▼津田重憲『正当防衛の研究』
ギリシャでは「同害同報」。
主観的危機感からの殺人は「誤想防衛」。
正当防衛の相当性:不面目な逃避になる場合の防衛は可。ただし相手が子供、狂人の場合は、逃げないと罪。
自ら招いた侵害に対する自衛は正当化されない。自招侵害に対する正当防衛。
藉口防衛:逃げていく加害者を追い討ちすることなど。
他人のための正当防衛は「緊急援助」。
▼星斌夫『大運河』
書経に禹貢とあり、水路漕運によって首都に税糧を輸送していたことが推定される。
呉は、対楚作戦の兵糧を、人工運河、陸行、水行を経て運んだ。
呉は揚子江と淮河を運河で連絡した。これを使って兵糧を北に運び、斉を破った。
淮南子の人間訓に、始皇帝が南越・広東を討つために渠をうがって軍糧を運んだと。
史記・平準書に武帝の運河整備事業。
後漢に、生産力中心が、関中(長城の南で、黄河中流の北域)から関東(黄河下流の北域)に移る。
隋直前に生産力中心が揚子江(江南地方)に移る。それまでは中原地方、つまり黄河。
荷物で重くなった船の遡航はむずかしかった。とくに10~3月の黄河の減水期は、支渠すべて航行停止した。
徴兵制が傭兵制にかわった唐末、漕運需要が著増。
長安はその大消費を大運河一本でまかなっていた。
元は金と戦って征服した河南、山東の税糧を水路で通州にあつめた。南宋を後略するときも、各地の短い水道をフル活用。
元じしんによる運河工事は、泥堆積のためことごとく失敗。遂に海上へ物流路を求めた。
元代に造船技術も向上。
南宋滅亡直後、大都へのコメ輸送は馬車で。礼器と図書は海船で。
元代の海船は、2~3航海にしか堪えなかった(p.82)。
淅江~北京の間で遭難すると、沖縄方面ではなく、朝鮮に漂着した(p.97)。
※昔の呉の沿岸で遭難した船は海流の力で半島南端の西海岸(つまり百済地方)または出雲地方に漂着する。日本人は百済まで赴けば南シナの技術情報を簡単に蒐集できた。
明代は元への反動で海禁政策。しかし太祖が元を北方へ駆逐するときに士卒へ軍餉を輸送させたのは海船であった。
明代の船は、河海両用の北運船。
豊臣氏の朝鮮出兵に対しては、海運で糧食補給。登州から旅順口まで、順風帆走2日であった。
運軍からの逃亡者が捕らえられると、面上に“逃丁”と刺青された。
日清戦争中、日本は海運の安全を保証した。
▼馬場鍬太郎『支那水運論』S11年
北方では、ラバ、ウマ、ロバが駄載用、ラバ、ウマが牽引用。
南方では、ラバ、ウマが駄載になっているが、牽引獣はない。南方では人力が商品交通の主要素で、舟がそれに次ぐ。
マックスウェーバーは西洋は森林文化で東洋は治水文化だと言った。
長江は山峡の難あり、また季節の増減水が大きいが、価値は絶大。
清代の洪秀全も用兵上、大運河を利用して長江に出て金陵に拠った。
1872に汽船会社が海運サービス始めると河路は淤塞した。
水路利用が徹底していたため、鉄道化は遅れた。
1トンの貨物車を曳くのに北方では7~8頭要る。それで20哩/日。
欧州では、運搬用に河川に注目したのが15世紀で、改良工事は17世紀から。
河口付近は泥が厚く、大船は進入できない。19世紀。
長江へは、周年2000トンの船が入る。夏の増水季は1万トンOK。
揚子江は、ふつう屏山県が民間船の遡航の終点。しかし小舟は叙州上流60哩、蛮夷司まで可能。そのあいだは急流。
重慶~宜昌の遡航は、汽船のないころは30~40日がかり。冬期も不凍。
南満河川は小艇のみ可。北満は黒竜江系により大船可。
全満水路は年200日しか航行できぬ。
松河江支系はイカダのみ可。
満州の降雨は、朝鮮国境で最大(p.312)。
▼国分直一『東シナ海の道』
安藤広太郎によれば、江南海岸から北九州に向かう航海は、他の経路にくらべて危険度は小さい。
国分反論。明時代のシナ人ですら沿岸航法をとっていた。遣唐使船は南路でほとんど遭難している。※その後、シナ皇帝の謁見の季節が決まっていたこと、そこから逆算すると滞在費が乏しい関係で、日本人は季節がよくないのを承知で出港するしかなかったという説明が誰かからあった。シーズンを選ぶ自由があれば、あれほど遭難はしないと。
殷代、黄河に水牛あり。
南西諸島は先史稲作の導入経路とならず。
殷代に稲作あり。呉越戦争で呉を亡ぼした越王が海上から山東に入ろうとする。そのとき、漁労民が脱出したのが弥生文化だと岡正雄説。
保存蓄積できぬ芋の文化は文明に発展しない。
漢魏の頃の稲作北限は、山東南部から蘇北(p.62)。
『後漢書』「鮮卑伝」。酒泉をふたたび寇したとき、秦水というところで軍糧の穀物と獣肉を土地から得られずに困った。魚だけはたくさんいたが、漁師がいない。そこで、倭人は「網捕」を善くすると聞いたので、倭人国を撃って、千余家を得、秦水上に移住させた。おかげで糧食は助かった。
三国時代、呉は夷州なる海外の島を討伐した。台湾か?
