摘録とコメント(※)

▼S.Glasstone編、武谷三男 tr.『原子力ハンドブック・爆弾編』1958、The Effects of Nuclear Weapons
 弱い力→強い力に変わるとき、エネルギーが放出され、質量が減る。
 1ポンドのウランまたはプルトニウムを完全に分裂させると9千トンのTNT爆破と同じ。
 20キロトン出力を得たいなら理論上は原料2.2ポンドで良いことになる。
 重水素1ポンドをすべて融合させると26千トンのTNT爆発と同じ。
 火球半径以上の高度で爆発させるのが普通である。1Mtなら2900フィートである。
 回折荷重:爆風波が構造物の裏にまわらぬとき、表裏の圧力差により働く力。円柱はこの回折時間が短いため荷重を無視できる(p.86)。※広島では風呂屋の煙突は立ったまま。病院や公共建物は円筒状に汁。
 衝撃波面に続く、突風による動圧荷重を「牽引荷重」と呼ぶ。TNTが1000分のn秒しか続かないのに、1メガトンでは2秒も続き、破壊的。
 巨大壁面構造物は主として回折力を、トラス橋などは牽引力を受ける。
 回折に弱い構造物が特定の被害を受ける範囲は、爆発エネルギーの立方根に、また被害範囲は「三分の二」乗に比例する。
 ex.エネルギーが1000倍になると、同程度の回折型被害の生ずる範囲は、およそ10倍ほどの割合で増加し、被害の起こる面積は約100倍の割でひろがる。
 牽引型被害は、それぞれ上の、10倍以上、100倍以上、となる。というのも、爆心からの距離は、風圧持続時間を縮めず、エネルギーに比例するからである。
 耐震を意図して建てられた現存する構造物で、その重量の10%に等しい横方向荷重に耐えられるようになっているものは、爆風による被害は少ないだろう(p.91)。※つまり今や日本の都市は他国の都市より核攻撃には強い。
 爆風の力は力積impulseでも表わされる。正圧部持続tと、超過圧力の変化を加味したもの。
 異なる出力で同じ被害が出る距離を求める算式(pp.96-7)。
 この本が出た時点ではまだ広島も長崎も20ktとしている。
 日本の鉄筋コンクリート建物の多くが爆風に強かったのは、1923震災後、高さ100ft、垂直荷重の10%の側圧に耐えるべしとの建築規制あったため(p.150)。
 航空機は後上方からの爆風にも弱い。
 地上破壊口の直径は、爆発エネルギーの立方根にほぼ比例して大きくなる。深さは4乗根に比例する(p.191)。
 テフロンを溶かすには、平方センチあたり70カロリーが必要。
 屋根瓦が泡立ったのは40カロリー。
 広島の火災は焼夷弾1000トン分に相当。
 長崎では市街の配置が不規則だったので、火災範囲は広島の四分の一で済んだ。
 熱線がピークに達するまでの時間は、爆発エネルギーの平方根に比例して長くなるので、小型核ほど退避行動が不可能(p.317)。
 1.25マイル以遠では、20キロトンからの初期ガンマ/中性子線は、無遮蔽でも被害を生じない。しかし1キロトン以下では、熱線を上回る到達範囲を有する。※中性子爆弾の明瞭な説明。
 中性子は百分の一秒以内に到達するから、退避行動は無意味(p.345)。※無意味でないという異見も。
 コンクリート、湿った土、酸化鉄鉱石や鋼鉄パンチングのような小さい鉄片を加えてつくった変性(重量)コンクリートは、中性子にもガンマ線にも有効である。※酸化鉄入りのテトラポッドが既にある。
