漁船はウラジオまで「二日走り」する。
 『元史瑠求伝』にいわく、「凡西岸漁舟到、澎湖己下、遇颶風発作」すると、漂流し、みぎわに落ち、百に一も戻って来ない。……つまり沖縄近海は低気圧が頻繁に発生するのでシナから交通するのは危険なのであると。
 順風でも急潮にかかると一歩も前に行かなくなった(p.122)。つまり黒潮が強いので。
 柳田『火縄銃から黒船まで』。江戸期のジャンクは、5~9月に揚子江岸を出、南西風に乗って来日。シナへの帰航は10~12月の北東季節風に乗る。片道3~6日だった。
 日本からシナをめざすのは目標が広いので容易だが、その反対が至難であった。
 日本海側の暴風日は11月~3月に集中。逆に夏はほとんどベタ凪ぎ。太平洋側の伊豆大島は周年荒れる。日本海の年間波浪は、1m以下が100日、2mまでが100日、2m以上が160日である。
 良材の多い熊野の山中で造船して川を下して難波に出た。
▼トライチケ『軍国主義政治学』上下巻、浮田和民 tr.大7、原1899~1900
 戦争とは自国が判事になる訴訟なのだ。
 国家が先であって、契約が先ではない。
 中世では貴族は外国の貴族と親密で、自国の市民とは疎。市民は市民同志親しく、自国の貴族とは疎。
 最初の成文「叛逆罪」は1352の英にて。
 英国のインド虐政は正当化される。ヨーロッパ人はアフリカと東洋ではヨーロッパと違う政策を採ってよい(上巻p.147)。
 フォン・ボイエンやクラウゼヴィッツのようにロシアに脱走して旧国旗に反抗したものは、残留組のヨルク、ブリュッヘル、ビューローより道徳少ない。
 英国においては、戦時状態にありとの布告が、ドイツにおけるよりも甚だ頻繁である(p.242)。
 ユダヤ人は名誉あるドイツ人に対して常に民俗瓦解の一要素たりき(p.392)。
 ロシアでは、国が認めないと貴族ではない。二世代続けて公務につけない家族は貴族の資格を失った。これは、成り上がり貴族を許す(p.417)。
 英国下院の議員の1/3は、鉄道管理者だ(下巻p.17)。
 スウェーデン人は社交的だが、ノルウェー人は無愛嬌だ(p.229)。
 著者の師のダールマンは言った。結婚の誓いのとき、離婚もあり得るなどとは言わない。それと同じで、理性を有する者は良心を犠牲にし得ず、軍旗に対しても良心の故に服従できない場合があり得る。だが宣誓のときにはそんな留保は言わないものなのだと。
 ドイツ青年の決闘の習慣は美風だ。英国士官は決闘を禁じられてから、公衆の前で喧嘩するようになった(p.311)。
 革命戦争以前、英仏だけが国債を起こせた。フレデリックは7年役のとき、ついに公債を起こせず、悪貨幣で切り抜けた。
 著者小伝。トライチケは初め自由貿易主義者だったが、年経るに従い、反動化したと。※つまり愛英→反英ということ。
▼『燃料史』
 昭和15年、米は航空燃料の他、鉄製ドラムの供給も禁止した(p.42)。
 南方油の運送実績。戦争第一年148.9万トン。二年246.6万トン。三年106万トン。四年(終戦迄)ゼロ。
 S18年末からの苦肉の策。台湾砂糖、満州雑穀、国内甘藷からアルコール。大豆、魚油、フィッシャー軽油を潤滑油に。航空ガソリンのための松根油、重油のための亜炭、ボタ乾溜、タンク底油液の処理。
 松根油はS19年に伝えられたドイツ技術で、針葉樹の8%がテルペン乾溜油になると。農林省は伐採に難色を示し、根だけ許した。陸海分担で、20万リットル製造したが、航空用にはならず、漁船用とされた。※大正時代から松根油の研究があることは兵頭旧記事を見よ。
 南方油田はタラカン油田とサンガサンガ油田(バリクパパン製油所)のみ。他には出なかった。
