摘録とコメント。

▼Ernesto Massi・他『アメリカ地政治学』S16、原1941
 ※海大の蔵書印あり、そしてパナマ運河のイラストには「封鎖線」を朱ペンで書き込んである。翻訳の早さといい、もうマジですね。
 1914までの南米は単純に植民地で、その都市は、輸出のための交通基地に過ぎず。
 南米内の国家間紛争は「大洋への共通の出入口をどちらがとるか」
 1936に英はマヤ連峰の山麓(グアテマラ、ホンデュラス)に、独・墺・チェコの亡命者たちの植民地を定めんとした(p.184)。
 ホンヂュラスの河川による国内交通は、多くUnited Fruit Companyによって管理されている。
 1920頃、サウスジョージア島付近で年平均1万頭の鯨を捕った(p.191)。
 1940頃のフォークランド守備英兵は200名。
▼京大文学部西洋史研究室 ed.『傭兵制度の歴史的研究』1955
 スイス応募兵は飢餓線をさまよっていた貧民たち。
 英の対植民地革命鎮圧の要訣は、ニューイングランドを制するハドソン河の確保と目された(p.473)。
▼Joseph Marz『海洋地政治学』S16、原1937
 ※著者ヨーゼフ・メルツは独人也。
 アングロ・イラン会社の石油産出量は、1931に6300000tで世界の3.3%、1932に7000000tで世界の3.8%、1933に7100000tで世界の3.4%だった。
 当時、直接にイギリスの勢力下にあったのは、イラン、ビルマ、イラクの一部の油田。 大英帝国の横軸、すなわち英←→シンガポールに沿って油田がある。 
 東アフリカ領有に際して英はザンジバルの保護を重要視し、1890ドイツはそれを諦める代わりにドイツ寄りの北海河口に突出したヘルゴーランド島を交換物として領有した。しかしWWⅠ後、要塞は壊された。
 1939刊の「海軍評論」p.409に、海軍の保護による南方石油地域への進出を、海軍大臣が意見している。
 1937英人はカナダ人の35倍額を納税している。アンザックの3倍でもある(p.77)。
 英の地中海進出は、ミノルカ、エルバ、カプリ、コルシカ、ダルマチア沿岸諸島、イオニア諸島などの島嶼の占領によった。
 フリードリッヒ・リスト(1789-1846)は、香港占領前に「イギリスにとりアフリカは、インド、シナ、オーストラリアへの商業路としてのみ価値がある」「経済学は国家の特色に従って異り、時間的制約の下に立つ」と。
 1937のイタリーとフランスの潜水艦数は11+7隻で、英は15隻(p.155)。。
▼C・B・フォーセット『政治地理境界論』S7、原1921、Oxford刊
 ボーダーラインではなく、帯としての Frontier line を説く。
 ライン地方で話されるドイツ語は内部ドイツのそれよりも語尾の変化に注意しない。
 「マーク」。中欧原始林中の部落を囲繞する非居住広野で、よそ者がここを通過するときは、指定通路を守るか、自己の存在をあからさまに表わさなければ危害を加えられた。奇襲防止用の慣習。※「ディマーケイション」という映画があったな。たしか邦題は「戦争のはらわた」?
 ナポレオンいわく、仏帝国の辺境障害で、エジプト=シリア砂漠が最大であり、アルプスがそれに次ぎ、河川は第三位だと。※攻める立場? 守る立場?
 1890’sまでサハラを超えた軍隊はない(p.42)。
 アルプスの不均等な起伏は、イタリア側からの侵入を難しくし、南独側からの侵入をたやすくする。しかもイタリア側へは必ず分進合撃となる。
 山地は統一的言語を有するのが普通なのに、山頂を以て二国間境界としてしまうから、少数言語問題が起こる。
▼戦略問題研究会 ed.『戦後世界軍事資料・3』
 1950頃までは核兵器は米原子力委員会と軍の共同管理だった。トルーマン以後、軍の専管となった。迅速使用のため。
 1972春、南越軍の独力と北越軍は実力均衡していた。1973-1の停戦協定へ。
 第四次中東戦争で米はイスラエルに8000トン空輸、蘇はアラブ側に13000トン空輸+海上α
 1973にF・Ikleは論文にて、地下数千フィートから数週間かかって地上に出る戦略報復兵器を提案。同論文はまた「時間こそ、錯誤に対する最良の薬」と。※地下軍隊が忘れ去られて……というマンガはここからか。
 G・Santayanaの名言。狂信者は、彼等の目標を見失ったとき、彼等の努力をさらに倍加する。
 マイケル・ハワード1973論文。「核のクレディビリティを発揮するには、その地域への通常戦力投下のクレディビリティが先立たねばならない」。※日本がシナの攻撃を受けた場合も同じこと。軍艦で反撃できぬ国がどうして核兵器で反撃できようか。
 ハワードまたいわく、「欧州に強力な通常兵力を置きさえすればソ連は核を使えない」。※さすが英人でよくわかっている。全西欧を占領できるからこそ核を先制使用する価値がソ連にはあったので、占領という政治目的が防者の通常兵器によって実現できないと分かっていたら核だけ発射しても危険・高価・不利なだけである。
 ※もしもソ連が米国と同じ島国だったなら、とっくに核ロケット戦争は起こっていた。核破壊をうければ周りからどっと攻め込まれる立場であるがゆえに、ソ連は慎重であった。
 A・Wohlstetterの1973論文。通常と大量核の中間──戦術核──の段階があるから、そこで終結のチャンスが生まれる。
 H・P・Truemanの1971論文。機甲部隊は現在、1日に50ないし100キロのスピードで前進する。
