摘録とコメント。

▼B.ヴォーチェー大佐『ドウーエ将軍の戦争学説』S14年
 著者は仏人。この冊子は『航空記事』5月号附録。
 ペタン元帥の1934-6-7序文付き。※伊の仮想敵は仏。
 空襲は、短期決定的でなければ、敵人民はけっきょく堪えてしまう。※そのような空襲は核攻撃しかないことがイラクで証明された。
 ドウーエは空軍を他の2軍から独立させ、政府直轄の総予備にしようとした(p.52)。※これをチャーチルがエアコマンドで初実現し、それをFDRがイタダいた。
 当時「戦闘機」とは全周火力を有するもので、前方火力のみのものは「駆逐機」(パースーター)と呼んだ。ドウエは前者を推した。※これが数々の双発複座戦闘機を生む。
 空襲では、物心両面に於いて最も敵に苦痛を与える機関を狙え。それが文明的戦争である。またその手段としては毒ガス空襲が結果として人道的である(p.93)。
 ドウエは、破壊第一、屈服第二の主義。「占領は結果にして原因にあらざるなり」(p.108)。
 空中戦力はいざというときまでとっておく切り札ではなく、開戦時に投出すべきもの。
▼末永雅雄『武器史概説』S46年
 ※文献案内が整った一冊。
 鎗の初見は1331(元弘3)の戦闘記事「南部文書」。
 刀剣について。「把の長さが両手の把握に適するようにつくったなどは、剣道による変化と考えられるのであって、中世の初めにはまだ片手把握を普通としているものが多い」(p.16)。
 廻り鉢。上半球が力を受けると回転するようになっている(pp.120-1)。
▼G.チャイルド『歴史のあけぼの』
 第三王朝の終わり、エジプト帆船は170フィートに。
 インダス川流域文明も、小降雨地帯にあり。
 インダス川とその諸支流は、大きな都市人口を養うための食糧を広い地域から集める輸送網になった。西と北は大山脈で、東は大インド沙漠で外敵から間合いがとれた。面積はシュメルの4倍。インダスにロバと駱駝は無い。
 ペルシャ湾からラガシュの農民に、またアラビア海からモヘンジョダロの農民に、海産魚が供給される。石器時代にはなかったこと(p.146)。
 青銅時代では、あまりかさばらない贅沢品しか遠距離に陸上輸送し得ない。
 東地中海文明ではバラ荷は瓶や俵に封印して輸出。
 ハムラビは、ロバに曳かせるソリッドタイヤ戦車に代え、輻つきの軽快な馬曳戦車を用いた。
 エジプトがヒクソスを追い払うためにも馬に曳かせる新式軽戦車を採用せねばならなかった。これがナイルにおける車両の初め(p.174)。
 ※便利なものは、これをフルに利用しないとき、他人が自分を亡ぼす手段になる。
 小アジア高原では、農業用泉が分散していたので都市集中が起こらなかった。
 フェニキア人は、船を漕いでナイル川に8日で到着し、帰路は、風向きが良ければ4日で済んだ。平底船でちょくせつ河岸住民に小間物を売った(p.185)。
 シリアのステップの隊商は、1日30マイルで旅行を続けた。ユーフラテス河岸から東へ360kmいくのに19世紀の記録で10日かけている。
 アッシリア、エジプト、ヒッタイトの中期の安定は、戦車によって官吏や地方行政官が早く旅行できたから(p.198)。
 軽戦車の改良の早さに比べて金属利器の進化は遅い。
 アッシリアは敵住民の皮をはぎ、クイで刺し殺し、運河をうずめたと記録される(p.214)。
 ダリウス~クセルクセスはインドの戦車隊も徴募。新領土の治安維持の組織をつくった。
