摘録とコメント

▼清沢洌[きよし]『日本外交史 上・下』S17年、東洋経済新報社pub.
 1921海軍制限国際会議を提唱したボラーは、ウィルソンの国際連盟案に最も強く反対した男。
 尾崎行雄はかつては、日清開戦の急先鋒であり、また大正3年には国務大臣として大隈内閣の二箇師団増設に賛した。
 日英同盟に未練あったのは、首相ロイド・ジョージ、外相カーゾン、海相リー、バルフォア、オーストラリア、ニュージーランド、及びインド。カナダが米の意を受け反対(p.402)。
 米英2洋分担の提案者はリー。
 会議前のワシントンでヒューズと幣原大使が頻々と会見するので、カーゾンは英国を除外することの苦情を林大使に云った。
 日本全権。加藤海相。徳川貴族院議長。幣原駐米大使。埴原外務次官(はじめ随員、のち全権昇格)。海軍専門委員として加藤寛治。※政治家がいない。
 米はヒューズ国務長官、ルート上院議員、ロッヂ上院議員、アンダーウッド上院議員。
 英&帝国はバルフォア樞相、リー海相、ピアース豪国防相、サルモンド新西蘭大審院判事、ボルデン前加首相、サストリ印度行政参事会員。随員ハンケーは陸軍出身で内閣書記官長になり諸事録を作った。
 ヒューズ提案におどろいたのは、ふつう会議は儀礼的式辞に始まるのが常だったため。「この計画」の秘密は最後まで保たれて毫も外部に漏れなかった。※秘密保持のできるシビリアンであって、はじめて政府としてプロ軍人を黙らせることができる。
 加藤の太平洋防備提案に米海軍は反対せしも、ヒューズはそれを抑えた。
 この会議に終始賛成の清沢いわく、「即ち米国は日本と戦争する場合に、少なくともハワイを基地とせざるを得ず、そこから行動して米国に戦勝の見込みはない」。だからシンガポールを借りるしかない。
 同盟存続を主張する濠州及びニュージーランドも、日本との接近提携を図らんとするものであるよりも、寧ろこれによって日本の行動を控制せんとする内意をふくむものである。
 1919-4-7、パリ講和会議で米大統領に随行したベンソン提督提出の「アメリカ海軍政策」の中で、イギリスの狙いは、海底電線、無線電信、商業航空、海運、燃料上の便宜、燃料資源の6つを支配することだと。
 12-1、加藤がバルフォアに太平洋問題を持ち出す。
 12-12、ヒューズは日本が5:5:3認めるなら、またハワイを含めず、日本の島を要塞規制対象に含めるならOKと。
 12-15、陸奥問題決着。また、太平洋合意を発表。
 その発表について文句。
 その文句に対し、「琉球以外に海軍根拠地候補地なし」と。※根拠地は要塞より格下。
 結局、アリューシャンと引き換えに、小笠原、奄美の非基地化を約束したのが第19条。
 ※この会議のあと、米国は日本の仮想敵ナンバーワンになった。
▼東方通信社調査部 ed.『華府会議大観』大11
 Sir Aucland Geddes は駐米の英大使。 Elihu Root は前国務卿。M.Jusserand は仏の駐米大使。 駐米大使の全権参加はどの国も常例。
 ロッヂは比率相談の前に4国協案を発表し、その大前提にヤップの解決を必須と宣言。
 4国条約第1条のinsuler possession (or, dominions)が日本本土を含むかについてのヒューズの疑義は、12-20午後の記者会見で表せられた。
 その1時間後、ハーヂングが記者会見し、日本本土含まないと打ち消す。
 その夜相談し、21日ヒューズは、日本本土含むと再確認。
 「日本本土含む」に本国で反対したのは、ボラー、リードの2上院議員(p.122)。
▼斉藤直幹『国防経済研究』第1号、1936
 華府会議では3000tの水中防禦、馬力upなどの改装がみとめられたため、日本は以来、1億2600万円もそれに投じ、すこしも軍縮になっていない。
▼長沼毅『深海生物学への招待』1996
 チューブワームは1977に発見された。口も消化器もない。
 海で一番深くまで達する光は青色。日本語の赤いはあかるい、黒いはくらいに源がある。
 深海生物が赤いのは、青色を吸収して黒く見え、背景の闇に隠れられるから。