 1970にニクソン政権が基地内で化学処理の上、廃棄を決めたB兵器は、アーカンソー州パインブラフ(対人用)、コロラド、メリーランド、カリフォルニアの三箇所(対農作物用)に貯蔵されていた。
 韓国は1970をもって号令と動作を米軍式から国風に変える。71年にM-16のライセンスを取得。
 1966後半より、ソ連はモンゴル内にロケット陣地をつくる。※マジでシナをやるつもりだった。
 対シナ作戦用の機甲主力はモンゴル北のザバイカル管区に集めている。
 1973当時、シナの40隻のディーゼルsubは黄海から南支那海の間を浮上せず潜航(p.146)。
 72頃の北ベトナムの保有トラックは2万前後。ソ連からは年8000台の援助があり、中共からは年2000台の供給があった。
 北ベトナムへの石油はシナからパイプラインで毎日1000トン送られていた。
 71年に米軍は6.7トンの「コマンド・ボルト」をC-130から投下し、一挙にヘリパッドを啓開した。
 破壊再生森林にはダニ、ネズミが増えるので、生物兵器の効果も倍加される。
 1973-11-2ワシントンポストはソ連がSCUDをエジプトに送ったと。
▼『戦後世界軍事資料・4』
 現代は「決戦のない長期闘争」なので、クラウゼヴィッツの「彼我双方が決戦を求めない場合の戦場防御」が適合する。
 攻者は、「決戦にならぬよう、できるだけ広い地域を占領せよ」「敵の有力な倉庫を占領せよ」「防者が守っていない要塞をとれ」「有利な小戦闘を求めよ」。※いまシナがやっているのはコレ。
 防者は「要塞の前面に兵力を配せ」「戦線を延ばして防衛せよ」「敵の側面を脅かす配置を」「不利な戦闘を回避せよ」。※つまり早く下地島に空自を置けってこった。
 SIPRIのTsipisによる方程式。イールドの「三分の二乗」を、CEPの二乗で割れば、ハード目標キル能力(K)は算出される。
 リッチェルソン1980論文は、ICBMでソ連の政治指導者を殺すと、残った軍人では戦争を終わらせられない、そこで対西欧侵攻力を狙え、と提唱。
 1974に米はギリシャ国内にオネストジョンの核弾頭部をもつ数個の基地をもっていた。
 韓国がF-16を希望しているとの報道がされたのは、1976-12のNYT。
 1981-11-10のロストウ(レーガン政権)によるガイドライン。ソ連のSS-20に対抗し、シナおよび日本への戦域核配備を考慮する。※これに乗ろうという日本の評論家がいたわけ。
 1982-2-7のFY83国防報告 by ワインバーガー。ソ連を極東に分散させるためシナを準同盟国扱いとし、補給支援したい。※これも日本が頼りなかったため。
 B-52、B-1に空対艦ミサイルを搭載して海軍に協力せんとしていた。
 83年、リビアに抗しているチャドへも米はレッドアイを供与した。※スティンガーの一代前のタイプ。
 1983に未発表に終わった西独国防白書は、ソ連の軍事力は米が言うほど大きくない、と指摘していた。※偵察衛星がなくともこれだけの判断ができた。それに比べて北鮮が核武装していると何の根拠もなく信じている日本の言論人ときたら……。
 1981に全大統領は戦闘機の国産を予告した。
 1983、政府は緊迫時の米軍による3-Straights の封鎖を考慮すると発表。※米軍は自前で三海峡くらい封鎖できるのであった。そしてレベルの低い日本のマスコミでそれを解説したところは一つもなかった。
▼フェルヂナン・フォッシュ『戦争論──戦争の原則とその指導』S13
 原1903、その第51版が1918だが、初版と1904版からの抄訳。
 日露戦争は、欧州にとり戦訓たり得ない(p.10)。
 火器の数で上回れば、攻者はそれだけで優位である。※マスケット時代の考え方。
 古いローマの格言「同時に二つの戦争は決して行ってはならない」(p.34)。
 モルトケ「敵主力との第一回遭遇までしか、作戦計画は立たない」「最初の集中に当たって犯した過誤は、戦役間には訂正し難い」。
 モルトケ「敗退した一軍が新たな軍の来着によって前方に推進された例しがない」(p.101)。※まさに赤軍の流儀がこれであった。突破に成功しているスピアヘッドに対して全予備を送り込む。悪戦停滞している部隊へは増援をしない。
 クセノフォン「兵術とは行動の自由を確保するの術」。
 フォン・デル・ゴルツ「敵の戦闘員を殲滅するは敵の勇気を皆無ならしむるに比してその価値が少ない」。
 陸大は“Ecole de Guerre”也。
▼フラー『制限戦争指導論』
 30年戦争(1618-1648)では、軍人35万人、民間人800万人死亡。
 1805ションブルーンでナポレオンはメッテルニヒに言う。自分は1ヵ月30000人を損耗しても構わないと。徴兵制のおかげで。
 「将帥は状況図を描いてみるようではだめだ。つまり将帥の聡明されは望遠鏡のレンズのようにすみきった状態にあるべきだ」/ナポレオン。
 奈翁いわく「大隊長は全将兵の名と能力を6ヶ月で覚えるまで休息するな」(p.57)。※今日ほとんどの軍隊でこれは実行されている。
 N.B.いわく「自分が3~4ヵ月先に何をすべきか考え抜くことになれる」
 セバストポリで使用考慮され、斥けられたのは、硫黄を使った「焼夷窒息弾」。
 南北戦争の動員。北は289万8304名。南は122万7890~140万6180名だった(p.148)。※黒人従兵をどうカウントしているのか?
