摘録とコメント。

▼永田実『ルーブル』
 ソ連の工業製品が輸出に占める割合は3~4%だが日本は軽工業含めて97~98%である。
 1979ソ連はチタンの輸出をとつぜん停止した。クロム、プラチナ、マンガンなどの国内蓄積を進めている節がある。
 ソ連は欧州市場の軽油の60%を供給。
 アジア・ドル市場はヨーロッパに比べ規模が小さいので操作しやすい。ソ連はまず大量のドル売りに出、相場を押し下げたところで買い戻して利ザヤを稼ぐ(p.71)。
 ルーブルの発券量が公表されることはない。
 米『タイム』誌85-6-17号によると、ソ連AWACSは米スペースシャトル初期モデルに似ていると。
 ソ連東欧は技術文書に関しては公開主義で、西側へのライセンス輸出を欲しているが、翻訳困難であまり利用されていない。
 85-6の米議会公聴会で米海軍は海外では最大規模の諜報員64人を日本に置いていることを明かす。
 70’s以降、貿易政策上に国務省よりペンタゴンの発言力が強まる。
 ソ連の対西欧ガスパイプが止まってもノルウェーがある。
 1963の不作はフルシチョフの大処女地開拓計画の失敗で土地が荒れ旱魃にみまわれたため。ハードカレンシーないのでgold売却につながり失脚。米豪加アルゼンチンから小麦買い付けの始まり。
 ソ連は81年から穀物の生産実績を発表しなくなった。※70’sにソの大量買付けでアメリカ飼料が値上がりし市場混乱が続いたので偵察衛星で作況を調べるようになった。
 ソ連では魚料理の数は限定される。すずきの一種、ちょうざめ、こい、ふなしか食べない。さば、いか、くじらの食べ方をテレビで指導したが無駄だった。
 ソ連の外貨準備は金準備ともどもスターリン以来非公開。
 ソ連では石油生産&輸出の方が小麦生産より「比較優位」。百万トンの小麦を輸入し、その生産コストを石油業にふりむけると、7億ドルの輸出収益に。
 ソ連は石油採掘と併行して新油田の探鉱をしなかった。しかも西シベリアでは機械採油ではなく自噴に頼っていた(p.42)。
 ソ連は沖合い油田は未経験である。
 ソ連は貨物輸出の半分を鉄道に頼る、世界一の鉄道王国。
 圧延鋼材の鉄鋼製品全体に対する比率。1981においてソ連69%、米74%、日本87%也。日本では絶滅した平炉鋼がソは1980で28%もある。このため径100ミリ超の鋼管は輸入しなければならないのである。
 アエロフロートの機長が千葉のスーパーで日用品を万引きして捕まった。
 終戦直後のソ連原油生産は2500万トン。84年は61500万トン。
▼西村文夫『ゴルバチョフ』
 レーガン再選の見通しが明確になるとソ連は米からの提案で顔を立ててもらって宇宙軍縮の話し合いに乗り出す決心をした。9-6のオガルコフ解任はその露払いだった(p.202)。
 60’s末~70’sはじめ、クバン地方の収穫さがったのは「キーロヴェツ」トラクターが重すぎて土壌を過圧縮してしまうしてしまったから。空隙つぶれ浸透保水なくなり立ち枯れ。
 ゴルビーはより軽いトラクターを別な工場でつくらせようとしたが戦車&トラクター工場を利権とする軍に阻まれた。
▼モルデハイ・アビール『中東に伸びるソ連戦略』1977
 WWⅠまでロシアは米に次ぐ石油生産国。
 WWII後、コーカサス油田が枯れかけたときに、ボルガとウラルの中間で第二バクーが発見され、1960には総生産の7割に。
 ソ連油田が僻地に移るにつれて採掘は困難を増し、それがソ連をして国際原油価格の値上がりを歓迎させる。
 石油収入はソ連の外貨獲得の第一位。
 シベリアの石油をヨーロッパ・ロシアに運ぶためには精油と同じくらいコストがかかるため、ボルガ・ウラル石油に比べるとその価格は2倍になる。
 チェコの対ソ石油依存度は99%である。
 ロシアは19世紀末、鉄道をバンダルアッバスからアラビア海東岸まで延長する予定だった。
 味方でない者は敵=ドグマ的態度。敵でない者は味方=実用主義的態度。
 1959の米英のレバノン・ヨルダン介入では、ソ連はスエズに続いてふたたび脅しをかけはしたが、領内南部で軍事演習するにとどまった。
 1962の米の対イラン軍事援助停止と、トルコIRBM撤去は、イランをしてソ連に接近せしむ。天然ガス輸出協定。
 また1966-7にイラン・ソ連兵器供給協定。
 1973-10にイランは石油危機に便乗して対ソガスを値上げ。ソ連は値上げの代わりに土地の割譲を提言した(p.146)。
 1974にミグ23とスカッドが大量にイラクに送られた。
 ソ連に支援された南イエメンがサウジと小戦闘。
 米は1978高価格の中東石油を輸入し、アラスカ石油をより低価格で輸出した。
 訳者。CIAリポートによるとソ連の汲み上げ技術は米の50’sのものであり、水攻法も含水率44%になってしまっていると。
▼旅順図書館 ed.『日露戦後三十周年記念 在旅順同役参加者座談会誌』第一回~第三回(S10-12、S11-11、S14-5 pub.)
