摘録とコメント

▼岩村忍『文明の経済構造』
 考古学者ゴードン・チャイルドや社会学者カール・ウィットフォーゲルは、テクノロジカルな水利工事を都市や文明の原因とした。
 岩村反論。デルタに人が移動する前の丘陵生活でも水利技術は存在したと。
 食糧革命から都市成立までは7千年かかった。
 ナイルと違い、岩盤のチグリス=エウフラテスは一貫した舟航はできない。
 メソポタミアは建材や香辛料を周辺山岳と南アジアに求めた。
 成立段階でエジプトはメソポタミアから刺激を受けた。象形文字はシュメルの影響だ。
 エジプトが必要とした青銅原料は、小アジア、カフカズ、イランに遠く求めねばならなかった。
 前1500頃、鉄器化と馬馴化が同時におこる。北方蛮族はメソポタミアからこれを学び強大化す。
 ヒッタイトはアナトリア人。鉄を産し、輸出した。
 優良な鉄鉱石が黒海、インド、セレス(支那)からギリシアに輸入された。
 アリストテレス『オイコノミカ』は前3世紀のペルシャ経済を分析。
 ギリシャ植民市は本国の干渉を受けなかったがローマ帝国はそうでない。と、アダム・スミス『国富論』。
 カラバンとモンスーン利用の舟により、ローマの商品はインド、シナまで達す。
 ローマは敵のペルシャの中継ぎで極東から絹繊維を輸入した。
 明末から清初にかけ、カソリック宣教師がルネサンス後の欧州文化をシナに持ち込んだが、需要者がヴェブレンいうところのレジャー・クラスだったのと、貧農→都市労務者のあり余る資源のため、医・農学ふくむ実用技術は顧みられず、天文学と数学が尊重された。日本はその逆をよろこんだ(pp.38-9)。
 ローマの手工業は属州に、農地は辺境開墾地へと遷移。空洞化が生じていた。
 3世紀のディオクレティアヌス帝は財政再建のため、貨幣納税を廃し、穀物に代える。市場なくなり、交易途絶え、輸入物は高価な奢侈品のみに。
 遊牧蓄の価:駱駝>馬>羊≒山羊。
 牛は多量の水を要するので遊牧に不適なのだ。
 蹄鉄をつけたパルティア騎兵は550kmを2日で走破。ローマ時代のステップで。
 ウェーバーいらい多くの学者は、封建制とは広域経済圏の崩壊に伴う現象だという。
 イスラムが海上冒険できるようになったのは7世紀半ばいこう。ウマイヤ朝が艦隊をつくってビザンチンを攻撃した。9世紀にバイキングは地中海に達した。『後漢書』によれば166に東ローマの使節が入貢。※ということはトルコもいずれはシナ領土というわけだ。
 モンスーン航船は600人乗れた(p.85)。
 アラブとシナの最初の接触は8世紀中。
 唐末に広州等が黄巣の叛徒により破壊されるまで、サラセン商人は広、杭、揚、泉の各州海岸に居留地を維持していた。
 宋代にシナが安定すると再びアラブ人が訪れた。
 宋代は史上かつてない都市発達時代。世界最初の紙幣も。
 宋船は小型で、日本や朝鮮との貿易限定だった。
 羅城は外郭を城壁に囲まれた都市内部。
 宋代、野合して散じ易いものを瓦といふ。転じて演劇の意味となる。徳川時代にそれを日本読みして河原の字をあてたのが、かわらもののはじまり。京都の四条河原とは何の関係もない(p.123)。
 バルト=北海=近東をつないでいたキエフ公国のノヴゴロド市は、モンゴルに対する防備のため商業活動が中断し、ロシアとヨーロッパは13世紀に切り離された。
 インダスとメソポタミアはインド人の出す船で交流していた(p.143)。
 このインド文明は前1500にアーリア人が侵入して亡びた。このとき少数支配のためカーストを生ず。
 以後インドは前500のシャカの時代まで歴史的に空白である。
 643にイスラムがパキスタン海岸に到着した。
 9世紀はじめにアラブがアフガンを征服した。
 16世紀にムガル王朝により全インドがイスラム化した。
 エジプトの都市化の発生と進展は相当遅かった。著者いわく、都市と文明は関係ないのだ。
 メソアメリカ(今のペルー)の前800のオルメック遺跡に都市の影はない。
 古代ギリシャのストア派以後の西洋のモラリストの主張は、性格、知能、肉体の相違を問わず、人間は等価とする。エガリテリアニズム。
▼日本歴史地理学界 ed.『日本海上史論』明治14年pub.
