摘録とコメント

▼塚本清著『あゝ皇軍最後の日──陸軍大将田中静壹伝』(昭和28年12月刊)
 ※『表現者』で紹介した部分は割愛。
 5月24~26日の空襲で、泉岳寺、乃木神社、増上寺、三笠宮、秩父宮、大宮御所、英大使館が焼ける。
 昭和14年に田中は師団長としてシナに派され、15年に宜昌(南京・漢口を経て揚子江をさらに重慶まで遡航する途中にある)を攻略する作戦の陣頭指揮をとる。未明から夜の12時まで32kmを行軍し続け、2カ月間は風呂に入れなかった。師団長は馬であるが、痔になった。
 大戦末期、本土を16コDで守るとすると引っ込むしかない。しかしもし50コDもあるなら、海岸でやれという元気がでてきた。
 本土は離島とちがって艦砲射撃も疎散となるはずだ。
 味方戦車も最初から水際に陣地つくれと。
 山で対戦車戦闘するのは消極的だと。
 かくしてS20年3月以降は、非合理的な水際決戦思想に逆戻り。
 20-3 東部軍管区司令官&第12方面軍司令官
 田中は関東平野の海岸線をすべて視察しようとした。
 S19年夏、サイパン失陥直後に、第一次の本土地区師団増設。約10コD
 関東地区では、千葉歩兵学校を中核に、第91師、第84師などを編成した。
 S20年初頭から、百単位師団が新設された。100番台である。これらはすべて「海岸拘束兵団」。別名を「はりつけ兵団」。
 斬り込み部隊が1個聯隊、機動性のない固着部隊が3個聯隊の4単位制。
 この師団はペリリューの戦訓から生れた。水戸聯隊の斬り込みの戦果を重視。19年末から教育総監部は斬り込みの浸透的潜入攻撃方法をもって火砲、飛行機の不足に代え、全縦深同時制圧までさせんと考えた。
 つぎに200番台の「二百単位師団」がつくられた。これは攻勢兵団で、俗には「突撃兵団」という。
 指揮官の年齢を思い切って若年化した。師団長は少将、連隊長は中佐か少佐である。
 100番と200番で合計30個師団、10個旅団ほど。
 20年春から、本土防衛は、東京の第一総軍と、広島の第二総軍でやることになった。
 第一総軍は東海道から北。杉山元帥が司令官。
 第二総軍は中部から西である。畑元帥が司令官。
 第一総軍は、北部、東北、東部、東海と分かれるが、そのうち東部(関東)を任されたのが田中静壹であった。米軍は九州と関東に上陸すると考えられていたから、九州には横山中将、関東には田中が任用された。
 東部軍の下には十数個の師団があった。九州は10個である。上陸後はそれぞれ倍増する予定であった。
 当時の本土軍は、方面軍としての作戦任務だけでなく、軍管区としての軍政任務も附課されていた。
 田中は東部軍(=第12方面軍)および東部軍管区司令官として、住民の防空、避難、国民軍の動員、編成、訓練も面倒をみなければならない。また帝都防空の最高責任者であった。
 12方面軍の下の第52軍は、佐倉に司令部をおき、九十九里から印旛沼で戦う。
 53軍は厚木に司令部をおき、相模湾の防禦。
 36軍は機動決戦兵団で、所沢や浦和に待機し、九十九里にも相模湾にも攻勢をかけられるようにしていた。戦車はぜんぶここに集めた。機動兵団の運用を知る上村利道中将。
 近衛師団は東京の防衛で、その司令官は飯村穣中将。
 (p.11) S19年以降の新編師団は火砲としては迫撃砲を主体にしたが、「多数の弾丸を必要とする迫撃砲に、弾薬の生産が追いつかぬという状態であつた」。
 田中配下の沿岸の3個軍は、築城におわれてほとんど訓練ができなかった。
 36軍だけ訓練をしていたが、駐留地の移動が頻繁で休宿地帯の宿営準備に忙殺されがちであり、しかもコメ不足のため、あまり過激な訓練を兵にはさせられないでいた。
 参本第一課は選択した。築城よりも訓練が大事だと。対米戦の成績を統計的に調査したところ。
 もし敵上陸が切迫しているなら訓練せよ。半年の余裕がある場合のみ築城せよと。
 田中は長野県まで視察した(p.15)。
 4-13、明治神宮が炎上。
 その前後に、各宮家もあいついで炎上。