 硼素は遅い中性子をとらえるので、colemanite をコンクリートに混合する。
 ガラスはナトリウムと珪素が主成文なので誘導放射体となる(p.382)。
 木材、繊維は放射性にならない。
 キロトン級から生ずる clouds は対流圏上層に達せず。
 成層圏留分の半数落下は7年。
 米国ではカルシウムの3/4を乳製品から摂る。ストロンチウム90はカルシウムと同じ消化のされ方をするために体内に定着し易い。
 1tのTNT-HEによる標準死者は40人とされる。
 三度の火傷は感染症の危機。ケロイドは通常の焼夷弾攻撃でも発生。
 被曝後の受胎児は奇形にならないようだ。
 ガンマ線を浴びると黒人は爪が青変する(p.464)。
 脱毛には順番があり、睫毛と鬚が先行する。ただし永久脱毛は一例もなし。
 放射線を浴びた海水も蒸留すれば飲料水として完全である(p.508)。※3Fの灰については触れていない。
▼H・トビン『アメリカ総動員計画』邦訳S16年
 南北戦争のとき、北軍は運輸・通信を統制。南軍は経済全般を統制。
 1917~8の経験では、米国の宣伝は主として広報委員会のうけもち。検閲は広報委員会の外、多数の機関によって行われた(p.59)。
 米のWWⅠ参戦熱に着火成功したのは、広報委ジョージ・クリール配下の素人宣伝家(p.60)。
 検事総長は25万人の志願者に政府の徽章を与え、破壊活動の狩り出し権をもたせた(p.71)。
 事前検閲は出版、報道、映画界に浸透。
 検閲に逆らい、榴霰弾の無効を公けにし、英陸軍にHEを採用させたのは、新聞。
 英はWWⅠの初期でドイツ宣伝ラジオをJamせず、反対宣伝で臨むことを決心。
 WWⅠ中の兵役拒否者は1500人だけだった。宗教者は除く(p.85)。
 米にはヴィッカーズやクルップに相当する大手兵器私企業なし。
▼伊藤博文 ed.『兵政関係資料』S10年
 鎮守府は、海軍の城郭たり。根拠地たり。
 横須賀鎮守府だけでは、九州や北海道沖で損傷した船がたどりつけまい(pp.12-3)。
 室蘭と舞鶴は対露用。佐世保は対支用。
 独人イヤリング教授いわく、日本は島国なのだから皇子孫は海軍に従事させろ。ロシアは皇太子を陸軍、第二皇子を海軍に入れている。日本はその逆をやれ。兵学校は江田島ではなく東京に置け。
 当時の三海峡は、紀井~淡路、伊予~豊後、長門~豊前。これ以外は封鎖できる実力がなかった。
 アナポリス優等生は英仏に留学させていた。
 北海道を防御したくば、本州から援助できる港湾に要塞をつくれ。函館と室蘭を考えろ(p.133)。
 M24の有地中将意見。スエズ運河は喫水25呎以上の船は通れないから、ヨーロッパが日本を攻めるにはケープを回る他ない。しかるに英仏露伊西の戦闘艦は1艦あたり877トンの炭量。戦時全力一昼夜で302トン消費する。つまり877トンは2日強で尽きる。経済速力でも5日しかもたない(仏海軍が証拠)。いろいろ考えると敵艦隊は4日毎に積み込みの要あり。香港、上海に石炭を供給しているのは、他ならぬ日本だから、連中に勝ち目は無い(pp.198-9)。
▼アラン・ムーアヘッド『ガリポリ』
 青年トルコ党の50%がユダヤ人で95%はフリーメイソンのメンバー(p.26)。ローマンカトリックは彼等を毛嫌いする。
 破産の脅しは抑止力にならない(p.37)。
 厳寒のダーダネルスには黒海から流氷が漂うことがある。
 この作戦には観測水上機を除き航空機は不参加?