 航海は不安定なので、陸路の移民よりも文化は混合する。北アフリカの殖民市は、メソポタミアの殖民市ほどには母国フェニキアに似てない。カルタゴが共和国だったとき、フェニキアは中央集権だ。
 前450のアテネは、主食を輸入依存するようになった最初の政体(p.225)。
 ヘレニズム期にロードス島からアレクサンドリアまでの海路4日は縮まらず。
 西アジアでは毎年、ごく短い間だけ雨で隊商路が泥沼化する。北イタリアではローマ道を離れれば周年泥沼。しかしローマ道上では、1台の馬車が1隻のハシケ相当の荷物を運ぶことができた。
 道路が悪いと輸送コストのため非ぜいたく品の工業製品(ex.陶器)の輸出は伸びぬ。すると職人じたいが移出する。そして現地で他の商品のコスト攻勢からよく守られて、独自文化が育つ。
 ローマ道が、イタリアをフランス製品の市場にしてくれた。
 AD25頃、ローマの工業技術は属州に拡散し、属州間貿易がとだえ、自給に戻る。※奴隷制の上で輸出努力しないため各地域の購買力が衰えた。
▼G.チャイルド『文明の起源』下巻
 帆かけ船は前3500までナイルに現れず。
 三角洲の西からはリビア人、東からはベドウィンが攻めた。
 BC1500直後、学者たちはエジプト、小アジア、シリア、メソポタミアの首都の間を自由に旅行していた。
▼徳田釼一『増補 中世における水運の発達』
 交通地理は、表・裏を通じて西日本が恵まれていた。海岸線の凸凹により。
 上代の貢物は初め陸路運送だった。延喜式をみると、大宰府、遠江、因幡からの海路運送あり。
 主要2ルート。西海→瀬戸内→淀川。北陸→敦賀津→陸路→水路→大津。いずれも官船が用いられる。
 荘園が強力になると、官用の船・車・人馬が地方で勝手に使われ、律令制は崩壊。
 律令では港湾は1区に1港が原則。荘園は港のある海辺を獲得しようとした。
 伊勢神宮が大湊を領有したのも、東国に散在する神宮御厨から海路輸送される年貢を収納するため。
 「梶取」は南北朝より「船頭」に変わった。船頭はシナ貿易船の船長の意で、鎌倉時代までは九州に来る宋商人を呼んだ(p.95)。
 若狭湾の小浜。応永年間に南蛮船が2回来た。朝鮮貿易の拠点。
 中世末期に帆の大小で船の格を表現することが一般化。室町時代に兵庫と大湊に造船所。
 港湾使用の関税が生じた。港を持つ荘園は潤った。
 鎌倉幕府は繰り返し関所廃止令を出した。
 淀川には享徳2年には180もの関があった。のちに616に増えた。
 土一揆は関を焼き討ちすることが多かった。商人の脱税を後押しした大名は強くなった。
 貞治、出雲に着岸した蒙古・高麗の使者が、その献物を海賊に奪われた(p.249)。
 朝鮮からの渡来船は、応仁より後、瀬戸内海の海賊を避け、若狭に。
 毛利、上杉、今川、信長は次々と課税を強制廃止。海賊鎮定作戦もこの延長で、信長から秀吉に引き継がれた。
 朝鮮征伐で水運業界は完全統制下に大発達した(pp.287-8)。
 中世、琵琶湖でさえも、漂没多し。
 山賊は、律令末期から増え、鎌倉初期に一時屏息。しかし鎌倉中期以降、激増。
 戦国諸侯は交通業者への課税を免除して富国強兵策とした。航海業者は富力を蓄積し、道路は改修された。
 淀川遡行は綱引人による。
 応仁の乱のとき西軍方の大内氏は、東軍の瀬戸内での待ち伏せを避け、西国の糧秣を日本海ルートで敦賀に。
 美保関には明船も来着。
 室町時代に船が準構造船から構造船に進化した。
 倭寇は福建から外国船を買い、それをコピーして底を尖らした船を造り、航洋性・凌波性を獲得。