 兵站総監を作戦部長より上位にしている陸軍はパレンバン占領を素早く決心。海軍は作戦第一主義で伝統的に補給はどうにでもなると思っており、特に航空ガソリンに関してそうであった。こうして最大油田のスマトラは陸軍の製油分担区になった。海軍はボルネオを得た(p.94)。※トータルウォーを考えていたのが陸軍省であって海軍省ではなかったということ。
 S19年2月に海軍航空燃料が枯渇し、陸軍に融通を懇請する羽目に。陸軍は応諾したが、マリアナで空母が壊滅したのを見て、本土決戦に備えて海軍には渡さないことにした。
▼田辺義雄『世界の食糧情勢』
 1978~1982平均すると、綿など含めた農産物輸入はアメリカから42%だが、特に小麦シェア53%、トーモロコシ91%、大豆93%は一国依存状態。
 米国農地の2000万Acerが日本向けの作物をつくっている。これは日本の耕地より広い。
 83年の供給熱量は国民一人あたり2593kカロリーだった。うち1361%、つまり52%は国内産の勘定。
 人は寝ているだけで1日1450kcalを消費する。
 農水省は、最大限の自給努力をしても2000kcalの自給が限度と見ている。これは昭和20年代後半の水準。
▼クセノフォン『アナバシス』松平千秋 tr.
 エウプラテスの某地方は稗がきわめて豊富。
 ティグリスは舟航はできるが舟なしで渡河することは到底望めぬ。
 急退却をすれば、追撃は小勢では危険となり、さりとて大部隊ではスピードが出なくなる。
 ナツメ椰子の果汁は美味だが頭痛を起こす。
 規律のためには敵よりも指揮官を恐れさせねばならぬ、とクレアルコスは言ったとか。
 クセノポン「われわれ(ギリシャ人)は、寒暑や労苦に耐える点では敵(ペルシャ人)に勝る肉体を持っている……」
 クセノポン「さらに諸君よ、もう一つ私が確信していることがある、すなわち、戦いにおいて何としてでも生き永らえようと望むような者は、大抵は見苦しく悲惨な最期を遂げるものであること、それに反して死は万人に共通で逃れ難いものと悟り、ひたすら見事な最期を遂げんことを志す者は、何故かむしろ長寿に恵まれ、在世中も他の者より仕合せな生活を送るのを私は見てきているのだ」
 ただ一つ、騎兵はわれ\/に優る利点を持つが、それはわれわれよりも安全に逃走できるということだ。
 ペルシャ人の投石器は、掌に握れるほどの大きい石で、短射程。
 ロドス人の投石器は鉛丸で、ペルシャ人の石の倍、飛ぶ。
 それは弓よりも飛んだ(p.100)。
 ペルシャ人の夜営では馬は足も縛っておく。
 カルドゥコイ人の長弓は、下部を左足で踏みながら引く。
 ギリシャ人隊中には多数の娼婦がいた(p.120)。
 寝ている体に雪がつもると却って温かい。
 ギリシャでは猛犬は昼縛っておき、夜放す。
 テュノイ人は棍棒を、鉾の穂先を叩き落とすための武器だといっている。
 解説いわく、本書はアレクサンダーに影響を与えた。
▼『五国対照 兵語字書』明治14年2月 参謀本部
 ※山縣参謀本部長が西周らに編ませた、明治期の最初の外国語辞書の一つ。
 ※見出し語は仏語で引くようになっており、和語から引くことはできない。
 ※女性格に f.、男性格にm. と注記してある。(a)は古語の印。
 ※配列は仏、独、英、蘭、和の順か。
 巻末で室岡俊徳いわく、馬の毛色を言う語だけはどうにも比定がつかなかったと。
 Initiative,f.──Initiative,f.──Initiative.──Initia──先発
 Architecture militaire,f.──Kriegsbaukunst,f.──Military architecture,f.──Kriegsbaukunst,f.──築城術
 Arbalete,f.(a)──Armbrust,f.──Cross-bow,Arbalest──Armborst,f.──Kruisboog,m.──弩
 Cantiniere,f.──Marketenderin,f.──Sutler’s wife──Marketentster,Zoetelaarster,f.──従軍酒婦