 八丈島、大島も視察した(p.17)。
 おおいに苦労してつくった沿岸陣地が一本の命令で変更された
 中央部の意見がまったく不統一であった
 中央は、沖縄のあとは済州島にくるという可能性も、いちおうは考えた。
 20-8-24 自決。※ところが自決せねばならぬ理由がいまいちよくわからない。昭和20年の東京における憲兵運用に何か負い目があったのか(捕虜にした米機パイロットを住民がリンチで殺していることについて憲兵隊が責任があるといわれればそうかもしれない)。それとも天皇の松代動座を阻止するなどの陸軍中央に反する独断をしていたのか。それとももっとシンプルに、天皇に対する御詫びか。
 昭和20年に近衛兵が賢所に放火してボヤにする事件があった(p.223)。田中は東部軍司令官だった。
▼ニコライ・トルストイ『スターリン その謀略の内幕』新井康三郎 tr. S59年
 鉄道でいけないテヘランにバクーから行ったときのみ、スタは飛行機に乗った。モロトフも飛行機恐怖症だった。
 帝政ロシアでは拷問は長年禁止されていた(p.77)。
 1936にトハチェフスキーは、ソ連はドイツに対してチェコを援助できぬと告白。
 スタはヒトラーが何の反対もされずに反対派を粛清したのに倣った(p.96)。
 ポーランド侵攻が遅れていることについて、リッベントロップの催促をのらくらかわす。
 9月17日の午前2時という異例の時間にスターリンがフォン・シューレンベルク大使を接見し、赤軍は夜明けとともにポーランドを攻撃すると通告した。
 土地は時間に匹敵した(p.118)。
 ソは90万トンの石油を独に供給していた。ゴムはシベ鉄で極東より供給された。
 1939秋、チャーチルはFDRに「ヒトラーの石油の状態を考慮すると、彼は時間切れに直面しているとの感じを受ける」と伝えた(p.121)。
 ソからヘルシンキを攻めるのをリューディガー・フォン・ゴルツ伯のドイツ軍が援けた。
 1940にヘルシンキで五輪が開催されるはずだった。
 1940になって在フィンのソ軍に1939型ライフルとKVが行き渡った。
 英参本は中東からのカフカス連続爆撃と黒海封鎖で独石油入手を阻止しようとした(p.169)。
 ソ連もそれを怖れた。
 独のノルウェー侵攻直前、ソは1940-2-11協定に基づく石油を勝手に停止していたのに、侵攻開始後にすぐ再開。
 ソ連式の射殺法では、首のうしろからピストルを射って前額に達する。
 開戦後、まだ帰趨のはっきりしない5月、「事態がどちらに転ぶか不安定な状況にあった間は、スターリンは例の用心深さを発揮して、対独原料供給を遅らせていた」(p.208)。
 望む事の2倍を要求して、半分で満足するというソ連の戦術(p.218)。
 軍内の政治委員制は、元帝政下将校を監視するため、トロツキーが導入。
 一番信じられるソ連将兵の死数は750万。
 英国は白系ロシア人をいかに熱心にソ連に引渡したか。
 モンゴメリーがあと数時間遅れたら、デンマークも東側領になっていた(p.353)。
 1969にロバート・ジョーンズは米国の対ソ武器輸出の本をまとめた。未訳。
▼堀場一雄『支那事変戦争指導史』S37年
 ハンガリーは満州国を承認した(p.280)。
 カナダの対独宣戦は9月10日。
 WWII始まったので英仏は10~11月、シナから軍を引きあげた。
 日本軍は、政策、報道、軍需に有為の人材を回さなかった(p.758)。
 軍の庇掩下でないと日本人は大陸に進出できぬとの思想はあやまりだった。
 一戦場に同時に3コD集めたことなし(p.762)。
 「支那事変に在りては叡智ありて実行力乏しく、大東亜戦に在りては実行力ありて叡智乏しと謂ふべきか」
▼中原茂敏『大東亜補給戦』
 昭和12年にイタリアに重爆×72、小銃×10万、砲観測器若干を緊急発注。
 支那事変で、陸軍の各兵器費に対し、12年度は56パーセント、13年度には76パーセントが弾代に充てられた。
