▼杉村陽太郎『果して強国は醒めたりや』大11
バルフォアはときどき居眠りした。
プロ外交官のジュスラン大使とゲデス大使はまるで精彩を欠いた。
英が報道官ロード・リッデルに毎日数回記者会見させたのに比し、米はプレス宣伝を自制した。
ルートは法律家の権化にみえた。
WWⅠで圧倒的な独subは英水上艦を少しも傷つけることができなかった(p.194)。
ユトランド体験者ビーティ提督と、若手チャットフィールド提督が英に随行。
米海軍人の随行員は、不得要領のクーンツと、30代のルーズベルト海軍次官。しかし智恵袋はプラット。
日本は大佐級をつれていった。山梨中将、野村大佐、上田、末次、清河、永野、堀、他。
ヤップ問題は12-12に解決。
▼参謀本部編纂課 ed.『征西戦記稿』M20-5
編者のまえがきは日づけがM18-10となっている。
※西南戦争での乃木少佐の動きを最も多くのディテールとともに伝える資料。
この本の前に『軍団記事』という官本もあった。2冊とも、人名の書法は……。
姓官を書し、名を初出に註す。
同姓同官の人は逐次その名を註して以てその粉淆を防ぐ。
戦役中、進級したる者も亦その進級の始めにおいて再びこれを註す。
題は、研究途上なので「稿本ト証スル所以ナリ 賢者之ヲ諒セヨ」。
ルビなし。
初め賊兵の薩境を出て熊本に来らんとするの報あるや谷少将は小倉営所なる第十四聯隊長乃木少佐(希典)に令して小倉の兵を以て盡く熊本に集合せしむ。
後装銃とはすべてスナイドル銃。
馬関に後装銃が舟で着いたとき将卒はみな歓喜踊躍し、覚えず声を発す(p.3)。
このとき1個中隊は4個小隊からなり、計4個中隊あり。
有名な軍旗喪失劇のオリジナルと思われる語り(p.8)。※すべてはこの孫引きか。
このとき、将校で死んだのは河原林だけだった。
中巻。保田窪のくだり。
20日朝6時から官軍が攻撃。夕方までに全壘を占領し、さらに追撃。山縣と大山も親臨。
そこで夜営準備していたところへ貴島清の隊が抜刀逆襲。
しかし21日3:00AMまでに壘を回復。
この日は全戦線で動かした兵数は陸軍開闢いらいだった。
健軍と保田窪は、ひと続きの戦場であった。
山縣は4月1日に村田少佐を大阪に赴かせた。弾薬欠乏が心配のため。
▼大山誠一『<聖徳太子>の誕生』1999
長屋王木簡を調査しているうちに、聖徳太子伝説を誰がなぜ捏造させたかという当時の政治の構図が見えてきた。
王族の一人に「厩戸王」がいたことは確か。蘇我系で、宮殿と氏寺を構えられるほど裕福だった。が、記録ではそこまでしか分からぬ。それは聖徳太子ではない。
いまの美術史の飛鳥時代は聖徳太子の遺品を中心にしてあるが、いかがなものか。
法隆寺に太子の遺品があるのは不自然だ。
「太子=恵思の生まれかわり」説は鎌倉時代に問題となった(p.24)。
憲法十七条は儒教を基本に、仏教も説いている。『礼記』『詩経』『論語』『孟子』『孝経』『文選』の古典が引用されている。
十七条をシナ人が読んでも違和感はないという水準。604年にただの太子がそんなものを書けるわけがない。とうじは一般の官人すら日常的に文字を使っていなかった。
674年に唐の高宗が、君主称号を「皇帝」から「天皇」に変えた。老子と唐の皇室が同じ季姓であるため、道教の宇宙最高神「天皇」を採用したのだ。
これが天武朝(672~686)に日本に伝わり、689の飛鳥浄御原令で正式となり、天武天皇に最初の天皇号が捧げられた。
だから薬師像の銘文は、天武・持統朝以後に考えられたもので、607年のものとしては偽物だ。
シナでは天皇号は定着しなかった。やはり道教では支配学として儒教より弱いのだ。
律令国家となる以前の日本には大王が生存中に後継者を指名するという制度がなかった。つまり皇太子(制)がなかったから、後継をめぐる内乱があった。