 足利時代、対馬人が朝鮮の港で戦闘したことあり、そのけっか釜山以外は閉ざされた。
 日本では西船東馬だ。
 呉は水上は得意なので、赤壁に曹操を破る。
 清和天皇の貞観21年、新羅の海賊船×2が豊前~大宰府の租税船を劫める。大宰府の官兵はおじけづいて追いつかず。蝦夷人に命じて討たせる。
 足利氏のとき、麗倭といって60戸に限り朝鮮の沿岸に移民が認められた(p.231)。
 江戸期には、奥羽を出帆し、下総の銚子口から利根川を溯り、関宿から江戸川を下って府内に。
 初期の台場はすべて波打ち際(低地)に置かれ、山上ではなかった。また、砲台と連携する軍艦を置かなかった。※照準器にロクなものがなかったため、水平直射以外は命中を期待できない。
 元寇のとき、河野通有が敵艦に小さな和船を漕ぎ付け、帆柱を倒して敵船に乗り移り、敵将を殺し、武器を奪った。この話が500年間の日本武士の海防戦の理想となってしまった。鼓吹したのが頼山陽の蒙古来の詩。彼が日本防衛を非科学的なものにした(p.355 & pp.360-1)。
 肥前唐津湾で島原乱後、外国武装商船を焼き打ちしたことあり。佐藤深淵は科学的な国防を構想した(pp.364-5)。
 品川台場建設のとき、木戸孝允は人夫に化けて江川太郎左衛門を観察。
 佐久間象山は江川の台場を無益と論じた。
 品川造船所や石川島、横須賀造船等の最初の職工の大部分は、戸田で江川が露船を造ったときの実習者(p.388)。
 カノン砲は鋼鉄製と決まっていた(p.391)?
 韮山→滝野川→関口水道町→小石川水戸屋敷跡……と移ったのが、陸軍砲兵工廠。
 演練のことを調練という。大調練は観兵式。号令は江川がオランダ語から日本語に直した。剣を刀としなかったのは、号令にしたときの響きが悪いから(p.399)。
 『築城典型』は蘭書の訳だが、日本で始めて亜鉛活字を用いた。
 下関砲台も低地水平射ち式で、口径5寸ほどの「長加砲」。24ポンド砲。有効射程20町。
 神武東征は紀伊半島沿いに太平洋を北上。宮川上流に上陸か。南朝の吉野は山中のようではあるが、谷が四方に通じていた(p.466)。
 海軍水路部は、航海に必要な浅海情報だけを収集していた。
▼ジャン・ルージェ『古代の船と航海』
 ギリシャ人は海が好きだったのではなく、やむをえず航海者だっただけだ。
 陸路と海路の危険は等しかった。海賊はローマ帝国前期で消えたが山賊は常にあり。
 東地中海では7月10日~8月25日に北風のため、北部アフリカからイタリアには渡れなかった。ローマ全期を通じて。
 カエサルの兵は渡河のときは革袋を用いた。
 ヘロドトスによればエジプトには大形板のとれる木がないので、アカシアを使った。稀に、エジプト・イチジク。
 エジプト船は骨組みは弱い。寄せ板構造のため。船底には荷物を載せない。しかし航海の際はバラストが絶対に必要だった。※バラ荷があり得ない。高付加価値の文物だけ長距離運ばれる。
 アテネは制海権をもっていた頃、造船用森林がない。マケドニア、トラキアから桧、杉をもってきた。
 樫は地中海では軍船の竜骨材となる。
 古代、船客は食糧を持参し、水については船の設備を頼んだ。
 樽はガリア起源で、ローマ初期まではアンフォラに流動荷を入れた(p.79)。
 エジプト~ローマまで、船の接岸は船首でのみ行なう。
 古典的な三段櫂軍船は、全力衝突の後、後方に漕ぎ、あけた穴から浸水させる。
 epibates(海の歩兵)は、少数のみ前方上部構造に載せた。
 epopides(敵船の櫂を薙ぎ折るための船首衝角補助棒)はペロポネソス戦争期に完成。ヘッドオンですれちがいざま破壊す。
