摘録とコメント(※)

▼青木日出雄『戦略兵器』・他
 1949、仏、原爆開発を決める。
 1954、仏、製造研究の本格化。
 1959-6、ミラージュ4の初飛行。双発マッハ2、3人乗り、搭載4.5トンで初期型原爆×1発吊下OK。バディ給油システムを独自に考えたところで、米が空中給油機を売ることにした。行動半径2500kmでぎりぎりパリからモスクワ往復狙う。この行動半径は1962就役のTu-22より長く、1969就役のFB-111Aよりじゃっかん短いくらい。
 1960-2、初実験。
 1961-4、四度目の実験。実用化の域に。
 1963末、ミラージュ4の引渡し開始(実質64年)。最終的に50機整備し、各60Kt原爆×1発を積ませた。
 1968-8、仏の水爆実験成功。気球に吊るして、太平洋で。
 1971-8、強化原爆150Kt単弾頭の地対地弾道ミサイル×9基をプロパンス・アルプス地方の地下サイロに配備。固体燃料2段式で、射程3000km。強化原爆とは中性子ブースターを増着した原爆。高原であるほど、推力の面で得。
 1972-5、同じく9基を追加配備。
 1980、射程3500kmの後継IRBMを配備開始。弾頭は1Mt。
 1949、米はGLCMマタドールを欧州と台湾に配備。その発達型のメースを西独と沖縄に配備。※沖縄から北京まで2000km。現実的には、日本が巡航ミサイルに初期型原爆積むとしたらサイズはメース級にしないと収まらぬ可能性があるわけ。それを潜水艦搭載にする場合は浮上発射以外になく、とうぜんそれ専用の任務艦として特別に設計するしかない。つまり巡航ミサイルはICBMより早く完成できない。
 米は1954-3に小型の水爆実験に成功するまでICBMアトラスの開発は延期されていた。※アトラスには水爆は大きすぎて積めないとみつもられていた。そしてもし水爆弾頭にできないならば、精度の悪いICBMなど無理して持つ必要はなく、大量報復用のB-52で十分だと思われていた。
 1957-6、トルコに配した米レーダーが、クラスノヤールから極東に5000kmとんだミサイル×8を認む。
 1957-8、ソ連はICBMの開発に成功したと発表。
 1957-10、スプートニク成功。
 ジュピターは射程2500kmで1957試射成功。1959-3にイタリアに30基、10月にトルコに15基を配備。
 ソーは1958-9~1959-3の間に60基をイングランドの東部と北東部に展開。実戦態勢になったのが1958-12以降。
 これらIRBMは液酸+ケロシンを発射前30分かけて注入するもの。アトラスICBMですら注入に8分かかった。
 ※いまだにH-IIをICBMにしろという人がいるのだが、燃料注入やカウントダウンだけで24時間がかりのミサイルなんて使い物になるかっつーの。だいたいあの格好じゃサイロからは射ち出せないし、筒体の強度がギリギリなので組み立てた状態で横に寝かせてトンネルに隠したり列車で移動させることもできない。
 欧IRBMは、ミニットマンとポラリスが戦力化したので撤収された。
 目標破壊力は、爆発力の立方根の二乗に比例する。
 200Ktは1Mtに比べると、0.34:1の目標破壊力となる。
 20Ktと20Mtは、1:10である。ちなみにB-52には24Mt水爆2発、もしくは10Mt水爆×4発を搭載できた。米最大のICBMタイタンは9Mt、ソ連のSS-9は25Mtである。
 1957末、米は8000km飛ぶスナーク部隊を編成。スナークICCMは1959末にはメイン州に13基。1960末には30基。1961-6-25に0基になった。
 ワシントン←→モスクワ間は8000kmで、スナークはこの距離を0.9マッハで天測しながら飛んだ。
 マタドールは射程970kmで、1955秋から西独に。
 メイスは1959-6~1969頃、西独に。これは射程740kmのパーシングIと交代した。※つまり射程は半分以下になった。ソ連との取引か。
 ボーフルは、米国の核との結び付きを強調。「核の拡散と多極性とは区別すべきだ」
 ガロワはもっと単純な核拡散賞讃論。※説明宣伝に難があった。
 J・バーナム=「平和は外交の目的ではない」と最初に言った。
 ケナンはギリシャ援助には賛成だったが、トルコ援助には反対だった。
 朝鮮戦争中に米の最初の核戦略ができた。すなわちホワイトハウス直属の戦略空軍にのみ依存した大量報復。これがWWII直後の「動員戦略」「巻き返し」に代わった。ニュールック。
 1951-10、100機の戦闘機に掩護されたB-29×8機が北鮮上空でMig-15のために全滅させられた。→対ソ全面戦争の自信が崩壊。
 ヨーロッパを放棄するかどうかの論争が起きた。Great Debate.