大化の改新以前に日本国内で年号が使用された証拠はない(p.51)。
推古=トヨミケカシキヤヒメ、のようなものは和風諡号といい、死後に贈られる。和風諡号は、記紀の編纂のために新たにつくられたと考えられる。
古事記は712に成立した。日本書紀は720に成立した。編纂事業は天武朝に始まっている。
三経義疏は聖徳太子没後120年以上たってから突如、太子御製として登場した。
三経義疏はシナ製であろう。藤枝晃が戦後にはじめて指摘した。それを持ち込んだのは遣唐使帰朝組の道慈や玄昉だろう。
聖徳太子が活躍した推古天皇の時代(593~628)に、蘇我氏を中心とする豪族政治から、大王(のちの天皇)集権国家に転換。
※隋から社会技術を学ばねばならなかった。
皇太子制はシナ由来で、日本最初の立太子は697の軽皇子。これを日本書紀では、神武天皇の時代から皇太子がいたことにした(pp.72-3)。
戦前に津田左右吉いわく、十七条憲法の精神は君・臣・民の三階級となっているが、推古朝は天皇以外の氏族が優勢で、そんなヒエラルキーはまだなかったはずだ。
またいわく、大化の改新以前に、国家の民である「公民」は存在せぬと。
なぜ古事記は推古天皇で終わり、代わって日本書紀の編纂が始まるか。
古事記の最後に「厩戸王」がみえる。実名は「厩戸」だった。それ以外は後から付加された。すなわち、上宮之厩戸豊聡耳命・うえのみやのうまやどのとよとみみのみこと。
豊は神主や王族名によく使われる美称。また長沼賢海いわく、法華経に「その耳聡利きが故に、悉く能く分別して知らん」とあるのも参考だと。
古事記の仁徳以降では、天皇に即位する皇子は「命」と呼ばれ、「王」を称する皇子の中から天皇は出ない(p.84)。
645以後、中大兄と鎌足は、唐の制度を学習しつつ、唐の高句麗攻撃への対応も考えねばならなかった。
660に唐は半島南東の新羅と結託して、半島南西の百済を滅ぼした。中大兄は出兵を決心し、663に白村江で大敗。このとき唐人の捕虜を得た。またこのとき留学生は多く帰国した。
以後、新羅とのチャンネルが維持されたが、唐とは30~40年間、チャンネルが閉じた。しかし残留留学生の単身帰国は可能であった。
668に中大兄王は天智天皇に即位。同時に近江令を完成。しかし669に鎌足没。
672に天智の後継をめぐる内乱で天武が勝つが、天武は唐と結託したわけではない。反シナの国是が貫かれた。
集権国制の完成事業は、さらに持統朝、文武朝とひきつがれ、鎌足の子の藤原不比等が701に大宝律令を完成した。
702に遣唐船が復活。ただし厳密には則天武后の「周」。しかしシナでは女帝を認めないので、この周朝は無かったことになっている。いずれにせよ唐の最盛期で華やかなときだった。
対唐戦争以前の『周礼』の知識でつくった「藤原京」は、復活遣唐使がリアルで見てきた首都・長安城とはくらべものにならず劣って見えた。→そこで平城京。
持統朝のころの太政大臣は、有力な皇族がつくことになっており、もしもの場合は即位も可能で、皇太子に近かった(p.91)。
古事記の世界とは……。高天原に降臨した神の子孫の神武天皇は、東征し、ついで大和で即位した。そのごヤマトタケルが国内各地を平定した。神功皇后は新羅と百済を従えた。仁徳は聖帝王だった。雄略は天真爛漫に活躍した。それだけ。没哲学。
シナ皇帝は天命を受け、天子として絶対権力を行使する。日本の律令制の天皇は神として君臨するが、国家の運営は不比等ら高級官僚に任せる。それが古事記。
だがこれではシナに比べて見劣りがしてしまうと、太政官・不比等は考えた。
シナでは皇帝が儒教、仏教、道教、文化、芸能の中心に君臨する。その代表格が則天武后。
吉井巌いわく、古事記最大の英雄のヤマトタケルは、めずらしい王族将軍として602に「撃新羅将軍」に任命され、途中の筑紫で仆れている久米王(来目皇子)がモデルではないか。