 小銃射程が大砲射程を上回った南北戦争で、正面攻撃はすべて失敗した。1862-12-13フレドリックスバーグでは北軍バーンサイドが、1863-7-3ゲティスバーグではリーが、1864-6-3コールドハーバーではグラントが、いずれも撃退されている。
 南北戦争は本格的塹壕戦で、シャーマンすら築城をさせ乍らアトランタへ進軍したのである(p.149)。
 シャーマンの副官は、シャーマンを「民主主義者で少しもヨーロッパ的なところがない」と。
 露土戦争では、塹壕にいる小銃手の防御力は絶大だった(p.176)。
▼総力戦研究所『長期戦研究(1)』上・下 S20
 モルトケ「等しいものを加える時には等しい」。
 戦争回避の努力をしていた国が戦争を避けられなくなったとき、明確な指導理念を用意していた実例はない。
 国産愛用は戦争準備のインディケーターである。
 WWⅠ準備において、独は国境中心の交通網、露は都市中心主義の通路を整備したため、動員に大差が出た。
 文禄慶長役の水軍も陸に従わされて負けた(p.40)。
 長期戦の過程における占領地の拡大は必ずしも戦捷の象徴ではない(p.51)。
 WWⅠで独は農民問題を扱い損ねて失敗。ヒトラーはそこで「農民と土地」を訴えた。※WWⅠの食糧危機の想い出がウクライナにこだわらせたのだろう。またペテルスブルグを餓死させられると信じたのだろう。
 英海軍はその実戦重視の伝統から参謀将校の出現を喜ばなかったが、チャーチルの技術的見解により海軍参謀部が設けられる。
 WWⅠ前半に独艦が英本土を砲撃している。そのごはZeppelinに代わる。
 独はWWⅠ当時から、ルーマニア石油、ウクライナ農産をはじめ、東部を自給のための掠奪地としていた。ポーランド人の動員も。
 WWⅠ中の独の対内宣伝は、初期はロシアに、後期は英に敵愾心を指向せしめた。
 コンボイ式は一青年士官の建言で、ロイドジョージが採用。前海相チャーチルは商船員にその伎倆なしとして反対。
 英ではある作戦が失敗すると関係閣僚が辞職する。ダーダネルスのときはチャーチル。メソポタミアのときはチェンバレン。
 フレンチは新聞を利用して本国にタマ不足を訴えることに成功した(p.429)。
 英上流階級は、秋口から春までの9ヶ月間を田舎で狩猟と乗馬についやし、5月にロンドンに集まって社交を愉しんだ。しかし徴募あれば長男以下全男子を捧げた(pp.435-6)。
 ヴィタミンはWWⅠ直前の発見(下巻p.5)。
 末期ドイツは砒素生産が落ちてガス戦を続けられなくなった。
 火砲の音源探知機は英仏共同開発である。
 開戦前の独仏英の重機は2184/1872/158梃という比。休戦時には15700/12200/5500梃に増えていた。
 WWⅠの撃墜の六分の一は地上火器による。
 ガス死傷者は、英187000人、米76000人、仏244000人。
 当時、ノーベル賞数でみると、独は化学、英は物理で勝っている。
 戦争初期には「誰が始めたか」論、後期には目的論が活気を帯びた。※前者をレーニンが批判する。
 初戦で上下あげて最も熱狂的だったのはロシア(p.35)。
 プロイセンでは官僚(含・軍人)の上層は、貴族が占有するので、田舎人は政界に入るしかなく、政府と議会はソリが合わない。
 ルーデンドルフはカトリックをユダヤと並列に悪罵す。
 ロイドジョージは大陸指揮権をFoshに一任。
 「14ヶ条」はむしろ英宣伝機関により世界に広報された(p.66)。
 独露が10.5cm砲や10cm砲をそろえているとき、仏は7.5cmばかりだった。
 仏は防諜強化の一環に前内相マルビーを漏洩の罪で2年島流し。
 労働力不足をおぎなうために仏は5000人のシナ人まで雇っている(p.109)。※この延長で周恩来とトウショウヘイが渡欧してアカに染まることに。
 ロシアは東には食糧余り、西の戦線と都市部では不足した。運べず。食糧を輸送優先の末位としていた。※だから国内が混乱するたびに鉄道が止まって大量の餓死者がすぐに出る。
 仏の自動車は戦中に急発達。馬がとられたことと、米からの石油援助。
 ロシアはWWⅠ中にウォッカなど酒類の販売を禁じた。
▼長谷川重治『科学捜査』04
 死体は地上に置いておくと最も早く白骨化する。
 水中はその二倍、土中は八倍かかる。
 タイヤにふみにじられてできる、皮膚と肉とのスキマを「デコルマン」という。
 22口径のピストルの弾すら、1.6kmも飛ぶ。
 銃器の刻印を削っても、ひずみを電気的に浮かび上がらせることができる。
▼塩原俊彦『ロシアの軍需産業』2003
 2003のイラク戦争でM1×2をやっつけたのはロシアの「コルネット」ATMか?