 李朝の文によれば唐船も倭船も藁草を織って帆としていたが、それが麻や綿帆になった。
▼加茂儀一『騎行・車行の歴史』
 牛は重連しにくい。
 記録に残る最古の馬の調教所は前1500のオリエント。日本では「責め馬」という。
 駱駝はブーラン(砂嵐)を予期したとき以外は走らない。だから御具は発達せず。
 ギリシャ人がケンタウロスとみなした小アジア人は、地中海文明にさきがけて前2000頃に乗馬機動。
 馬具も馬術も未熟な古代には乗馬のままの接戦は避けられた。可能になったのが、中世騎士。
 ヒッタイト(旧約のヘテ人)は青銅斧と戦車。戦車は前1900から使われた。
 車の材料たる杉はメソポタミアの北のミタニにしかない。エジプトすらそこから戦車を得ていた。ヒッタイトがそこを占領。その後、ソリッドタイヤがスポークタイヤになる。車輪そのものは前3500から。
 前1500のアッシリア、ペルシャ、エジプト、インド、殷の大帝国は、戦車によって可能だった(p.27)。
 ヒクソスの南侵は気候乾燥のため。この傾向は続き、エジプトでは馬が使えなくなり、駱駝とロバに替わった。
 アッシリア人はヒッタイトから馬具を知り、改良し、秣の代りに穀物をあてがい、完成された初の騎兵に。ペルシャ人はモンゴル馬との交配で馬体を向上させた。
 ペルシャ騎兵の末裔がパルチア騎兵で、ローマとも漢とも接触した。
 インダス文明は牛車と象。征服アーリアンは騎馬と戦車だった。
 クセノフォンの時代の騎兵突撃は、後世のドラグーンのピストルを投槍にしたようなもの。スピードはギャロップだとUターンできないので常にキャンター(緩駆)。
 アレクサンダー軍の馬は湿潤熱暑のインドで蹄裂傷を起し、侵攻頓挫。
 西アジアではその病気はありえない。
 イタリア半島も乾燥地だがアルプス以北は湿潤のため蹄が軟化してしまう。ローマ舗装道だと著しく磨り減る。そこで鉄板製のヒッポサンダルを縛り付けた。
 ローマ末期に蹄鉄が実用化なり、周年遠征が可能になる。
 ローマ帝政は胸帯による輓曳法も発明した。これで作戦距離が伸びた。
 十字軍は乗馬がアラブ馬に著しく劣った。またトルコ兵の遠矢が馬を傷つけ、現地で馬を調達した。
 イングランドの大弓も三角断面のヤジリで鎖帷子を貫通する。埜は3フィート。
 この強弓対策として鈑金甲冑が14~15世紀に発達するが、接射で90度ならば貫かれた。また馬も装甲せねばならず、機動力の優位が減じた。
 14世紀末からの火器導入でヨーロッパの騎兵時代は終わり。イタリア小国家のみで生き残る。
 ドラグーン戦法。敵前15ヤードまで速歩で来て、停止。前列が2梃のピストルを順次射つ。第二列が同じことをする間に後退。
 クロムウェルは、ピストル斉射の後、速歩で白兵接戦にもちこんだ。
 17世紀の道路の悪いヨーロッパでは乗馬はトロットできない。18世紀に道路が改善され、4輪馬車ならトロット可能に。
 王政復古時、密猟と造船のために森林が破壊され、赤鹿、まだら鹿がイングランドから消える。狐すら貴重品に。
 囲い込みで柵ができたので、18世紀後半の狩猟家は飛越が必習となった。狐狩り、銃猟、乗馬、柵の4要素は、欧州大陸では揃って流行ることなし。だから英式馬術は独特に発達。
 シナと匈奴の争いは、前3世紀の秦代から7世紀の唐初まで。
 モンゴルの矢は長さ2フィート、三角ヤジリで、ヤスリで針のように鋭くされていた。三頭の替え馬に輪乗した。
 関東や中部山岳に古代日本馬の産地があったのは、湿気による蹄病が少ないため。源氏の勢力圏にだいたい一致する。