 海洋の平均深度は3800m、陸地の平均高度は840m。陸地をぜんぶ平らにすると、地球は水深3000mの海球になる。
 海の表面の数十mまで、海水がよく混じるので温度変化が少ない。そこから下は600mまで水温が急低下し、それ以深で一定。
 200~600mの途中で水温躍層がある。それ以下は4℃~0℃しかない。
 人が息苦しさを感じるのは酸素が足りないのではなく二酸化炭素の増えたせいなので、水酸化リチウムで二酸化炭素を吸収する。
 二酸化炭素の濃度が10%になれば意識はなくなり、25%以上では数時間で死ぬ。
 チタン合金は真空中で電子線ビームで熔接するしかない。
 深海魚の浮き袋には空気ではなくワックスが入っているので潰れない。豆腐やこんにゃくも水圧で潰れることはない。
 低温で育つ生物の細胞膜には不飽和脂肪酸が多く、それで柔軟性を保つ。
 500気圧以上ではネズミの細胞骨格のタンパク質が構造を保てない。
 紫外線は水中数十mで無影響になる。
 深海生物は紫外線には無力で、照射されるとイチコロ。
 374℃以上では、いくら高圧にしても、純水は液体としては存在し得ない。
 メキシコ湾沖には海底から原油が漏れ出している。石油があれば硫化水素ができ、そこにチューブワームが集まってもいいはずだ。
 サンタバーバーラ沖も海底から原油が染み出していて、船で近づくとすでに石油臭く、その臭いが風向きによっては町まで漂う。しかしチューブワームは発見できていない。
 海水にもっと鉄分が増えれば、光合成が増すという仮説がある。
 金属硫化物パイライトは fool’s gold と言われ、金色。
 窒素80%の大気を水深40mで吸うと「窒素酔い」となり思考力が低下し多幸感がもたらされる。50m以深では、ヘリウムと酸素の人工空気でなくてはならない。それでも潜水病の危険はある。
 飽和潜水によれば500mまで生身の人間が潜れる。あらかじめ加圧室で予定深度の人工空気に体を慣らし、エレベータで現場へ降り、数日間の海中作業ののち、また減圧室でゆっくり元の気圧に戻す。
 ダイビングスーツは宝探しの欲望が進化させた。現在では500m耐圧のものがある。
 1951にマリアナ海溝に世界最深の10863m地点が発見された。それ以前のレコードは軍艦「満州」が測深した9818mだった。
 火山学者は海洋学者よりも怖いもの知らず(p.223)。
 アルビン号の場合、人の乗った耐圧部分だけを分離して緊急浮上させることもできる。
▼西沢利夫『航空機・宇宙産業』S62年
 民需主体社はエアバスとボーイングのみ。
 Propfan もハミルトンスタンダードの提案(p.44)。
 航空機用エンジンは、コンピュータより数倍もトン当たり価格が高い。
 リチウムは密度最低金属でアルミの1/3のみ。
 ベトナム特需ピークは1968年だった。
 DC-3が成功しすぎたため、ダグラスのジェット化は遅れをとった。
 グラマンもF-8Fにこだわりすぎ、同じ末路に……。
 グラマンだけが東海岸に本拠を置く。
 RRが倒産した時、技術者はGEに流れた(p.276)。
▼シャープ&ウェストモランド『ベトナム戦争に関する報告』S44
 北ベトナム内へのナパーム攻撃は、ローリングサンダー6までは禁止。
 捕虜いわく、B-52が最大の脅威だった。
 1964にRPG初使用。1966、それが著増。
 120ミリ迫は1966初使用。
 河戦でのトレンチフット(浸水足)対策として、2日交替制をとれ。
 1967-2にレンジ8000mの140ミリのソ連製ロケットが投入された。
 1967-7に、射程11000mの122ミリのソ連製ロケットも現出。
  ※これらが日本の共産主義者の手に渡らなかった理由は何か。
 1967-2-22、ナムにおいて初のパラ降下。
 ベトナム軍は日本製70ミリ榴弾砲まで使っていた(p.327)。
▼G・B・マレソン『印度に於ける英仏争覇史』大沢良蔵 tr.S18年
 “History of the French in India” 
 セポイのアイディアはフランス人。
 フランス人はいかにドジか(p.433)。
 ナポレオンが1814に帝位を失ったのは、自尊心という感情に支配されたため。