 これはニューズウィークの報道で、ウクライナからの密輸であるという。
 ソ連時代、労働者の所得税率は最大で13パーセントに抑えられていた。消費財の小売価格を高めにしておき、その売り上げに対する取引税が高かったので。
 なにより、国家が生産企業から買い上げる価格を低くし、それを国民に売りつける価格を高くし、さらに賃金を低くしていたことが、ソ連政府の最大の「税収」だった。
 ソ連は90年には戦略ミサイルを年産190基であったが、94年には25基に落ち込む。
 戦闘機は、500機以上つくれたものが、93~94の二年間でわずか23機。
 92~99に国内向けに製造された戦車は31両のみ。これもソ連時代には年産1300両可能だった。
 ソ連時代の韓国に対する債務を、ロシアはT-80Uで支払った。
 ソ連時代は軍用主義で、トラックは4~5トン積みが8割だった。それで空のトラックをやたらに走らせる不経済だった。
 そこでGAZ=ゴーリキー自動車工場 は、小型トラックを生産し、大成功。
 戦車生産のメッカは、ウラル車両工場。
 ガンベッタのシシリアマフィアの定義は、警備という安全保障サービス供給に特化した会社の一群で、問題解決に暴力を使用する組織。
 これがそっくりロシアにある。
 過度の自由化を推進するIMFや米国の背後には、自由化で得をする投資家、会計・法律コンサルタントが存在する。
 会計監査をする者がコンサルタントをしてよいわけがない。エンロン。ワールドコム。
 ロシアの輸出での稼ぎ頭は、航空機。武器関連の75%を占める。
 それも、ほとんどはシナとインド向け。
 90~99年に打ち上げられた人工衛星。米542、露CISが510、欧州109、日本37。
 ロシアの投資環境整備状況は、シナの半分の水準でしかない。
▼2003-2 土屋龍司 tr.、David Chuter『国防の変容と軍隊の管理』原2000-8
 ソ連軍の大弱点は有能な下士官皆無で、その仕事をすべて将校がしたこと。
 フランシス・フクヤマの「信頼の高い社会」は個人の利益より全体を考えるようになる。「信頼の低い社会」は個人、家族の私益を優先すると。
 チューターいわく、何世紀も前に、人はカネよりも、同僚の称賛をえることのためにはるかに一生懸命働くことを学んでいる。
 将校には過酷な任務になったときに辞めることができるような契約条項はない。
 法に反する命令はそれじたい無効である。サウジ国内法により米軍は女性兵士をドライバーにできなかった。
 支持されない命令は、書類がなくなる、約束が守られない、会議が行なわれないなどして、決して実行されない。
 この著書では大佐以上の将校について考える。
 軍人食堂を民間に運営させるときっと汚職が起きる。だから将校食堂は兵隊にやらせるのがよい。
 戦争論のうち著者が生前全面改訂できたのはBook-1だけ。だからそこだけを完全なクラウゼヴィッツの論としてとりあげた方がよい。
 クラウゼヴィッツの時代は侵略戦争は国家の権利だった。
 アメリカの高級行政官は政治任命であり己の次のキャリアアップに興味が強い。だから国際会議で一時的な妥協ができにくい。
 conpetence は権限と直訳されるが、意訳すると タテ割りの権限のこと。英語にはなじんでいない概念だ。
 「組織図」は何も説明しない。それは最も重大なことを隠している。かかれざる網(ウェブ)が決定を機能させているのだ。
 「ある国の自由や独自性は、その国の指導者集団の精神の中に存在する」※よって団塊世代は排除さるべし。
 韓国軍はオーストラリア軍より強大だが、独自の指揮権を有しない。海外派兵も一存で決められない。
 情報は「収集」され「分析」され「活用」されねばならない。
 昔の英語でintelligenceは「ニュース」の意味だったが、今ではespionageと同義である。
 ただし英語ではintelligenceとinformationが明瞭に分離される。仏独語では分離されない。
 「赤ファイル効果」…表紙が赤ければたいへんな情報が書かれていると思い込んでしまうこと。
 「情報は単一の機関が作成するものであってはならない」p.84
 ただし大臣に二途から情報判断が届けられるべきではない。
 そこで、各情報機関と省庁を横断した情報分析委員会が、内閣総理大臣のオフィスに直属すべきである。
 歴史上の情報の大失敗。そこでは、真に情報が不足していたことはあまりない。たいていの失敗は、分析過程でなされたのだ。多くは人々の先入観や既知情報が邪魔をした。 p.85
 「情報資料の要旨がより広範囲に配布されることによって、議論がより促進される」※つまり隠しすぎは安全・安価・有利でない。
 フランスでは軍だけが情報を収集している。
 世論の支持を考慮するのがpoliticalであり、指導者が国際問題を考えるのがpolicyである。p.89
 日露戦争ではサンクトペテルブルクの誰も、戦線で起きていることを知らなかった。指揮官と国家指導部が通信を頻繁に交わせるようになったのはWWIから。
 1859のイタリアでの殺戮が1864に国際赤十字をつくらせた。
 73年のイスラエルの油断は、元兵士が政治家になっている国ではときどきある。
 PKFなどで海外に出ている自軍の戦車部隊がもしゲリラと交戦して数発発砲しただけで戦場を撤退したら、何もしなかったより悪い政治的結果を呼ぶ。
 ジュネーブ条約や国際条約に違反した政府命令を拒否する義務を将兵は有する。p.99
 投降した軍人の逃亡を防ぐための武力の使用は、たとえそれが死に至るものであっても許容される。p.99