▼高瀬重雄『日本海文化の形成』
1年のうちかなりの期間、北西風。リマン海流が日本海を還流する。
Pacific-sea を漢訳して「寧海」。
渤海:もともと遼東~山東の両半島に挟まれた黄海の一部を云う。
北九州一帯の気候は、山陰に似、曇天・雨・雪の日が多い。
安倍比羅夫の蝦夷鎮定にあたって、越(日本海側諸国)は、大和朝廷が陸奥へ向かうための前進基地。兵糧を送るための舟を造り、また捕虜収容所も置いた。古代末期、津軽十三湊←→越の舟運が。
「せんたい」という袋を古代の日本兵は担いだ。食糧を入れた。他に、支給の公糧がある(p.59)。
高句麗を建てたツングースは、南満州「とうか」江流域に猟牧す。はじめ都を鴨緑江の中流に置いたが、413年に大洞江畔の平城に移す。
唐会要。玄宗は渤海本国を討とうとしたが大雪と山路険阻のため失敗。
安禄山の反乱の情報は発生後3年で朝廷に達した。
▼『春秋左氏伝』鎌田正氏解説
疑わずんば(確信があるのに)何ぞ卜せん。
魯と斉の戦で多数の兵車が用いられた。
偏戦とは約束して決戦すること。詐戦とは約束を破っての奇襲作戦。
普と楚の戦では普は各3人のりの兵車700乗を投入。城撲にて。
それ文に止戈[しか]を武と為す。
学びて後に政に入る(役人になる)を聞く。未だ政を以て学ぶ者を聞かざるなり。
▼『タキトゥス』国原吉之助 tr.
計算書は、ただ一人に検査されて、はじめて都合よくいく(p.10)。。
ローマ歩兵の担ぐ荷は重かった。そして老兵すらこき使われた。
総督は反乱を圧するために剣闘士を養い、武装させている。
盗癖のある奴隷から財物を守るため、食物や酒瓶にも封印し押印した。
ゲルマニア人は木製楯。大半は先を焼いた棒の槍のみ(p.47)。
「自分の功績は、自分が認めているだけで、充分だ」
北海では天候は激変する。しかし岩礁はなく、砂濱である。
ローマ人は双子を慶事とした。
鉄のヨロイを着た敵に対してはローマ兵は斧や鶴嘴を使用。
アウグストゥスは軍事統治の実相を隠すため首都衛戍軍を天幕キャンプに分散させていた。
阿諛は遅れるほど仰山だ(p.111)。
ローマの外征将軍は、自分の戦績が凱旋憲章に充分とみとめると、それ以上の作戦はやめた。
解説。平時ローマにおける元首と市民自由の関係の調和を考査した。
タキトゥスが記録した事件の子孫はリアルタイムで存命していた。悪い行いの記録も、栄ある美徳の顕彰も、すべてそのまま現世人への風刺、風諫である。
トラキアの2~3の部族は山頂に定住し、近隣の部族と以外、絶対に戦わない(p.127)。
尊敬されるのは文体に払った苦心よりも、文体のもつ気迫である。
投身自殺は見苦しいとされた。
ローマ人は官職を徳の報酬と考えた。年齢下限はなかった。
かつてイタリアは食糧輸出国だったのに、アフリカやエジプトから輸入するようになったのは、土地が痩せたからではない。
クラウディウスは兵の忠誠を買うために賄賂を使った最初の元首。
市民に自由の印象を与えるために、公広場の警備兵を隠す(p.230)。
ネロ 「いっそ間接税を全廃しては」
元老院「そうすると直接税も廃止しなければならない」
モセテ河とアラルを運河でつなぎ、海→ローヌ→アラル→運河→モセラ→ライン→北海と舟運可能に。
その昔、劇場は立ち見だけだった(p.252)。
AD59-60のアルタクサタ=ディグラーノケルタ300マイル(標高1500m級)の孤軍行軍は快挙。
ローマ兵は穀食し、肉を有害と考えていた。※嘘。肉も食っていた。
モナ島攻撃用に平底船をつくる。騎兵は馬にすがって泳ぎ渡る。※ナポレオンはこれをヒントにブリテン島を攻略せんとしたのだろう。
オクターウィアの下女のうち大部分は拷問をうけても女主人をかばった。
堕胎は未だ罪ではなかった。
パルティア人は槍の投射加速具で戦う。
「一般にわれわれは、人の怒りを買おうとしてよりも、人に恩を売ろうとして、いっそう多くの罪を犯すのである」(p.278)。
進撃、退却はラッパの合図によった。
「じっさい、民衆というものはいつも政変を待ち望みながら、しかもそれを恐れているのだ」(p.288)。
自由市民への拷問は違法。
当時の竪琴弾きの作法と聴衆の作法(p.303)。
ネロは亡命先としてエジプトかパルティアを考える。
アグリコラは百姓の意味。
ブリテン島のカレドニアにはゲルマン種、南方にはヒスパニック、ガリア対岸にはガリア人種が住んでいる。