 Guerre civile.f.──Burgerkrieg──Civil-war──Burgeroorlog──国乱
▼金子有鄰『日本の伝統馬術』
 ※先行する著者の主著と内容はほぼ同じ。
 「令義解」に、「具装」とは馬甲だとあるから、奈良時代に馬ヨロイがあったことが知られる。
 源平盛衰記の生田の戦いの箇所に「馬には冑を着すべし」とある。ただしそれはカブトなのかヨロイなのかはっきりしない。
 太平記の22巻にも馬の鎖冑が出る。その他の例、多数。
▼R.アーミテイジ『アメリカ海軍──その伝統と現実』古田保 tr.昭和16年
  ※巻頭写真が20ページほど破り取られていた本。
 艦隊派と本省派のあいだに意見の食い違いがある。
 スクリューのことを「暗車」という。
 「1948年には米国海軍が総トン数では日、独、伊三国の海軍の合計と同じになると言うことは別に隠す必要もあるまい」(p.30)。
 「水兵は複雑な仕事を憶え込むのに6年はかかり、除隊して一般人の仕事へ戻るのも困難だ」「我が海軍は……現役兵員の4割はハイスクール出身である」(p.31)。
 「我が戦艦はことさらにあまり速くないが、装甲を厚くし、備砲を大きくし、航続距離を伸ばすために、速力を犠牲にしてゐるのである」(p.32)。
 1925頃は商船とSubが衝突するとSubの方が沈んだ。S-51号と“シティ・オヴ・ローマ”のニューイングランド沖遭遇。
 「19世紀及び20世紀の攻撃戦理論の唱道者ともいうべきクラウゼヴィッツの諸概念は、第1次世界大戦中に疑惑にさらされるに至った。それは攻撃的作戦が成功するためには、殆ど三対一の数的優勢を要することが分ったからである」(p.182)。
 日本政府は圧迫を加えられると敏活だ(p.192)。
▼参謀本部・広田忠三郎『日本古戦法』大13
 太古の騎射は「半弓」を用いていた。さもなくば馬上で使えるものではない。
 甲越の戦いのころは槍は普及していなかった。信玄などは麾下の隊だけに長槍を持たせていた。信長はこれを多量に用いた。以後、武士は必ず手槍(短槍)を持つようになった。
 本邦の「魚鱗陣」はシナの「車輪陣」の誤りで、「鶴翼」もまた「虎翼」の誤り。
 孔明八陣とは実は64種あるのだが、越後流は知らない。
 本邦の陣備えは頭に重点を集中した攻撃型。後ろに脆い。シナ軍の陣は守るを主とする。
 答古智幾・タクチック と 士多剌的義・ストラテギー が明治12~13頃の当て字(p.30)。※『軍事史学』によると、フランス語にオランダ音をふった。
 折り敷いて石突を地に托す槍襖を「嵐」という。
 植株列がそろっていないのは、深田である。
▼モック&ラースン著『米国の言論指導と対外宣伝』坂部重義 tr.S18年
 ※序文ページ破れていて原タイトル不明。
 宣伝と政治・軍事は作戦上、同価であるとはWWⅠではじめて米人に気付かれた。
 1940ごろ米にフィンランド救援の気運をつくったのは、ロバート・シャーウッドの芝居「ゼア・シャル・ビー・ノー・ナイト」と、シベリウスの音楽。
 WWⅠ中の米国内宣伝は、米国人をして北米爆撃を覚悟させる迄に(p.28)。
 戦時防諜法で5~20年の禁錮判決を受けた何百人もが、ハーディング~クーリッジによってほとんど釈放された。
 ホームズ判事すらWWⅠ中は保守派の判決を下した。
 Four minuit man (四分間演説者)は、ラジオのないときのシンクロ放送網。
 開戦と同時に多数のロシア人が合衆国から帰国した。
 国内・同盟国向けには本局が、対敵宣伝は陸軍省が担当。
 国内無線局を全部接収したのは海軍。これを定期ニュースブロードキャストに(p.226)。
 1918年からはハルピンが米の対シベリア宣伝活動基地となる。
 ヴェラクルスを占領させたのはウィルスンだった。