 36連隊長は二龍山からの47ミリ砲に腹部を直撃され、後送後に死亡。
 とうじ「予備」はなく、現役→後備→国民軍。日清で現役だった者は日露では国民軍だった。
 日清戦当時、一門の大砲を撃つには上等兵が三名と馭者3名は古い者でなければならぬ。他3名はシロートでよい。
 日清では後備の騎兵がスペンサーカービン。また歩兵の後備はスナイドル。10~15発うつと新品でも遊底開かなくなり、みな腰に木槌をさげてこれで叩く。
 日清では歩兵は近1のみ22年式、近2は単発銃、二連発銃(?)だった。
 日露では後備歩は18年式。
 この銃の話をしている第三軍弾薬中間廠附砲兵一等銃工長・駒井春太郎の談。
 M38-8~10月に「遊底覆」を考え、槁本参謀長に認められ、1個大隊分つくって送ったと。
 輜重車は、36式2輪輜重車→38式→39式→自動(貨)車。
 蝿取り紙は、カナダ製?
 日本の発明ではなかった。タングルフートとか言った。
 日本兵のPOWは帰ってきたとき、やはり申し訳なさそうにしていた(第一回)。
 焼夷弾という言葉はなく、延焼弾と言った(第二回)。
 支那馬車は輪の接地幅が広い。日本のwheelは幅が狭く、泥に沈む。
 素焼きの丼を「ごろ八茶碗」と言った。
 ロシアのコンクリートに鉄筋は無かった。
 鉄条網は3000ボルト通じていた。
▼吉田璋也『有輪担架』S15-3
 キャンバス木骨担架の下に自転車のタイヤが一輪ついている。これを装備した隊があった。
▼毎日新聞社 ed.『海鷲隊長の手記』S19-11
 十数人へのインタビュー。
 ボルネオでは死体を一丈の大トカゲが食っている。
 S17-5-7に小型空母喪失の報を知るや「断じて報復せん」と全員の敵愾心は熱湯のやうにたぎりたつた。
 ビヤ樽に洗濯板を突きさした奴=F-4F
 ミッドウェー参加の零戦隊長浅間大尉いわく、敵の搭乗員の顔をみたことはない。赤いか青いか、帽にメガネで分かるわけがない。白いマフラーをはっきりみたことはある。
▼エルンスト・ウーデット『戦乱の翼──大戦勃発から終局まで』坂部護郎 tr.S12-8
 2人乗りボマーで部品欠陥のためスイスに不時着。ウーデットは上等兵だった。スイス人は親独だった。
 「今は敵のプロペラーの廻転によつて起る風を感じる位に近づいた」
 20mまで近づくと、敵のプロペラ風を感じる。そこから撃つと12発でおとせる。
 航空兵は曹長から無試験で少尉に昇進す。
 両手でMGを叩くと直ることがある。ギュヌメールが後ろからそれを見てこの機の状態を悟る。そして両手で「あばよ」と合図して去っていった。
 ※両手で、の意味は、どちらの手も引き金から放したよ、ということか。
 リヒトホーヘンは騎兵大尉男爵でウーデットと会った日に68機撃墜しており「西部戦線の赤鷲」とか「紅の男爵」と云われていた。
 リヒトホーヘンは10mで射っていた。
 リヒトホーヘンは編隊中で臆病な行動をとった者は即日、追放した。
 長靴を履いたままでは大便はできぬ。
 すれ違いざまヒマシ油の匂い。
 まわりで火を燃やすとガス対策になる。
 末期はフォッカーD VII、階級は中尉。同じ中尉のゲーリングが最後の着任上官。
 ウーデットは戦間期をいかに飛行機屋として過ごしたか。
▼滝口乙三郎『青嶋占領紀念写真帖』大4-5
 騎銃(30/38)の一斉対空射。珍。
 38式15榴のクリアな写真。
 占領当時イルチス砲台上の写真。間違いなく38式歩兵銃。※つまり初陣でドイツ軍に勝った小銃なのだ。