 傭兵、狙撃兵、火炎放射兵、降伏が遅すぎた兵は、しばしば降伏後でも処刑されてきた。
 軍の構成を決定するどのような科学的方法も発見されたことはない。p.100
 国防予算は近年ではGNPの2~3%が相場である。
 国の予算支出可能性を決定するどのような方法も存在しない。p.101
 軍隊というものは、会計係をよろこばすような雇用と解雇の制度によっては維持できない。
 近代的な航空機は、用途廃止まで使うと、調達価格の3から4倍の経費がかかるものである。p.103 ※つまり古いものは早く捨てろ。
 通常削減されるものは、削減が望ましいものというよりもむしろ可能なもの。
 防衛政策と軍の編制は同じ人物が考えて決めないとまずい。p.106
 近世以前の王国の軍隊は、奴隷、犯罪者、外国人傭兵から成っていた。
 ほとんどの戦争において、一般ピープルは政府によって採られる最も過酷な手段を支持し、時にはそれ以上のことを要求する。p.113
 若い軍人に老練な法倫理学者の役を期待するのは間違いである。軍人の倫理逸脱はまず国家の制度によって防止されねばならない。
 軍の管理地の環境保護が先進国では大きな課題のひとつになっている。
 軍は最も広い意味における社会の代表であるべし。
 軍隊は、世論が行ないたいが自分たちでは行ないたくないことを行なう。つまり社会の集約的なid、無我意識である。
 暴力、支配、絶滅の恐怖と同時に嫌悪するものへの攻撃、規律が想像されている。
 一般ピープルの軍隊イメージと実像とはどの国でも何の接点もない。特に志願制の国では。
 「全ての者を納得させることを期待するな」p.117
 説明を受けるグループの全てを歓ばせることは不可能である。
 政策の最後の全てのニュアンスを説明しようとする努力は、無駄な努力である。
 反対世論は誰も事実は求めていない。政府の方針が自分の考えと異なる場合に、政府が嘘をいっているとか間違っていると言うのみ。
 政府発表情報は無視されるか拒否される。なぜならそれは批判する者の偏見と仮定に合致しないからである。
 キャンペーン団体の目的は自己宣伝であり、彼らの運動に沿わない情報をけなすことに利益を見出している。
 政府が対話をしてよいのは、「価値ある対話者」のみ。まずそうであるか否かを見分けなさい。
 その条件の一つとして、彼らが出す提案が常に実行可能であるかどうか。
 より広範に説明することを、公共の利益と取り違えるべきではない。
 p.121 「民主主義は、人々が好きではなく投票しなかった政府と協力する用意があるがゆえに機能しているにすぎない。」
 議会が議会であるがゆえに倫理的に優位であることはない。そのような仮定を認めるな。
 委員会の投票は英国でも現金入りの茶封筒が左右している。
 売国的、十字軍気取りのグループによって政府に透明性が押し付けられるのを拒否せよ。
 日本以外の先進国では議員に政府の秘密を共有させることが可能である。なぜなら人は部内者であることを部外者であることより喜ぶ。
 ※日本ではすべて漏れるので不可能。スパイ防止法がない。
 満足しないことが反体制運動家の拠って立つところである。
▼秋山昌廣『日米の戦略対話が始まった』2002-7
 ※1940生まれ。大蔵から奈良県警本部長、などを経て、91に防衛審議官。97事務次官。98-11退官。防衛局長時代に防衛大綱、事務次官で新ガイドラインをつくる。
 1993における西廣(すでに退官)の意見を聞いた。要旨は……
・21世紀はシナが政治、社会、経済、軍事あらゆる脅威になる。
・21世紀の途中までは米国との同盟が有効だ。
・冷戦はおわったが同盟の未解決部分をなんとかしとかないと有事に対応できん。
・陸海空自は無駄があり他方で必要なことが未整備なので構造改革がいる。
・陸自は定員を減らすしかない。定員割れで通常訓練にも支障が出ている。18万定員は11万に落として良いだろう。
・海自の掃海部隊は規模でかすぎる。P3Cはいくらなんでも100機は要らぬ。50機で十分だ。
・空自レーダーサイトが古すぎ。
・DIAの日本版をつくる必要がある。
 ナイは日本の弁護人である。80年代にボーゲルから学び、経済ライバルを政治ライバルと混同するなとの視点に立つ。
 1995までにこう決めた。陸自は18万から16万に減らす。代わりに即応予備自衛官制度を創る。陸だけ減らす説得は不可能なので海と空も少し減らす。
 つまり海自は60隻を50隻に。
 空自は戦闘機350を300機に。これは書面にせず、口頭で3幕に了解させた。
 法制局は、日本国憲法ではなく「平和憲法」と書け、と要求してくる。それは昭和60年ころから内閣が防衛庁がらみの文書ではそのように書いてきたから。
 しかし最終文書では「日本国憲法」で押し切った。これは橋本と尾辻の手柄である。
 平沢勝栄は防衛審議官だった。
 宮沢は長期プランを考える頭があった。シナの脅威が分かっており、長期的にシナに対して防衛力が弱まってはいけないと信じていた。
 基盤的防衛力とは、日本が空白となってアジアに不安定を招いてはいけないという意味だった。
 旧防衛大綱は、防衛力は無限に増やしませんという上限設定にしか意味はなかった。
 基盤的防衛力構想では、敵は3~4個Dで日本の1~2箇所に上陸してくるのみという阿呆な想定であった。
 新大綱では、「限定小規模侵略独力対処」というコンセプトを外した。
 小侵略でも日米が最初から協力するのは確実である。他方、独立国である以上、自主防衛の精神を失ったらいかんとの批判あって、こたえた。
 中共政府は、日本政府が文書化したもので一喜一憂する。なにより文書の国。※日本=法匪と思っている?
