摘録とコメント。

▼平野光男『明治・東京時計塔記』S43-6改訂増補壱千部限定版
 湯島天神の境内に昔、陽時計があった。
 大正12年の震災まで、懐中時計の必要はなかった。いたるところに時計台あり、また商店を覗けば柱時計があった。
 定時に鐘の鳴る時計塔はルネサンスのミラノに初登場し、不定時法から定時法への切り替えを促した。
 日本では明治に定時法となり、いっせいに時計塔がつくられることになる。
 憲法発布のM22までが「文明開化」時代。
 明治期のメカは重量式。それが大正期にメンテの楽な電動式となる。
 時計納入ではFavre-Brandt商会の実績がダントツ。館主はスイス人だがスイス時計を輸入したのではなく、英国製が多い。
 東京市の嚆矢は竹橋陣営時計塔で、M4竣工。S20-4末の空襲まで残っていた。
 震災直後まで放置期間があり、当時の内部はくもの巣だらけ、湿気がこもり、蝙蝠が飛び、埃の堆積した床を鼠が走っていた。
 機構は「八日巻」で、週に一度、カギを捲かなければならない。
 伊藤為吉はCapellettiに建築学を学び、さらに米留学ののち、服部時計店の時計塔を耐震式に設計した。
 M4の新制度による初の郵便役所=日本橋の駅逓。初代の頭の前島密の回想。隣が小公園でそこで軍談の席があって、講談が酣になると張扇の音で会話が妨げられる。また軍鶏鍋屋も繁盛していてその煮える匂いがしてきたと。
 市ヶ谷の士官学校は尾張藩の下屋敷だったので、ここに士官学校工事直前まで薩軍が屯ろしていた。S12秋に機関は座間に移転し、建物は陸軍予科士官学校に使われた。
 ももんじ屋は、三都ともに化政以降に盛んに。江戸に最も多し。鍋とし、葱を加えていた。
 小林伝次郎は天保年間に俗曲を奏でるオルゴール入り枕時計を製作。しかしS18に小林商店は時計屋を廃業するしかなくなった。統制経済のため。
 M18頃の鬼瓦の櫛の歯のような突起は、「カラス」といい、鋳鉄製で、烏除け。明治十年代の東京の烏はおびただしく、M11に市中市外の鴉と鳶の巣を取り払えというお達しが出ていると。
 上野公園は東大医学部の移転地としてつぶされるところだったがオランダ人教授が公園を減らすなと勧告して、旧加賀藩邸になった。
 この医学部時計塔は正確だったので、明治末まで付近住民は袖時計の必要がなかった。
 参本は永田町1丁目1番地の高台にあった。陸軍省と陸軍大臣官舎が隣接。建物はすべてS20-5-25の空襲で焼けた。ただし機構はS16に市ヶ谷に移されていた。
 角海老楼は新吉原の老舗ではない。明治中期に勃興。宮沢平吉という長野県人が幕末に新吉原の並店安尾張に奉公し、分看板をもらって「角尾張」を経営。たまたま売物に出た妓楼海老屋を買い取り、角海老と改名す。その時計塔は「たけくらべ」に出てくる。
 塔はM44-4の火事で消失。明暦三年の新吉原開設いらい、26回目の丸焼けだと。
 遊郭は大12震災でガラリと姿が変わり、さらに終戦で性格すら変わってしまった。
 明治政府は吉原の他に本郷根津に遊郭を許可していたが、それが区画整理で一斉に洲崎へ移転させられたのがM21のこと。
 その一軒の八幡楼に時計塔があった。花魁の部屋は贅沢な三間続き。この敷地内に天然ガスが噴出し、事業化されたという。洲崎橋を渡ったあたり。
 M7頃、「髭をはやして官員ならば、猫や鼠はみな官員」と囃された。武士の二腰が禁止されたので、その代用として長い鬚で庶民を威嚇したのだ。
 S20-5-25空襲では慶大の図書館も内部が焼けた。S24に改修工事。
 しかし、Calamus Gladio Fortior =ペンは剣よりも強し、と記された女神と武士のステンドグラスは失われた。 1912-1国際紛争平和的処理条約公布。4月、慶大図書館時計塔竣工。
 避雷針は日本ではM7から。街路樹の植樹もM7から。
▼エム、カー、クリスチー『戦車工学』S18、原1937露語
 劣悪な土地での車輪の損失は20~40%に達す。履帯は舗装道上では車輪よりロス大きいが、路外ではタイヤの半分~三分の一。
 変速機は自動的なものでなければならない。
 「94式中戦車」の諸元が紹介されている(p.7)。
 各国の装甲板の材質や製法を詳述(p.10)。※これだけシステマチックに技術情報集めて公開していたからT-34もできる。日本との違い。
 当時の装甲鈑の重さは全体の14~28%
 鋲接車体にタマがあたると、内部の鋲頭が飛び散り、乗員を傷つける。
 乗用車エンジンは平均負荷40%、トラックは60%なのに、戦車エンジンは連続的にその最高出力の80~90%で使われる。そこで、軽油、重油の無気噴射式高速ディーゼルを持つ必要がある。
 最近、100atmの高圧蒸気機関が現れた(p.13)。
 発生炉ガスの発動機はまだ。
 今の戦車砲は、20ミリで1000m/s、37ミリで800m/s、75ミリで600m/sである。
 鈑厚20ミリで100m以遠からの20ミリ徹甲弾を防ぐ。
 ガス防護には、戦車内部を高圧に保て(p.25)。
 ビッカース12トン戦車は装甲板にアスベスト等熱不導体を裏張りし、冬夏の寒暑を防いでいた。※今はセラミックが代用材か。