▼『水木しげるのラバウル戦記』1997、初1994
 南方に向かう一個大隊が600人くらい。
 パラオからラバウルに向かう輸送船が、あのバルチック艦隊発見の信濃丸のなれのはてだった。ペンキを節約しているので、もうおしまいだと思うほどみすぼらしかった。7ノットで進んだ。
 ビルマからラバウルまで使役で連れてこられた老印度兵もいた。
 ココボの慰安所は日曜か祭日の営業で、沖縄の人は「縄ピー」、朝鮮の人は「朝鮮ピー」と呼ばれていた。軍隊も日曜日は休み。
 土人は子供でもタバコを吸う。20歳の水木はタバコを吸わなかった。
 20機以上の「ロッキード」(P-38)と3機の零戦の空中戦の下で洗濯をしていたら近くに空戦で発射された機関砲弾が落ちてきた。
 マラリア対策にアクリナミンという黄色い薬を渡される。
 土人は夜、木魚のようなものでポクポクと連絡している。
 ニューギニアでもアフリカでも現地人に嫌われたことはないがアラブ人はだめだ。写真をとると激怒する(p.49)。
 バナナは実は30種類以上あることが分かった。
 ラバウルのバルチン山に登ると、下で作業しているさまから話し声まで聞こえるので高地の価値が分かった。
 大発ほど便利で無駄のないものは初めて見た。
 ココボから前線に行く直前に金属製の「認識票」を貰う。
 大隊長は27歳の大尉だった。
 大発には40人の兵隊、すなわち1個小隊が乗った(p.69)。隊長は特別に連隊本部からきた中尉。
 全部に大砲を搭載し、前面のランプを上げずに大発は夜出港した(夜しか動けない)。大発はタンタンタンというエンジン音がある。
 豪州兵の死体から靴をとってきたら、古兵たちに元にかえしておけといわれた。
 陸軍ではめしだけは初年兵にも平等(p.81)。
 波の音は海岸よりも山に登るとよけいによく聞こえた。
 半年いると、美味い椰子の実の識別ができるようになる。
 サイパンがやられたときのラバウル空襲は見ていてすごかった。また魚雷艇が山の上の宿舎を銃撃してくる。
 豪州で訓練された自動小銃をもった土人をナンバーテンボーイと呼んだ。
 靴下4本に詰めたコメはすでにかなり重い。缶詰は牛缶ばかり4個、小銃弾150発、鉄帽。
 文字の書けない船大工の兵隊がいた。
 分隊も土人を雇う。ソルジャーボーイという。しかし敵のスパイであることもあった。歩幅で宿舎の大きさを測っていた。
 洗濯物は岩に貼り付けておくと30分で乾く。
 海軍基地では給養がよく、陸軍のようにくたびれていなかった。
 行軍中に小銃を1発射っても必ず銃腔掃除をしていた。
 土人は蚊避けのために屋内で火をおこして寝ていた。
 1本だと暗闇の中でまったく目立たず、しかしそれを投げて一箇所にまとめると派手な炎となるたいまつを土人は持っていた。
 土人も珊瑚の上を裸足で走ることはできない。
 マラリアに水浴は禁物で、うっかり手拭で体を拭いただけで40度の熱が出て、暗い穴の中で1週間も寝ることになる。
▼マキアヴェルリ『ローマ史論 I、II』大岩誠 tr.S24~25
 ※歩兵を徒士組、騎兵を馬武者組と訳す。
 人間は必要に迫られてこそ善を行なう。
 共和国に戦いをしかける目的は二つしかない。その国の支配者になることと、自国が支配されることを防ぐため。
 人間の世界では何ひとつ永久不変のものはないのだし、物はみな静止したままではいられない。
 スイス人は古代人を偲ばせる唯一の国民(p.82)。
 ローマ軍が鳥卜に逆らって戦勝した話(pp.87-8)。
 ベネチアのように非常時には少数市民に対策専断権を与える制度を持て。「こういう権力を認めない共和国では、国家が厳重に法律的形式を尊んで亡国の悲運に陥るか、国家福祉を求めて法律に背くかの二つに一つの外にみちはない」(p.153)。
 乱民は導けるが、乱主をさとすスベはない。
 多くの史家は、ローマの覇権は武勇よりむしろ幸運によった、と。※→英帝国についてのシーレーのレトリック。
 昔の方が「今よりもはげしく男の子を欲しがったので、今日より遥かに人民の人数も多かった」(II、p.32)。
 キリスト教会は過去の歴史記録を抹消した(p.45)。
 フランス人のいわゆる大軍即決。コルテ・エ・グロッセ?