気候は鬱陶しいが、寒さは厳しくない。南方系植物は生えないが土地は肥えている。
ブリタニア人は、服従するために支配されるが、奴隷となるまではおちぶれない(p.330)。
castraは常設陣営。castellaは要塞。ともに重要道路に沿う。
「つまり、誰もが、はなばなしい成果なら、これを自分の手柄として吹聴し、みじめな運命なら、これを一人のせいにしてしまう……」(pp.338-9)。
在英ケルト民族は1m以上の刃の鈍い大剣を持つ。騎戦用で、歩戦用に向かない。
▼『プルタルコス』
テセウス。合図の白い帆をあげるのを忘れたので絶望して自殺したという話の初出。
ソロン。「風によって海は波立つが、動かすものさえなければ、海ほど平穏なものはない」※日本近海との相違。
ソロンを容れたペイシストラトスは、戦争で負傷した者は国費で養われることにした。
アルキビアデス。新月の夜に月明かりで犯人の顔をみることができようか、という推理探偵プロットの初出。
デモステネス。ラオメドンなる男、脾臓の病気を防ぐため長距離走を始め、ついに最優秀ランナーになりました、とさ。
アレクサンドロス。彼はイリアスを戦術資料として読んだ。アリストテレスが校訂したもの。
総司令官のことをヘゲモーンという。
自噴油井への言及(p.197)。
インドに入る前、多すぎる戦利品の山を焼いた。
理性ある人の間では、水や必要な食物のためにだけ止むなく戦争が行われる(p.208)。
戦象は今と同じように訓練を受けていた。
ガンジス下りは筏の他にガレー船使用。
酒飲み競争をして42人が死んだ話。
クレオメネスは、重装歩兵の投槍を両手鉾に、把手盾を革紐で支える盾に替えさせた。
ロムルス。さらに今日に至るまで花嫁は決して自分から寝室の中に進み入ることなく、抱き上げられて運び入れられるという風習が続いているのは、あの時も力づくで連れてこられたのであって自分で入ったのではないからである。
凱旋の起源(p.264)。
ロムルスが、アルゴス式円盾を、サビニ式楕円大盾に代えさせた。
母親による子供の毒殺(p.269)。。
支配とレジティマシーに関する初の言及。「それが維持されるのは、正当なことに固執するから」。
「植木と同様に手入れと人目につく場所が必要」(p.280)。
カトーは自分に厳しかったが、使用人や役畜にも甘くなかった。
カトーはマニリウスを、昼間に娘の見ている前で妻を抱擁したとの廉で除名した。
ローマ人はギリシャ風を知るまでは裸を恥じていた。
サピエンスには賢人と慎重な人の両意あり。
ローマ軍は火矢も使用(p.336)。
メラス川は流れを舟で通えるものとして、ギリシャ唯一。
BC5のスパルタ王の言葉。戦争に必要な富というものは際限がない。
ローマ人は突き癖のある牛の角にまぐさを巻いて通行人の注意を促す(p.351)。※ここから、火牛計の場合は角で火を燃やすのが自然だったのであり、尾で燃やしたとするシナの文典は泰西情報を加工した作り話であることをほぼ推断できる。泰西からシナまで話が伝わる時間は現代人の想像以上に短かかったと知るべし。
逃亡兵への古い懲罰。真っ先に逃げはしった集団を十人づつの組に分け、それぞれから籤に当たった一人づつを、衆目前にて処刑。
クラッススはブルンジウムから冬の強風を冒して出帆したが、果たして多くの船を失った。
パルティアの振り向きざま弓射はスキタイ人に次ぐ。また、駱駝に矢を山積して射まくり、ローマ歩兵部隊を全滅させた。風上に砂を盛り上げ、風に乗せて目潰しとした。
「ローマの国家がこれほどの勢力に発展したのも幸運によるのではなく、危険に立ち向かう人々の忍耐や勇気によるのである」(p.364)。
ポンペイウスの騎兵に対し、カエサル側歩兵は、投槍を投げずに顔をめがけて突くように命ぜられた。
カエサルはepilepcyを患っていた。手紙を用いてローマ市と連絡しあうようにし始めたのは彼。
ローマ市民の武器でガリアの財産を得、それをローマ市民に分配して、政治力を得ようとした(p.426)。
ポンペイウスは海から補給を受けつつ戦い、カエサルはそれができなかった。
槍は元来は足を打つもの(p.440)。
護衛をつけず、人々の行為にこそ守られようとした。※マックが真似。
「予期しない死」が最良であると。
クレオパトラの魅力は美自体ではなかったこと。
潜水夫に、釣り針に魚をかけさせる(p.498)。
パルティア相手の戦闘では、山を右手に逃げよ、との勧告(p.503)。
ローマ軍は鉛丸を使用。