 大型戦車で中程度の不斉地を2、3時間連続走行すると酔う。
 単独の戦車は不斉地では最大速度が3割低下し、夜間はさらに4割低下する。縦隊では、単車時の5割のスピードに落ちる。
 路面が堅い時、転輪の中間には履板重量がかかるばかり。転輪直下の接地圧は5倍以上になる。
 ATGの2発間隔は12セコ。これ以内で戦車は旋回せねばならぬ。
 重戦車は径50cm以内の樹からなる森林なら跋渉できる。厚さ80センチの石壁も破壊する。鉄条網は戦車には無意味だが、隠れた針金傷害は起動輪や誘導輪に捲きついて、履帯をはずすか、落伍させる。
 変速段を増せば、燃費はよくなる。8h連続運転したいところだ。戦車の発見はその車高による(p.38)。
 悪天時、戦車のエンジン音は1200m先から聴こえる。
 接地圧比較。トラック2.5~7.0kg/平方m、タクシー1.5~2.5、装軌牽引車0.4~0.6、重戦車0.8~1.6、軽戦車0.4~0.5、かんじき類0.05~0.2、スキー0.03~0.05、ヒトの足0.4~0.5、人が乗った馬1.2~1.5也。
 装軌車両の接地圧は装輪の約十分の一。人の足に略等しい(p.53)。※三分の一の場合もありそうだ。
 戦車に最も害ある揺れはピッチング。照準が大きく狂うから。垂直動揺は害が少ない(p.339)。
 戦車履帯の接地角および離昇角はなるだけ小さい事(p.366)。
▼早乙女勝元 ed.『写真版 東京大空襲の記録』S62-7
 白骨遺体が位牌を手にしていた場合がある。漆塗りなので火にも水にも強い。その戒名が新聞に発表されると数日しないで関係者が名乗り出てきた。戦後20年あたりまで。
 東京初空襲のとき、警視庁しらべでは、250キロ爆弾×6、小型エレクトロン焼夷弾452発が落とされ、61棟が焼失、死者39人。日本全国だと死者50人だった。
 ただし当時はこの被害発表はない。
 内務省はS18-6から全国民を収容できる防空壕と公共退避壕の設置強制を始めた。
 ただし下町のゼロメートル地帯では水溜りとなるだけであった。
 マリアナから東京まで2300km、B-29は7トン搭載時の航続5000km超。北海道までは往復ができない。
 1945-1-1の新年切り替わりと同時の夜間爆撃を浅草に。明け方には江東区。
 1-27、3-4には第一目標の軍需工場の天候が悪いので市街地無差別爆撃。
 警戒警報は3分間の連続吹鳴サイレン。
 3-10を境に都民は消火より脱出を優先するようになった。
 6月は、伊豆七島が頻繁に銃爆撃された。
 東京の被害統計はハッキリしない。警視庁は、1944-11~1945-8-15までに9万5996名が空襲で死んだとする。が、戦後3年目の東京都の調べでは、9万2778名とある。さらに『東京都戦災史』では9万4225名とある。
 ところが墨田区の東京都慰霊堂には一般都民の白骨10万5400体が並べられた。
 あらゆる資料を総合して、東京では死者は11万5000人以上出ただろう(p.175)。
 ちなみに対米開戦時の東京人口は735万人。
 日本全土の対米戦での銃後死者は60万人だろう。60万の半分は「広島・長崎」。残る30万人は、「東京」「沖縄」、それ以外、と、10万づつ三等分されるだろう(p.178)。
 1945の日本人の男子平均寿命は23.9歳となる。
 防空法では、消火しないで逃げ出すと1年以下の懲役や罰金と決められた。
 3-10空襲では先発隊は高度1500~3000mでアプローチした。
 1937-4-26にゲルニカ空襲で2000名死。
 重慶爆撃のピークはS16-8だった。
 ワシントンの国立公文書館には入り口に Study the Past と彫刻してある。
▼目加田誠 ed.『詩経・楚辞』S44
 4馬を並べて曳かせる戦車では中の2頭は先に立ち、外の2頭は遅れる。「国風・淑于田」。
 馬が装甲していること。車に2丈の酋矛と2丈4尺の夷矛を立てること。それには朱の飾りがついている。
 弋[いぐるみ]。「女日鶏鳴」、「大雅」。
 「駟●【馬ヘンに鐵のツクリ】」、猟犬も車に載せたらしい(p.93)。大型兵車は元戎といい、小型のは小戎。盾には竜か鳥の絵。馬に介させる(馬ヨロイ)。「三角の矛は、いかけの鐓[いしづき]。
 弋[ほこ]に殳[つえ]。「候人」。
 小雅・出車、他に「敵を生け捕りうちとって」と出る。※奴隷獲得戦争。
 大雅・韓奕に「鏤[ちりば]めたる馬の面がね」と出る。
▼赤塚忠 tr.『書経・易経』S47
 尭舜は三皇五帝よりも古くから語られていた。尭や五帝は太陽がモデル。
 舜は刑をゆるめ、過失犯は罰金で済ませた。
 「誓」の源義は、征伐の正当性主張。
 甲骨文に「歩伐」と出る。歩は100歩か?
▼本田済 tr.『漢書・後漢書・三国志列伝選』
 季陵・蘇武伝。匈奴あいてに大量の首斬り。
 天子の兵は征あって戦なし(p.62)。
 支配者だけが対象だ。
 東方朔伝。孫子呉子22万字を暗誦した。
 馮異伝。左伝や孫子に通じていた。
 馬援伝。当時の牧夫の服装は羊のけごろもに皮の袴。