 ソ連の石油生産(百万トン)。昭和15は31、16は34、17は33、18は29、19は39、20は22で、だいたい日本の6倍。
 米は真珠湾の前の7月7日にアイスランド進駐。
 WWII前のルーマニア石油生産は600万キロリットル。ピークは800万だった。
 日本陸軍の火砲のRange値一覧(p.248)。31速野から99山まで。ロケットはなし。
 TNT生産は、昭和16~18は全火薬中の60~63%をしめたが、17年以降は割合が減り始め、19年は50%、20年は37%となり、多くはカーリットその他、代用新火薬に転換。
▼日石 ed.『石油便覧1982』
 WWⅠで「連合軍は石油の波に乗って勝利へと辿りついた」と評された。
 ダイムラーのガソリンエンジン1883
 ディーゼルの重油エンジン1893
 米海軍の石油切り替え1904
 英海軍の決定は1912
 カリフォルニア油田から蒸留するガソリンはオクタン価が高い。ボルネオ、台湾油も(p.121)。
 船用タービン用C重油は、粘度の高い低質でもようが、燃費悪く、経済性でディーゼルに劣る。
 1914、英、イラン石油を支配。
 1939、米はソと日本に航空揮発油の製造装置特許の輸出を禁止。モラルエンバーゴ。
 1939、英は石油局を設置。
 1941、米は対日石油輸出まったく停止。
 1942、英のガソリン不足深刻となり自動車輸送統制開始。
 1945、米英石油協定。於ロンドン。
 1951、英はイランの石油産業国有化を承認す。
 BPはもとはアングロ・イラニアン石油と称した。溯ればアングロ・ペルシアン石油。英人ウィリアム・K・D’Arcy がイランの最初の油田発見者。
 WWII前は精製は消費地ではやっていなかった。
▼『トューキュディデース』小西晴雄 tr.(筑摩書房『世界古典文学全集・第11巻』)
 内陸に当時残る帯剣の習慣は、盗・海賊時代の名残り。最初に廃剣したのがアテナイ人。
 初期の都市は、島でも大陸でも海岸線からひっひこんだ所に造り、海賊を避けた。
 トロイ戦争がペロポネソス戦争よりはるかに小人数で戦われたのは、現地調達可能な糧秣の水準まで絞り込んだから。
 イオニア、シケリアへの殖民は、トロイ戦の後。
 アイギーナvsアテナイの三段櫓船海戦時、甲板は全部に張られておらず。
 掠奪は主として海経由で、陸戦による侵略はなかった。
 アテナイの発達は海商というより海賊的支配によるものだったらしい。
 註、三段船に寝食する場はなかったので、航距離は局限。
 註、昔のギリシャ人は本を黙読しない。必ず音読。
 ケルキューラvsアテナイ海戦に船衝戦法なし。
 「諸君は他を傷つけない代りに自らも傷つけられないで守れると思っている」(pp.27-8)。
 一旦、与えられた支配圏を引き受けた以上は、体面と恐怖と利益の三大動機に把えられて我々は支配圏を手放せなくなったのだ。しかしこの例は我々をもって嚆矢とするのではない。弱肉強食は永遠不変の原則である(p.29)。
 常に我々は……敵の過ちに僥倖を恃むことなく、自らの用意に望みを託すべきである。人間にはそれほど大きな違いがあるとは思われず、限界状況で鍛えられた者こそ最も強いと考えられるべきである(p.31)。
 これを知ったアテーナイ軍は、重装兵を正面に押しだして攻撃を加え、さらに周囲を軽装兵で囲み、中にいた者に石を投げつけて全滅させた(p.39)。
 湿地の民はエジプト人の中でも最も剽悍な部族であった。
 註、エジプトでのアテナイの敗北は、陸戦化していった為。
 事実、アテーナイの国力は正規兵よりも外人傭兵に依存しているのだ(p.43)。
 戦いでは飽くまで冷静を保つ者ほど安全である。
 諸君が(侵略を受けて立ち)開戦を決定したとて条約破棄行為にはならない(p.44)。
 「ツキディデス症」は、市内に戦時体制のため人口急増したときに。
 飢饉はリモス。疫病はロイモス。
 註、密集海戦では、口頭命令だから、騒ぐことは許されなかった。