 米韓は合同軍であり、平時には韓国人が、しかし有事には米軍人が指揮をとる。
 が、日米はそれぞれ独立で、共同軍なのである。
 新大綱でも、「我が国に対する侵略の未然防止に努める」としながら「現実に存在する核兵器の脅威に対しては、米国の核抑止力に依存する」と大矛盾。
 中共側役人は会見冒頭で必ず歴史問題を触れてきた。一律なので、党中央の指示と見えた。
 日韓の雪解けは防衛当局同士が最も早かった。
 アセアンフォーラムでの紛争予防外交にはシナがリラクタントで、かかる問題は2国間で解決すればよいと。
 新大綱の師団は6000~9000人、旅団は2000~4000である。
 戦車は旧大綱では1200両定数だったのを600両にする。火砲も1000門を900門に。
 1個護衛艦隊は、対潜中枢DDH×1、防空中枢DDG×2、汎用護衛艦DD×5の計8隻からなる。
 この隊を4つ維持することで、修理中、低練度、高練度、のローテーションとなり、常に最低1個の艦隊を機動的に派遣できる。
 それとは別に、7個の沿岸張り付き隊がある。
 艦艇総数は旧大綱の60隻から50隻になった。
 小沢は政府提案の予算案を政府みずからが修正し、防衛費を1000億円削って湾岸に掃海部隊を派遣した。防衛力整備より国際貢献のために自衛隊があるとした男。
 自衛隊を国連に預けるという小沢に防衛庁官僚は誰もついていけず。
 しかし、制服の中には共鳴者が多く出た。元制服の長野と田村の参議院議員は、これに共鳴して自民から新生党に移った。公明党がまた小沢に考えが近かった。
 センサーと追跡能力なくしてミサイル攻撃対処はできない。
 検討するタイミング→「平時に、かつ、可及的速やかに議論する以外、答えはないはずである」
 アカウンタビリティーは、「説明能力」。これと透明性をもっていれば、軍事大国でオッケー。
 定数、組織、装備が、法律と予算の議決という形で国会の管轄下に置かれている。
 防衛庁長官を文官が補佐する仕組みが「参事官制度」。
 村山が辞めたのは、オウムを破防法適用第一号に指定せざるを得なかったこと、そして反米の大田知事を国として訴えざるを得なかったこと、これに堪えられなかった。
 日本から撤退する場合、米は日本に事前協議の必要はない。
 いったん日本に入った米軍部隊がそこから出られなくなる、などというような不合理は予期されてはなるまい。
 田中外務相審議官は、日米ガイドラインの見直しにも参画。
 新防衛大綱は、限定小規模侵略独力対処のコンセプトを斥けた。
 作戦構想は、航空侵攻、海上交通保護と周辺海域、着上陸侵攻に3別する。※馬鹿馬鹿しい。3自衛隊の顔を立てているだけ。
 他に、ゲリコマと、弾道ミサイル攻撃を想定。
 周辺事態の概念は、地理的なものでなく、事態の性質に着目したもの。そんな事態について、どこから先は入りませんと地理的に言うことはどの国だろうと絶対にできない。
 米軍は自衛隊に対して武器弾薬のニーズはゼロである。
 相撃防止のための要領と相互運用性
 集団的自衛権は、政治的インフラストラクチャー
 「国際協調」…これこそあやふや語。使うべからず。
 米国の対支政策は戦前から一貫で、市場を米国のために確保しようという国益の追求。
 NMDは、2001前半まで米国で大論議。ラムズフェルドは、同年3月にミサイル防衛からナショナルとかシアターという語を除くことにした。
 TMDとBMDはまったく同じもの。後者が日本呼称。米国内は不適用で、海外基地のみを守ろうという構想。
 しかしNMDは米国本土のICBM防禦で、まったく技術も規模も別。
 マジノ線は無駄だったか? ※地下壕を無駄と思ってはならない。
 欧州がABM条約の枠組みが変わるのをおそれるのは、米露関係の悪化を懸念するからだが、この問題はロシアではなく、米支問題だろう。
 TMDはABM条約の対象外だし、ロシアには反対する実益がほとんどない。
 シナはTMDの台湾への展開をいちばん嫌がっている。
 また、NMDはシナの20発のICBM方針を根本から無意味化する。
 子ブッシュは、米支は戦略的パートナーではなくコンペティターと言った。
▼藤竹暁『都市は他人の秘密を消費する』04-10
 著者は大衆社会学の専門家。
 ホフマンの1822短編に「隅の窓」あり。身体不自由な主人公が屋根裏部屋の窓から群集を観察し、推理する。※ヒッチコックの裏窓?
 次にポオの1840短編「群集の人」。ここでは主人公は注目した群集の一人をつけまわす。そして発見する。彼の行動に孤独恐怖以外の何の意味もない「群集の人」であったことを。
 雑踏こそが特定時刻にはエアポケットになるという推理物の嚆矢は、ポオの1842小説「マリ・ロジェエの迷宮事件」。
 都市では、特別なもの以外は透明な存在になる。
 主人公の探偵とは別な報告者に語らせる形式もポオがデュパン・シリーズでさきがけた。
 都市では「見えざる凝視」が必要であり且つそれに満ちている。
 都市では自分が仮面をかぶって匿名かつ自由な観察者になるとき、人は自分自身をとりもどす。
 ステーブン・キングの1995小説では、昼間の変装は無効だとしている。
 エンゲルスは見た。マンチェスターの不潔で家庭的でない労働者住宅では、獣的または病的な堕落した無知なものだけが、心地よさとくつろぎを感じることができると。
 ドイツ人のベンヤミンは1842に「パリの秘密」を新聞連載した。中流以上の読者に、下層階級や、上層階級の実態を体験させてやる。ウケた。エピゴーネン多数。
 1826のクーパーの「モヒカン族の最後」はヨーロッパの都市作家に大影響を与えた。ハードボイルドな主人公はここからきている。共同体をもたない孤独者の活躍。バルザックは「パリのモヒカン族」を書いた。
 1903にジンメルいわく、都会人はなぜ冷淡か。他人の無遠慮な侵入から自分を守るため。それほど密集してるから。
 松本清張は「密室物」は社会から遊離しすぎていてダメだという問題意識があって、社会派探偵小説を開拓した。
 最近はその反動の「新本格派」が多い。あえて没社会的な設定。
 仏語 flaneur=街をうろつく人。遊歩者。※乱歩の「屋根裏の散歩者」もこの影響?