ヤマトタケルには常に賄いの従者として七拳脛[ななつかはぎ]がいた。
論語は「礼楽征伐は天子より出づ」とするが、日本書紀では礼楽と征伐を、聖徳太子とヤマトタケルに分け持たせた。古事記のヤマトタケルは粗暴者だが、日本書紀のヤマトタケルは粗暴ではない。
日本書紀は、太子を「一[ひとたび]に十人[とたり]の訴を聞きたまひて、失[あやま]ちたまはずして能く弁へたまふ」と紹介する。
これは、トヨ・トミミから「十の耳」を連想したのだと明治に久米邦武は解釈した。
※侍従武官も勤めたある旧海軍人の講義にいわく。あるフランス人の本でシーザーとナポレオンを比較していると。それによるとシーザーは筆も上手で、自分で作文をしながら秘書を七人も置いて、同時に用を言い付けたと。兵頭いわく、厩戸がキリスト、天馬がアレクサンドロスなら、カエサルもありか。
文武帝のころ、まだ幼少の天皇の例はない。
文武の遺児の首[おびと]皇子が成人するまでの間、祖母の「あべのひめみこ」がなかつぎで即位すればよい。それが元明天皇。
彼女以前に即位した女帝はすべて皇后(天皇の正妻。浄御原令いぜんは大后)だったが、元明天皇は、即位せずに亡くなった草壁皇子の妃で、異例。
そこで不比等は「不改常典」なるものを捏造した。
元明天皇は、不比等ではなく長屋王の意向に合わせて、娘の氷高内親王に715譲位。元正天皇。
不比等は長屋王を右大臣にしないために、死ぬまで右大臣にとどまって、左大臣には上ろうとしなかった。
元明太上天皇は721崩御。元正帝は724に首皇子に譲位。724聖武即位。729長屋王自尽。
718に帰国した律師・道慈は、日本で最初の本格学識を身につけた僧侶。それ以前の僧は著述を遺していない。遺すに耐える水準では未だなかったのだ。
この道慈が聖徳太子に仏教家のキャラクターを与えた。
道慈がもたらした金光明最勝王経の文章が日本書紀にしばしば利用されている。
もともと仏典をシナ語にするときに、神仙思想の単語を借りた。そのシナ訳の仏典から逆に、神仙、陰陽などの道教テキストも再構築されている。
天皇を神として宗教的世界に祭り上げ、その天皇の信任を得て、優秀な官僚トップが政治権力を振るうという図式を日本国に定着させたのは藤原不比等(pp.130-1)。
不比等は、首を皇位につけたいがために、皇太子という地位の重さを日本書紀で強調した。
皇太子は偉いものなのだとの実例として、中大兄王だけが、日本書紀の中に、皇太子としての事蹟を紹介された。
十七条では、官人たちに礼が無いこと、男女間の乱れもあることがいさめられている。そんな時代だった。
第三条の「詔を承りては必ず謹め」は、君臣間上下の強調。論語の「君は君たり、臣は臣たり」のパラフレーズ。ただしシナと違って、君も臣を使うには礼を以てせねばならぬ、などとは、この日本では強調しない。
金光明経は天武朝が新羅から輸入した。仏法に帰依すれば四天王が国を護ってくれるという信仰。道慈があとおしした。
捨身飼虎の説話はその中に含まれている。放生会の由来の長者子流水の説話も。
仏教の三毒である、むさぼり、いかり、おろかさのいましめは、十七条の5、10、14条に配分された。
道慈は儒家を厳しく嫌った。
儒教では、礼のための和である。ところが十七条では和だけが大事とされる。
もともと修行僧は集団生活だから和は強調された。
弥勒信仰も道慈が日本に紹介した。
玄奘は『続高僧伝』に「行蔵[ぎようぞう]時に適[かな]ひ」と讃えられる。
「年すこぶる稔らず」の「年」は穀物のこと。
八角堂は故人をしのぶ廟堂的性格だ。廟堂があれば、聖徳太子は実在したことになるので、建設した。
著者は『新潮45』2000-5月号でもこのテーマで分かり易い説明をしている。以下、その摘録。