 註、最高司令官が戦場後方に位置するようになったのは、アレクサンダーの父フィリッポス以降。
 ……ひとたび戦いになるとどちらの側にも援軍が得られるような状態になり、敵より有利になること、自己の力を増すことのために他を呼び入れる機会は、反乱を起こそうとする者たちには簡単にあるものであった。
 これらすべての原因は物欲と名誉欲とを満足させようとする支配欲にある。これらの諸欲から闘争への渇望が生まれる(p.116)。
 また欲望に駆られた人でなくとも、闘争力が伯仲してくると人々は抑制しきれない強い感情に流され、残酷で無情な行為にでるようである。
 このような場合には、逆境にある人すべてにとって頼みの綱ともいうべき公律を他人に仕返しをする時に破ってしまうから、いつか誰かが危機に面して公律を適用しようとする時にはもはやその効力はまったく失われてしまっているのだ(p.117)。
 もっこがないので、後ろ手を組んだ、かがめた人の背中に、土砂を載せて運搬(p.129)。
 戦うことが利益になると考えればこそ、恐怖があっても戦いを避けない。……また他の者は目前の損失を我慢するより、戦争の危険を耐えるほうを選ぶ(p.145)。
 不測の未来は我々を一様に恐れさして、むやみに戦争を起させないというきわめて良い面も持っている。
 我々(シケリア諸都市)が賢明でさえあれば……今後は、島外から援軍や調停者を一切呼び入れることをしてはならない。
 シチリア原住民はイベリア半島を逐われて来た。
 註、当時の商船は平均9km/hの速さ。
 重装兵、騎兵には、糧秣を担う奴隷がついていた(p.272)。
 解説:彼がペロポネーソス戦争の体験を通して到達した考えの中では人の心理は基本的に重要な位置を占めていた。人の行動の動機とは、富の追求と名誉への欲望と恐怖から逃れようとする三つの動機に集約されると彼は考えた。そしてこの三つの願望を実現するために人間は力を得ようとする……(p.333)。
 兎も角彼は新しい考えを説明抜きで表現しようとしたのである。
▼石岡久夫 ed.『日本兵法全集・2 越後流』
 鎗は敵の顔面を突け。馬の載するは36貫(精米1斗)、人の担うは6貫可なり。
 首級は初太刀の者に与うべし。
 大軍なるときは夜明けて退き、小軍なるときは夜深くして退く。
 雪道は、まず人夫に踏み固めさせてから行進せぬと、泥るむ。
 縦ひ将吏を討捕るといへども、一番鎗の功を越えざるなり。
 飯の後に武具を著すると、緩む。槍をもって退去するときは、先端を後に寝かして左手に持つと、反向し易い。
 衆馬の中を駆けるときは、むしろますます狂馳させる。と、囲りの馬が避けるので、通り易い。
 血祭とは、首級を洗い、化粧して、串刺しにし、捨て置くこと。
▼石岡久夫 ed.『日本兵法全集・7 諸流兵法(下)』
 徳田の合伝流は西郷従道にも伝えられた。刀槍戦よりも鉄砲戦に重きをおく。
 兵学は実戦事実伝を肝要とす(p.56)。
 天正末~慶長初めまでは火縄銃は槍隊の露払いでしかなかった。
 が、慶長初め以降は、鉄砲の無い足軽や弓隊など全く用が無くなった。6~7間以遠では、弓は甲冑を射通せない。
 客戦に於て、服さゞる村里の井に、砒素、鴆毒を混ず(p.84)。
▼A・ボイド『中国の建築と都市』S54年、原1962
 インドは地震国だがシナよりも石とレンガを多用している。
 黄河域には良質の建材用石がない。代りに木材が余っていたのが理由か。
 中世英国では圧倒的に木造建築。
 木工は土着していたが、石工は渡り職人であった。※だからフリーメイスン。
 三角形トラスはアーチの代りになるが、剛性である。
 迫持石(アーチストーン)は同寸でなくてはならぬ。
 石材は漢代以降、主要な橋材となった。
 有名な某園のアーチ橋は大理石製。
▼小松茂美 ed.『続日本絵巻大系・17』S58年
 前九年の役絵詞では、長兵はなぎ刀のみ。したがって面頬も両側のみを被って正面は空く。
 結城合戦絵詞には平刃のヤリが見える。
 鎌倉時代の絵巻は京都に発注してとりよせていた。