 三段櫂船には、沖合い荒天航行力なし。好天時のエーゲ=エジプト間のみ。
 ペルシャ艦隊の中核は、より多数の海兵隊員を乗せたフェニキア三段櫂船。
 前4世紀末、ヘレニズム時代の諸王国は、巨大船を発明し、アウグストスがローマ艦隊をつくるまで地中海を支配。
 カルタゴは人的資源少なく、ローマと比べ、訓練されたクルーの補充ができなかった。 ローマが実施した最大の海上作戦は前214~3のシラクサイ封鎖。
 ローマは常備艦隊の維持に気乗り薄で、海洋同盟国の駆使を選好。
 256~282、人員不足のため、ローマ艦隊は半減した。
 古代エジプトでは、紅海の航行は異例のものとみなされていた。
 カルタゴは亡ぼされる前、ジブラルタルを封鎖。大西洋航海独占を企図。
 ロードス島は小麦と葡萄酒の地中海貿易(といってもローマが消費のために一方的に輸入する)センターとなる。
▼ジョン・ランドン・デーヴィス『冬季に於ける機械化作戦』大江専一 tr. S19年
 著者は英人。
 ソ連は対フィンランドにウクライナ人を投入した。
 森林に道路を啓開し、そこに湖水をポンプで流すと氷道ができる。冬の道路。
 ソ軍は兵も車両も白色迷彩せず、夏のママ。
 1939-10~11月の日付のみられる『ソ連スキー戦闘操典』が多数散乱していた。
 スキー戦闘は必ずスキーを脱いで行なう。フィンランドのスキーに踵を止める金具なし(pp.31-2)。
 スキー着用中の吊れ銃は、体前の胃の辺に斜に吊るのがよい。※PPShにやはりスオミの影響?
 ソ連にはアキオがなかったようだ。重機を2枚スキーに積んでいる。
 ソはウズベク、カルムクス、東洋人も投入(p.81)。
 ソの戦法。バラージ2h+数分間空爆(この前後30分、砲撃休み)+歩兵突撃(同時にAir support)
 T・A・ビッソン「日本経済瞥見」というロシア語訳論文も散乱していた。
 ハートの1937本を引用し、ソの密集好きを難ず。
 スウェーデンも対フィン武器援助していた。
▼外務省調査部第三課『辺疆問題調査第一号』S10年
 海岸に「ソヴィエト」地区をつくらないよう指導している。攻撃に弱いから。
  ※だから北サハリンに亡命政権をつくるのが最善だったのだ。
▼B・Tuchman『愚行の世界史』大社淑子 tr. 1987、原1984
 被征服民族に対するアッシリアの政策は、追放。
 コルテスは上陸するや、自分の船を焼いて退路を断った。
 ムーア人のスペイン征服も、スペイン内戦の敗者が外国に助けを求めたことが発端。
 ソロンは理想の法律をつくったあと、10年間の船旅に出た。
 カトリックは百以上の聖人の日を守ったがユグノーは日曜しか休まなかった。
 愚行は、その後も同じやり方を固執するところにある(p.25)。
 ラオコーンの話はホメロス後1世紀ごろの創作挿入。
 チャイナ・ロビーが猖獗を極めたのは1950~60’s (p.274)。
 中共は上陸戦により蒋軍守備の海南島を占領した。
 熱烈プロテスタント党のダレスは宗教ゆえに蒋と李を支持した(p.281)。
 ACデイヴィス海軍中将はインドシナ介入について「ひとたび戦争に突入したら、安上がりな戦争の仕方というものはないと理解してもらわなければならない」(p.282)。
 ダレスとアイクはマッカーシーを恐れていた。
 脚注、ラドフォードは対支予防攻撃思想を抱いていた(p.291)。
 リッヂウェイは現ファンダメンタルズの非近代性から朝鮮への地上軍投入には反対だった。
 レトリックから教義へ(p.293)。※→無策か究極かの大量報復戦略。
 ケネディは1965に再選されたら、撤兵させる気だった?