 英のテストでは、透明度が良ければ機上から18フィートの深さの機雷を視認できる。
 たとえ老朽艦であっても「艦は人間よりも大切であるというのが全海軍の伝統であり、艦長たるものはどれだけの人命を犠牲にしようとも、艦を守り抜くようにつとめなれければならないのであった」(p.121)。※この義務あるがゆえに英国では艦長は最後は必ず船と運命を共にしなければならないのである。水夫に死を命じている以上は。
▼コルマル・フォン・デル・ゴルツ元帥著、フリードリヒ・フォン・デル・ゴルツ大佐補『国民皆兵論』陸大 tr.大15
 ※ゴルツ元帥は少佐時代、1883に普仏戦を総括した本を書いている。本書はWWⅠ後の読者対象。
 緒言、モルトケはクラウゼヴィッツの門弟だ。クラウゼヴィッツは近代におけるすべての軍事研究者の師だが、WWⅠを想像できなかった。
 大口径モーターは遅発信管。
 英の封鎖はハンニバル包囲の現代版だ。戦理は変わらぬ。
 大戦開始の際に4000万の人口の仏国が6700万のドイツと同等の常備軍をもっていた。
 参加総員の約半数の死傷者を出したボロジノ、アイラウの如き会戦は、大戦中に一度も見ることはできなかった。
 スーパー新兵器をすべての国が持たない限り、世界平和は無い。
 すべて新たにできた兵器はその法則をみずから作る。
 1813年以降、普国に於いては兵役は国民の当然負担すべき名誉の責務なりとの意見が行わるに至った。
 WWⅠの軍団の最後尾は1日行程分後方の路上にあるので、軍団が同時に戦闘に加入することはできなかった。稀に1日50km歩いたことも(p.47)。
 WWⅠ中、独はDをもって最大の戦術単位にするに至る。
 クラウゼヴィッツは、2単位制軍隊だと、その司令官は何もできなくなると警告す。
 騎兵と輜重縦列は、特に敵航空機に対して脆弱。
 以前は1000名よりなるBnが最小戦闘単位だったのに、今日では中隊~分隊も戦闘単位である。
 普仏役において加農/榴弾砲が敵の榴弾で損傷することがまったくなかった。
 WWⅠの偵察機は3機編隊で行動した。
 運動性劣る重爆は夜のみ使用され、昼は軽爆が出撃。※飛行船も。
 ベルサイユ条約は、観測気球や対戦車ライフルまで禁止してしまった。
 WWⅠ型LTKは「特製の自動車に載せて運搬し得」(p.76)。
 WWⅠ後、将校団は目の敵にされた。
 WWⅠ中、15万人の新任将校が、凡らゆる社会、凡らゆる職業より採用された。
 普仏戦時の仏軍将校の命令書は、詳細に過ぎた。ほとんどが9月革命で将校となった人々。
 ナポレオンは41歳で、フリードリヒは48歳で年齢超過を自覚した。
 「政策第一と云うナポレオンの金言」(p.198)。
 クリーグスプラーン:作戦計画←→オペラチオンス・エントウルフ:策動案。
 モルトケはもともと東西同時打撃を考えていたが仏要塞の発達により1878以降は西守東攻派となる。つまりオーストリーと共同でワルシャワあたりで露軍を合撃せむと(pp.258-9)。
 シュリーフェンはなぜそれを変えたか(pp.-260)。
 仏国新聞論調の好戦化は英仏協商後から。
 ~p.262までアロン引用の箇所と思われる。
 ベートマンは参謀本部のベルギー計画を知らなかった(p.266)。
 ※独国内の戦況報道が宜しくなかったのは国内があまりに分裂していたから。
 一等国ではじめて諜報勤務を整然と組織したのは仏(p.300)。
 7年役では戦闘隊形で行軍したので前進に道路を使用することは稀。
 夜行軍および夜間の部隊交替はWWⅠから(p.323)。
 WWⅠ前には「防者は全正面に於て成功した場合にのみ勝利を得るが、攻者は長い戦闘正面の唯だ一点に於て成功すれば、勝利を得る」といわれてきた」(p.358)。
 そこで小部隊による側面攻撃が多用され、常に成功した。
 クラウゼヴィッツが長生きしていたら、攻撃を有利と書き改めたろう(p.361)。
 フリードリヒ『戦争の一般原則』「故に攻撃を敏速に行うに従って、兵卒を失うことが益々少ない」。これは今日にもあてはまる(p.365)。
 「攻者は側面及背面の警戒を……成るべく猛烈に前方に向って攻撃することに依って、之を期すべきである」(p.368)。
 ドイツでは騎兵が軍隊の中でいちばん尊重され、国民の間に一番愛されたが、仏国軍隊では工兵および徒歩砲兵が優待された(p.414)。
 連合軍は後半2年、必ず歩兵の総攻撃にTKを集団的に先導させた。
 大量のガス弾の製造が普通の爆弾よりも容易かつ廉価(p.468)。
 「勇敢なる国民は爆弾やガス弾を以てする空中攻撃のみでは、決して屈服せぬであろう」(p.469)。
 フリードリヒからナポレオンになって、追撃が初めてできるようになった。
 「独断専行」を論ず(pp.530-2)。
 「精鋭な軍といえども、長い間劣悪な敵と戦って居れば、その能力が低下する」(p.541)。
 野戦軍の移動式炊事車は、日露戦争で初使用(p.574)。
 「如何なる史家といえども、支那人が長く存続するの故を以て、之をローマ人やギリシャ人の上に、置く者はあるまい」(p.616)。