 1833にまずNYでペニープレス(1セント新聞)が登場し、ヒューマンインタレストニュースすなわち三面記事を売り物にした。フラヌールとしてのレポーターを駆使。
 これに1855に英が、1863に仏が続く。※つまり都市化は米→英→仏の順。
 シカゴ学派とはフラヌールによる社会学である。参与観察、フィールドワーク。
 1880頃、米には微罪を処理する「警察裁判所」があり、それは陪審制ではなかった。記者たちのネタの宝庫だった。
 善きことのほか死者を語るなかれ…というラテン語あり。
 19世紀後半の米新聞の特種主義をスタント・レポーティングという。
 クリスティのつくったキャラであるヘイスティングスは負傷兵で、本国で療養中であった。ベルギーの高級警察官であったポワロは戦禍をのがれて英国に亡命してきていた。足をひきずっていた。
 あえてよそ者風を強調することで、小さい村の中の住民の口を軽くした。というのはポワロ経由で秘密は漏れないと判断して。
 ボードレール:己の孤独を賑わせる術を知らぬ者は、せわしい群集の中にあって独りでいる術をも知らない。
 事件解決後のホームズはよくワトスンをコンサートに誘う。満足感を静かに味わうため。
▼司馬遼太郎『空海の風景』1978中公文庫版
 和気清麻呂は自家に図書館「弘文院」をつくり、子孫まで学問技芸の官僚を輩出することを望んだ。
 唐の高宗は強悍であったが風眩(癲癇)であった。
 六朝の漢文は、上表文をふくめ、頭から本心ではない嘘を書くのが名文であった。
 日本の太政官はしばしば左大臣が兼ねた。常にある職ではない。唐には太政官はない。なぜなら皇帝の専制だから。
 この唐制に近づかんとしたのが嵯峨天皇で、蔵人という新職をおいて、それを経由して政治をとりおこなおうとした。結果としてますます唐制と異なる日本制ができた。
 平安時代の綿の単位は「屯」。これは「束」と通用。
 日本で誓いや約束が厳密になるためには、平安貴族の漢文教養がすたれて農民出身の武士の天下になる必要があった。p.185
 じぶんの密教を真言密教と呼ばせたのは空海
 飛白…かすれさせる筆勢。空海が日本に導入し、モダニズムであった。
 三密とは、動作と言葉と思惟
 密教は唐で現世利益の効験 くげん をもって道教と争った。空海はそれを輸入した。
 現象に接してその本質を見抜く行を止観という。自身は透明になる。
 バラモン教のうち性欲崇拝の傾向のつよいものがチベットに入ってラマ教になった。
 以心伝心……仏法の奥旨は文章では伝えられない。
 外できいた話をすぐに受け売りする態度を「道聴塗説」と論語ではいう。
 中国仏教は宗派間の交流は自由だが、日本では最澄が叡山を要塞化してから他宗派とは絶交が普通になった。
 空海は筆を選んだ。行、草、写書(写経)など、用途別に準備していた。狸毛の筆は空海が発明した? 正倉院には、兎毛と羊毛しかなかった。王義之の書風はこれと不可分。 空海から最澄にあてた手紙は3通のみ残る。風信帖といい、東寺にあり。
 嵯峨天皇が宮城の13の門の額の文字を、自分と空海と橘逸勢で書き改めた。だから「三筆」なのであろうと。
 逸勢は政争により伊豆に流され、途中で死んだ。
 朱にするのは硫化水銀。印肉にも使った。
 高野山は空海の個人の私寺で、造営費は一紙半銭も国庫から出なかった。権門家の寄進を集めた。
 唐では「寺」の字には「役所の建物」の意味あり。
 高野聖、高野行人[ぎようにん]は僧以外の教団関係者である。
 荼毘はパーリ語
 六朝風=装飾過剰
 漢文は我流のよみかたが許されていいだろう ※同意。
 金剛界は能動の世界。胎蔵界は変容の世界。
 「魔法」は日本中世末のキリシタン用語。
 空海時代の日本の人口は500万人。
 讃岐は雨すくなく川は細流なので溜池が必要。
 大和政権は、儒教やキリスト教といった抽象理想ではなく、「稲作」を基礎原理とした。その「王化」とは、非稲作民を定住稲作させることに尽きていた。※春秋戦国時代と近いだろう。
 『三教指帰』は戯曲構成で書かれた日本最初の思想小説。リーディングドラマ。
 大学の音博士。中国発音を教えていた。だから空海は上陸と同時に会話できた。
 理趣経はセックス経典だが唐音のため暗号だった。東大寺でも重視していた。
 虚空蔵求聞持法。一定時間内にある真言を百万ぺん唱える。この方法でフォトグラフィックメモリーの才能が開発される。
 密教仏の衣装こそ、当時のインドの最裕福階級の着物。
 孔雀は毒虫を平気で食う。だから解毒力があるのだ、とアーリア人は抽象的連想をたくましくした。サンスクリットはそもそも物事をストレートに表現することと相性が悪いらしい。
 般若経は「ゼロ」に一切が充実しているとみる。
 日枝の山が、平安遷都後に「比叡山」になった。
 山城は、もと、山背と書く。
 日本船は危なく、新羅船は安全であった。
 日本船は無釘であった。
 空海が偉くなってから四国にたくさん寺をつくったのは、入唐前のスポンサーシップに酬いるためだろう。
 アラビア地図で日本は「ワークワーク」だった。倭国。
 唐土では歩行者を卑しむ。
 上巻p.306 西胡は自分たちの民族を「イラニ」とよんでいた。他称は波斯。
 牡丹は唐の長安の流行植物だった。
 世界史上最大の国家的翻訳事業が、唐では仏典について行なわれていた
▼岡崎勝世『世界史とヨーロッパ』2003
 トゥキュディデスは、過去におこったことは、人間性が変わらないために、将来もフタタび起ると。