久米邦武いわく、日本書紀、法隆寺金堂の薬師像・釈迦像の光背の銘文、かつて法隆寺に伝えられた天寿国繍帳、三経義疏。これしか歴史学では聖徳太子の史料とはなし得ない。
書紀によれば、厩戸王(574~621)という人がいたのは確か。この人は斑鳩に、宮と寺(法隆寺)を建立した。
皇太子という地位は689の飛鳥浄御原令で制度化された。それ以前の推古天皇(聖徳太子の叔母)の時代にはおかしい。
憲法17条が偽物であることは江戸後期に狩谷という学者が言っている。津田左右吉は、17条の文章は奈良時代の『書紀』『続日本紀』と類似していると指摘。書紀は720年に完成したが、そのころに17条も作文されたのだろうと。
久米も津田も戦前に大学を逐われた。
もし聖徳太子がそんなすごい人ならその死は国家的事件である。が、彼の死に際してつくられたという釈迦像や天寿国繍帳についての記事が書紀には皆無。三経義疏についても書紀に記事なし。これはおかしい。
おそらく法隆寺系の史料は書紀のあとから作られたのである。その逆であるとすれば書紀は必ず法隆寺史料を参照したはずだから。
では書紀はどうして聖徳太子を創作しなければならなかったか。
大化の改新で中央集権国家になったは良いが、663の白村江で唐と新羅に大敗。以後、唐からは敵国待遇となり、遣唐使も派せなくなった。
しかたないので日本は新羅経由でシナ情報を探りつつ、律令国家の確立を急ぐ。
それは701の大宝律令で一応完成した。
それと同時に、律令国家を権威付ける史書が編まれる。
古事記。712にできた。シナ思想が排除され、日本的な天真爛漫な英雄が活躍。
が、702に国際関係が好転し、久々に遣唐使が出された。古事記の世界ではシナの権威に対等たり得ない。そこで儒教の礼を踏まえ、仏教と道教も保護するシナ皇帝と対等の天皇をアッピールする必要があった。こうして書紀が編まれた。
藤原不比等は儒教派。長屋王は祖父の天武天皇と同じく道教派。そこに718唐帰りの僧・道慈が加わり、書紀を編纂。
儒・仏の権威者がうんと昔からいたことにしたかった。それには子孫が絶滅している厩戸王に仮託するのが都合が良かった。
その後、宮中角逐から法隆寺に帰依すればよいと説得された光明皇后が遺品蒐集に乗り出し、ここで義疏や繍帳が捏造された。736以降のこと。
唐や新羅から舶載されたもののうち、最新文物は聖武天皇が貰い、古そうなものは法隆寺に送って太子遺愛の品とされたろう。
神功皇后は斉明天皇(白村江に出兵したときの女帝)がモデル。竹内宿禰は中臣鎌足がモデルだろう。しかし古事記のキャラは素朴すぎた。
書紀が創った太子だけがシナと並ぶことができる。日本はシナに遅れていないと信ずることができる。だから日本人に崇められた。
※ゲルマン人も素朴だが民主主義について誇ることができる。古事記の世界はそこが弱かった。
▼Jane’s Infantry Weapons 1985-86
PPIとよばれる新型のAP弾頭技術。7.62×51mmでレンジ300mの場合、10ミリのアーマープレートを貫通できる。同射程の.50弾頭なら25ミリである。
最新のBody armor は5メートルから発射された7.62ミリAP弾をストップできる。
この時点での世界の小銃擲弾の性能。径55ミリでレンジ650m、ただしロケットアシストのものあり。また径75ミリで375mのものあり。径35ミリで水アブソーバー使って肩射ちで600mレンジのものあり。
ところがM-16用の140ミリRAWはHE弾頭を2000mも飛ばすことができる。
この時点でのゲリラ用ロケット砲。ユーゴ製の128ミリロケットランチャーは、弾重が23kg、中味は2.3kgのRDX/TNTで、ランチャーが22kg、射程が8600mある。