 後三年合戦絵詞に、猪の目透しの鉞を肩にした軍卒の絵。
 中巻には半首[はっぶり]=面頬+アゴ被いの歩兵が出る。
 東北では、自分の手で首をとるを「てづくり」という。
▼小松茂美 ed.『平治物語絵詞』S52年
 あごひげのばし放題の男が目に付く。面頬はあるが半首は見えない。
 柄頭が急角に反り上がっているのは片手打ちを考えた馬上太刀。
▼機甲会 ed.『日本の機甲60年』S60年
 初期ドライバーは輜重兵だけだったのでTKもはじめは彼ら。
 大14の宇垣軍縮で自動車隊も廃止されることに。
 山下奉文中将団長のドイツ視察団はS15年5月グデリアンより直接コンバインドアームズの話を聞く。
 フラーの陸上海戦論の訳が大12-12月号の「騎兵教育の参考」に載る。
 対米戦初盤では95式LTKの37ミリがM3スチュアートLTK-I型の改すら貫通できず。
 鹵獲M3LTKの実験では後面も貫通しない。逆にこっちの正面は貫通される。
 重量25トンでは装甲を一般に云う戦車並みにすることは不可能(p.74)。
 米軍のマニュアルでは「弾薬の射表や弾丸効力、戦車各部の装甲板厚等は、隠すのでなく全軍一兵に至るまで知るべき知識とされてい」る(p.131)。
 ノモンハンのBTは半クラでも登坂した。
 74TKはAPDSも英国のものを使っている。
 TKが、前方1300mから400mまで30km/hで迫るとき、その見かけ上の面積は、歩兵が200→60mまで匍匐するに等しい。しかも前者は110秒、後者は700秒。よってTKがATKに暴露しているとはいい難い。
 イスラエルは四次戦争のゴラン高原では155Hのタマを400発/門発射する必要があった。
 74TKの年間ランニングコストは2千万円/台。乗員のコストは450万円/1人/1年。
 普通科が射撃しながら50m突撃したら30秒かかった(p.167)。
 同じ97MBTでも三菱製と日立製とは部品互換性がなかった(p.287)。
▼飯村穣『兵術随想』S41年
 編者の西内雅はS15内閣総力戦研究所いらいの部下。
 軍ははりきった馬であり、政治家はこれを御する良騎士でなければならない。
 軍部の秘密主義の責任は、機密をすぐ口外する政治家にあった(p.46)。
 イントリグの訳語が謀略。兵語「謀略」はロシア班小松原道太郎少佐による。
 「何某曰く式の兵術を排せよ」(p.116)。
 米がもし核を使わずベトナムから退いた場合は、日本は仏並の核武装をすべきだ(p.228)。
▼陸上自衛隊幹部学校 tr.『枢軸側の大戦略』S31年、原1952?
 ラディスラス・ファラゴが旧独軍人の論述をまとめた“The Axis Grand Stratety”という資料。
 クローゼウイツツはナポレオンの突破作戦よりもフレデリック大王の陣地戦をよしとした。その影響を継承してシュリーフェンは「包囲」にこだわり陣地戦に陥って決戦とならずにドイツは負けたのだ(p.57)。※と新時代の独参謀は言いたかったらしい。米軍はクラウゼヴィッツの影響を根掘り葉掘り訊ねているようだ。
 フレデリック「小人はすべてを防御せんことを望む……すべてを御るものは何物も救わぬ」「陸軍の強さは速力に依って増加した集団の力に等しい」※→フォッシュ?
 補充兵ほ多く保有せば数量は補うことができるが、失った兵の質は之を補うことができぬ。
 シュリーフェン「百万人を給養するには十億弗を要する時、消耗戦略を行うことは不可能である」
 1940年西部前進中のTKに対する飛行機または司令部よりの通信にはヒラ文を使用した。コードは陸上戦闘中不適と。
 グデリアン中心に代用潤滑油の研究すすめたがとうとう成功せず、東部冬期戦でTK凍結続出した。空軍用潤滑油もまた不足した(2巻p.143)。
 1934にナチのE・Hadamovskyは「力を用いることは宣伝の一部である」と。
 イタリアはアルバニアからの数十万トンを除くと全石油をドイツから食糧のバーターで得ている。