 こういうのは、農業文明がサイクル発想になじむ結果だという。
 ヘロドトスは、ギリシャの宗教はエジプトから来たものだと。当時、エジプトはペルシャの版図であった。ギリシャの敵、ペルシャを調べることは、三大陸を知ることであった。
 ポリュビオスはローマに連行されたギリシャ人捕虜であった。
 以後、小スキピオに同行し、カルタゴ滅亡を目撃する。
 ポリスは共同体である。共同体は家ではない。自由人が自由人を支配するから。
 中世都市は経済人が市民。古代ポリスは、政治人が市民。これ、ウェーバー。
 アリストテレスいわく、市民の基本任務は支配の術を学ぶことだと。それが政治学だと。
 そうなると古代人が市民に読ませる歴史とはすなわち政治史にしかならない。
 ヘロドトスは聞いておもしろいが、将来の参考書とすることを重視したトゥキディデスは聞いておもしろくない。事実の羅列なので。つまり詩的でない。当時はなんでも音読。 ポリュビオスは「プラグマタ」路線。国家的事件を書くことが実用的なのであると。
 有名権力者の人間性だけで歴史は決定される。こう考えたのが古典的ヒューマニズムの限界。その背景の時代の趨勢までは考えがおよばない。
 アウグスティヌスが歴史学を革命した。彼は人類史は神による人類教育の過程であり、直線的かつ発展的に救済という目的に向かって進むと説いた。
 ローマはキリスト教をうけいれたのに、西ゴートに劫掠された。それはなぜか? 人智で説明できない。これは神の教育なのだとアウグスティヌス。人間を越えた原因があるという歴史学のはじまり。
 ローマ時代にキリスト紀元なし。すぐ終末すると思っていたから。
 アッシリアが亡んだときにローマは生まれた。
 西洋では18世紀末までをアーリー・モダーンという。和訳して「近世」。
 聖書には原本が3種類ある。ヘブライ語のもの。ギリシャ語の「70人訳」。そしてサマリタン版(サマリア人が伝えたもの)。
 ルターはヘブライ版を根本とした。古代カトリックはもちろんギリシャ語訳版。
 ルターも終末が近いと思っていた。
 啓蒙主義は17世紀後半ロックから始まる。仏にわたってモンテスキュー。ドイツに移ってカント。いずれも、科学開花を背景に、宗教的な非合理精神を批判した。
 
 「赤頭巾」と「森の眠り姫」はペロー童話。すなわち仏。
 他はグリム。彼らは反仏&ドイツナショナリズム喚起のためにこれを編んだ。
 コンドルセは、専制君主が誕生した古代に、アジアの進歩は止まったと最初に主張した。それはギリシャ以前のこととする。
 ジェネシスの7日の創造では神はエローヒームと書かれている。ところがアダム創造のくだりではヤハーウェである。
 この「ダブレット」問題を、1753にフランスのアストリュックが解く。すなわち、創世記は、複数の部族が残した文書が合体混合しているのだと。
 現在の西暦は、キリスト教的意味を失った、中世的・数学的年号である。それは過去にも未来にも無限に延長できる、ニュートン的な時間にすぎない。
 キリスト教的ならば、創世記以前は表せないわけである。
 コンドルセはスペインの南米破壊は非難するが、啓蒙された欧州人が世界に植民地をもつのは正しいと考えた。
 モンテスキューの風土論はするどい。非常に寒い場所と非常に暑い場所が接近しているアジアでは、強い国民とヘタレな国民のギャップが甚だしく、力が均衡しない。そこには征服者と被征服者しか生じない。
 ヨーロッパは温帯が広く、強い国が強い国と対峙し、隣国人の勇気は拮抗している。
 マクルーハンより早く、コンドルセが、アルファベットこそ知的革命をなしとげたと書いていた。それはヒエログリフにくらべて知の独占をしにくいものだ。
 ※母音表記記号を発明し、それを子音表記記号と組み合わせたギリシャ人がいちばん偉い。インド人になくてギリシャ人にあったものはそれのみ。その違いがすべてを分けた。
 啓蒙主義はロマン主義の対立概念。
 啓蒙主義は、全人類を平等と考える。個性を許さない。人間=機械ともみる。
 啓蒙主義は、民族を認めない。ロマン主義は民俗重視。
 啓蒙主義は、社会契約説。ロマン主義は、国家有機体説。
 よって政治的ロマン主義は、反革命。保守の理論となる。
 ロマン主義は個性を重視する。よって天才願望でもある。
 ロマン主義は、市民資本主義=啓蒙主義と考え、その資本主義を嫌った。
 プチブルは俗物である。それは資本主義商売の必然結果である。その非人間ぶりから逃れなくてはならない。とすれば芸術だ。だからロマンティストは芸術家の謂いになった。 神ではなく、歴史を根拠と考える歴史学は、ロマン主義が生んだ。
 1890に、世界一の尖塔、ウルム教会堂が完成する。161メートル。これもロマン主義が背景。中世=ゴチックに注目した。
 ギリシャ・ローマの都市は農民=消費者の町。東洋の都市は支配者=消費者グループの駐屯地。
 中世の封建国家の都市において、はじめて、手工業者と商人の生産都市ができた。
 ウェーバーいわく、ギリシャとローマでは大水路土木による灌漑農業は必要ではなかった。だから巨大権力は必要でなく、専制化しなかったと。
 アメリカ原住民の石器をみることで、はじめて「雷石」と欧州でもいわれていた石器が、古代人の製作物であると確信できた。
 フリントのハンドアクスが旧石器だと広く認められたのは1859年。
 1913に死んでいるラボックはアリの目は紫外線を見ていると発見。
 進化論はたった10年で世界を席捲した。
 現代では二足歩行がサルと人を分けるとする。