 独のソリ付き重機。
 分捕せる敵の野砲。15榴くらい。
 破壊されたビスマーク砲台の28cm砲。
 独野砲は38式野砲に酷似。
▼『スターリン全集 第一巻』大月書店、1952
 日露戦争中のアジ:「カフカーズの労仂者よ、復讐するときがきた!」
 「どうだろう、同志諸君。専制政治は、われわれにむちのうなりや弾丸の音をわすれてくれ、何百人のころされた英雄の同志を、われわれのまわりをただよって『復讐しろ』とわれわれにささやく彼らの栄誉あるまぼろしを、わすれてくれとたのんでいるのだ!」
 「復讐するときがきた! ヤロスラヴリ、ドムブロヴォ、……グーリア、バクーその他の場所でツァーリのバシブズーク兵にむごたらしくころされた栄誉ある同志の復讐をするときがきた!」
 「復讐するときがきたのだ!」
 以上、1905-1-8印刷の宣言文。
▼ジョージ・Marion『基地と帝国』新山健 tr.1954、原1948
 第五艦隊司令長官、レイモンド・A・スプルーアンス大将は、沖縄に戦後も基地をもつのは「防衛」に合致しない、と。
 デンマークはグリーンランドから米国人を追い出すことができず、逆に原住民100人を疎開させた。
 グリーンランド撤退を米が拒否したことは1946~47のデンマーク内ではげしい議論をよんだ。
 1985に米の銀行、鉄道会社は、ロシアに100%米資の「満鉄」をシベリア鉄道に連結させろと要求した(p.113)。
 これを断って1896、ロシアは東新鉄道の権利を得た。
 1916にはWWⅠに乗じでシナの通信界を支配できる取り引き。他の計画、特に鉄道は、欧州が日本をあとおしして潰させた。
▼片倉藤次郎『英米の空爆原理』S18-11
 この版元・アジア青年社に、『獄中獄外』/児玉誉士夫あり。
 「我々は敵国アメリカが先月(四月)迄に既に十一隻の航空母艦を進水せしめ更に五月下旬に新に一隻を進水せしめた事、そして其上に尚ほ六十隻の航空母艦の建造中であると告げられる」(p.5)。
 また4月15日に首相官邸で開かれた地方長官会議で陸軍は「最近米国の与論、その戦備進捗の現況に鑑みるとき帝国本土に対する敵の空襲はこれが実現必至と予想せらる」と。
 彼等は本年度末には12万5000の飛行機を有するに至ると我等は告げらる。
 アリューシャンの飛行場は9月末~初夏は濃霧で使えぬ。
 英の対独空襲は1939-9-4のウィルヘルムスハーフェン及びブルンスビュッテル等の要港に対するのが最初。
 前日には偵察飛行とリーフレット撒き。
 9-24にフリードリヒスハーフェンのエンジン工場を英仏が爆撃。
 対人民爆撃は1940-1-12のシルト島ウエスヨーラントに対するのが最初。
 1940-5-10~12、フライブルク市初空襲。
 5-21~22、ボン、アーヘン初空襲。
 独の対英爆撃は1939-9-29のヘリゴランド湾、10-16のスコットランドのフオラ湾が早く、40-6-20夜に至りようやく陸上都市を爆撃。
 これに対し英はベルリン住宅地を8回爆撃。
 独は遂に1940-9-6~7にロンドン大空襲。
 1907の陸戦法規。第25条。如何なる手段に依るも無防備の都市、村落、住宅又は建物の攻撃または砲撃は禁ず。
 海戦規約の第1条にも、無防備の港、都市、村落、住宅又は建物の砲撃は禁止せらる。 ともに英米も調印。
 「この英米の焦土化テロ空爆原理が」(p.38)。
 東京大阪の人口密集度はロンドン、ベルリンをしのぐ。