 ガリア人は移住のための皆殺し戦争をした(p.54)。
 モーゼもそれをやったのだ(p.56)。
  ※皆殺しだからゲルマン慣習法では侵略者に正義があるとして文句が出ない。そして奴隷が発生しない。しかし英国内では皆殺しが起きず、その結果、既存王権の尊重と、反慣習法たるエクィティが意識される。
 大地から離せば不死身ではなくなる、との古神話は、国外におびきだして敗戦させた故事の比喩(p.73)。
 「敵地の真只中にいる軍兵どもは、どうしても戦わねばならぬといふ気持も強くなる。……この強制こそ勇気を鼓舞する原動力なのである」(p.74)。※同じことを三巻96頁でも。
 日頃武装を整えている国民なら国内で、ひごろ丸腰の国民は遠くで戦え(p.77)。
 策略の必要は、クセノフォンの労作から学んだ。
 密集隊形で大砲や城壁にむかわなければならない。イタリア式散開はダメだ。※こういう有力意見も過去にはあったわけである。
 解説。「支配するには仲違いをさせろ」はローマ人の言。
 ポリュビオスは批判的に、リーウィウスは賞讃的にローマ史を書いた。
 本書は君主論より後に書かれた。
▼軍事史学会『軍事史研究』vol.1-2号、S11 ※1960から『国防史学』?
 ▽原田二郎「易城」
 「金木水火生境家土」「地に金木水火の地、西高向東を金性と為す」
 ▽有馬成甫「地聴に就て」vol.1-5号
 シナの甕。三方向に口がある。その口に薄皮を張り、井中に土におしあてて、敵の攻兵が坑道を掘っているのを探知する。
▼『国防史研究』No.3、1962・ 佐藤堅司「宮本武蔵の兵法観…」
 北条氏長は1609生まれ、武蔵は1584生まれなので、交流があってたもおかしくない。
 無構=無形だ。
▼『軍事史研究』No.8、S39 ※「国防史~」からまたまた改名。
 升本清「幕末の築城」
 幕末日本に導入されたオランダ築城書は……。
 カルテン「海上砲術全書」1832
 ベウセル「砲術書」1834
 エンゲルベルト「海岸要塞」1839
 ケルクワイク「築城術」1846
 メルクス「築城法」
 サファール「築城原理」(仏書の蘭訳)
 パスチュール「工築ハンドブーク」「工兵学」
 五稜郭はアーチ技術が未導入だったため露天砲台となり、艦砲に心理的に抗堪できなかった。復座斜板の着眼もなし。旋回砲架、ひとつもなし。
▼雑誌『海軍』某号
 subの備砲はWWⅠ中、商船破壊のために必要になったが、商船の自衛火砲に対抗するため、大口径化したと。
▼A・M・Kotonev『支那軍事史』1940訳
 ※ロシア人が孫子に言及している早いもの。
 シナ兵は死ぬ時に誰の名も呼ばない。
 管子は孔丘の150年前の人。E・H・パーカーが訳している。
 墨子はいかなる進撃にも反対したが、専守防衛の実際を考究した。
 ジャイルズ訳の『孫子』がロンドンで出たのは1910か?
 管子は哲学者だったが孫子は職業軍人だった(p.25)。
 ジャイルズで読んだ著者は、古代兵の士気について誤解している(p.29)。
 1661に明の鄭「国姓爺」成功は、軍を率いて台湾に渡航し、オランダ人の要塞ゼランディアを包囲して降伏させた。
 シナ兵は旗や紋章を失っても何とも思わない(p.64)。
 太平党は、側面を騎兵に守らせた密集歩兵。
 袁世凱軍は、モーゼル、マンリッヘル、少数のリー・メトフォードライフルおよび各カービンを装備。
 孫逸仙「支那で自由を叫んでも少しの注意も払われないだろうがもし財産を作ることを提案するなら民衆はこぞって歓迎しよう」(p.129)。