 ※ジャングルの百姓村は盲爆しても構わないが敵の都市民は爆撃できないとする奇妙な価値観に米国人はとらわれていた。これは戦中のシナとコミンテルンの宣伝が利いていた。じっさい、長崎後も、核兵器はアジア人に対してのみ使おうとされた。インドシナでは敵の独裁指導部が存在する都市だけ爆撃すべきであった。この咀嚼された戦訓がイラクで実験された。
 バーク「政治における雅量が真の英知となることはまれではない。偉大な帝国と狭量な心は調和しないものだ」
 ※「過度の野心」とはトートロジーではないのか。
▼フィリップ・ナイトリー『戦争報道の内幕』
 英では1870の教育法のおかげで1880→1900に新聞数が2倍。Daily News は普仏戦中に発行部数が三倍に。
 クリミアとボーアの間のすべての戦争は英国に関係なく、そこでの大胆な特派員記者は人気者。
 普仏役の初期までは速達郵便記事。電信採用されるや、記事のスタイルまでが電信文と類似に。
 日露役で完全報道検閲時代に。
 The Times のライオネル・ジェームズに無線機つきの船で日露戦を取材させるかわりに、日本情報将校が乗り込み、その船と設備を借用した。
 英ではWWⅠ時に国土防衛法。検閲制度が創設され、新聞は御用化した。
 WWⅠ前まで英軍人の仮想敵は仏(p.42)。
 英では宣伝関係のあらゆる書類が役後、破棄される(p.42)。※ウォーターゲートのヤバイ証拠を大統領が始末させ得なかった米政体との顕著かつ根本的な差。英国おそるべし。
 WWⅠ中の仏新聞は情緒的英雄譚でページを埋め、Newsのひとかけらも報道されなかった。タンネンベルクのロシア敗退は英でも戦後まで伏せられた(p.49)。
 チャーチルはアスキス首相にThe Timesの官房化を提案した。
 WWⅠ中は兵が前線で撮影すると銃殺だった(p.56)。
 英は最初の数ヵ月で、過去数百年のすべての戦争を合計したより多くの士官を失った。総戦死者ではWWIIの3倍である(英軍)。
 ジョージ・オーウェルはスペインでスターリンが独立左派を主敵と見ていたことに気付く。→“1984”へ。
 1939-4の英平時徴兵制が女も対象としたのは文明国では史上初(p.168)。
 1940-6~8月、6千人以上の裕福な家の子供たちがイギリスを脱出した。
 1941の英で本の検閲は新聞ほど厳しからず。
 WWII中、独ソ戦はソ国内でもまったく報道なし(p.199)。
 独軍は1コiDあたり1500台の馬車と600台の自動車を有す。英米iDは3000両のトラックあり。
 ベトナムは検閲なかったが、それが却って将軍に詳細を語らせないことに。
 朝鮮戦争初頭にも検閲まったく無し。
 が、マックは朝鮮戦争中、17名の特派員を日本から追放。
 イギリス部隊の方がモラル強かった。
 危険な感じはテレビでは決して伝わらない。
 ワシントンには調査報道基金・FIJがある。1000ドルくらい助けてくれる。