 WWII緒戦でベルギーは7000余の戦死者を出して降伏したが、その後英米がアントワープを空襲したところ一挙2300人が死んだ。
 ローマ爆撃を米に勧めたのも英。
 1933-5-27、連盟委員総会で米代表ウィルソンは、空襲戦の全廃、空襲の例外なき違法化を唱えた。
 空襲を警察行動と言い張ったのは1934頃の英政府。
▼関根伸一郎『飛行船の時代──ツェッペリンのドイツ』H5
 アルミはバルト海~アルプスまで独国内で自給可能。WWⅠ中、銅など輸入金属の代用材として、ラインラント、バイエルンで量産。
 英は戦前からツェッペリンを警戒し、チャーチルは1913に、英も建造せよ、と。
 1915-1-20、初の英本土爆撃がL3とL6で。ウィルヘルム二世は自分の親戚を空爆したくなく、ロンドンは不許可。
 200キロ爆弾を投下。
 1915-6-6、1000キロ爆弾を投下。
 新型のLZ40号(L10号)は、1915-6-4に、100キロ×2、50キロ×20、焼夷弾×90を投下。
 また1915-6-16に2500キロの爆弾を投下。
 1916には夜間空襲に切り替え。1916-9-2~3の16機による爆撃では事前に警告した。463発を投弾。
 ロンドン往復30h、高度6000だからひどく体力を消耗する。航空心理学や航空病の研究が始まる。
 ツェ伯じしん、1914には飛行船より固定翼と考え、ボッシュに巨大飛行艇をつくらせている。
 ブルガリア→東アフリカ補給飛行では、エジプト上空で沙漠の照り返しに乗員が目をやられた。高度1000mを保つ。95h、6757km飛んでたどりつく。
 WWⅠで海軍LZは64機投入、17機喪失。陸軍LZは50機投入、17機被撃墜、9機事故、19機老朽解体。
 1915から3年間に出動した飛行船の英国爆撃ミッションは50回。それによる英人被害は556人。
▼岩田達『戦捷の哲学的基礎知識』S18-11
 日蓮いわく、「夫れ一切世間の中にて國が亡ぶるが大事にて候」「須らく天下国家を祈りて己が一身に及ぶべし」。
 吉川英治「死んだ偉人も国家の現在の宝」「世界の有する財産の中で、最も貴重な財産は人間」(スターリン氏)
 プラトン「正に仮面の平和こそ戦時」
 「我が民は智識なきによりて滅さるべし」(ホセア書 四ノ六)
 フォッシュいわく総力戦下の国家は往時の包囲された都市市民と同じなのだと。
 会津籠城では、鍋、釜、装身具、骨董品、仏具を弾丸にした。「仏法を鉄砲にする会津兵」
 昭和14年までは工作機械用精密軸受けの「国産は絶無」で、総てテイムチンおよびSKF(スウェーデン)の供給に依存し、S15-8、米の工作機械禁輸と、S16-6独ソ戦にせまられて、S16-10にかろうじて国立機械試験所の手による円錐コロの製作法に一成案を得、政府の援助もあって17年初頭以後、ようやく国産精密軸受けの生産を見る(p.217)。
 14、15、16年度の物動計画は、どうなるかも知れない米英の物資を頼りにして樹てられていた。
 多田恵一は大8にボルネオ開発を説いた。田中義一陸相は明石台湾総督に南洋調査費を出させようとしたが、明石中将病没で頓挫。
 シベリア出兵時、陸軍航空本部第二課長であった高橋常吉大佐がS12-9-1に講演したところによれば、シベリア出兵でいっしょに出て行った米英軍は、戦闘そっちのけで石油その他の資源地質調査を行なっていた。それを見、その目的の遠大なるに、却って感服した、と(p.228)。
 仏印には無煙炭あり、日本の電力会社はこの石炭を最も使いたがった。