 オッペンハイマーは早くも1953に、斬新な防禦テクノロジーで核軍拡を止められるという発想をしていた。
 ソ連の最初の水爆は実は水爆ではなかった。原爆を重水素化リチウムの固体で包んだ強化原爆だった。
 これに対して米の湿式は、サイズはデカかったが、本物の「熱核反応」兵器だった。
ソ連がそれに成功したのはやっと1955-11になってからである。
 「核の手詰まり」「相互抑止」は、陸軍の主張として1954~57頃、現れた。
 1957-10ダレスは『フォーリンアフェアーズ』誌で、ペントミック小型戦術核RDFが、大量報復抑止の必要を減らすだろう、と。
 1961~63に西独は米に核使用権を要求して対立、仏に近づく。→1963-1協力条約。
 1960’s、在欧の戦術核はいちじるしく増加した。
 ガーウィン式BMD=サイロの近くで土砂を吹っ飛ばす。→See高榎尭『現代の核兵器』
 CEP150mは絶対精度と呼ばれ、そうなったらどんなに垂直サイロを強化してもムダ。※逆にいうと、CEP150mになるなら、弾頭はKt級で十分。また、これ以後のサイロは山岳中の横穴トンネルとするしかない。
 核爆弾記号のB-は自由落下爆弾、W-はWarhead.
 ナヴスター網は1986完成予定である。
 64k-DRAMのセラミック・パッケージがα線を出し、ICの記憶電荷を失わせる、ソフトフェイル現象が核戦争では起きる。だからガリウム砒素。
 EMPの立ち上がりは雷以上なので、安全器では阻止できない。
 中性子爆弾とはT(トリチウム=三重水素)の割を多くしたもの。これは後から挿入する方式にもできる。
 マクナマラのミシガン州アナーバー演説。「全面戦争についての米国の基本的戦略は、可能な範囲内で過去における通常戦争のそれに似たものにされる。NATOに対する大規模な攻撃によって戦争が起こった場合には、米国は敵の一般住民ではなく軍事力を破壊することになる」。※戦前に米が梃子入れした援支反日の戦略爆撃プロパガンダが自分に跳ね返ってきた。これがベトナムの敗退につながった。経営学の秀才マクナマラは最大の道化を大真面目に演じた。対権力直接アプローチが採用された湾岸戦争以降、居場所がないので、いろいろと繰り言を語り続けている。ケネディのように空軍に殺されなかっただけでも感謝すべし。シナは将来米国から爆撃されにくくするための布石として、また重慶その他を宣伝し出しているわけである。
 1964のポラリスA3は、200Kt弾頭×3が500m間隔で落ちる。
 ソ連がミサイルにコンピュータを載せるようになったのはSS-19から。
 シュレジンジャーはソ連の対米核攻撃は全面的でない、とした。
 カーターの指令(PD)59号では、ソ連のいやがる食糧供給路、蘇支国境のソ連軍および政治軍事指揮センター700ヶ所が核攻撃目標に含まれている。ただし中央指揮管制センターは、初回の攻撃では狙わない。
▼フォーセット“Frontiers”(1921)邦訳
 ※同タイトルで1907にカーゾン卿も本を書いている。
 未開で人跡未踏の森林障害は、河川交通により容易に抜けられる。
 ユーラシア遊牧民は、中欧森林が羊飼育に適さぬため、侵入をあきらめた(p.55)。※羊こそは、「自走する食糧」だった。
 ネパールの独立は、テライ地方の沼沢が保障した。
 ナイル・デルタ沼沢は、後世、却ってエジプトを地中海発展から疎外した。
 フィンランドやポーランドの沼沢は、冬に凍る。→ソ連は冬に攻める。※9月開戦ならぬかりはないというわけだ。ウメーこというネ。
 ヴェニスやオランダを守る沼沢は周年、氷らない(p.58)。※蘭はスケート大国ならずや?
 1914年現在、欧州には河と国境の一致はほとんどなかった。例外が、ダニューブ下流、同支流のサヴァ、プルート。
 メソポタミア、エジプトの支配者は、常に河川上流地域を支配しようとした。それは水の供給を支配できるから。上で灌漑水を消費してしまえば、下では足りなくなる。※シナでは黄河と揚子江の上流を同時に扼した秦が最初の統一王朝を建てた。秦の故地に権力を扶植する現代の軍閥は誰ぞ?
 20世紀前半、シナと朝鮮の国境地帯は無人とされた(p.78)。
 アルメニアは、ローマとペルシャの間の緩衝国であった。
 軍事上、特に一方にのみ有利である境界を、化学的境界、と呼ぶ。
▼飯村穣『続兵術随想』S45
 昔、図書館は有料だったが、占領軍が無料にした。九段の大橋図書館には兵書多い。※これは今の中央区立図書館だが、古本は処分されている。
 陸大図書館には孫子の参考書はあまり無かった。
 帝政ロシアの陸大教官だった将軍による1000ページほどの仏語書『赤軍の戦略=社会戦争』を飯村は和訳しガリにして参本に配布した。
 とうじ、甲谷悦男大尉がモスクワから日本に帰る途上で翻訳した、最新の赤軍野外教令があった。
 NHKの磯村の父は、終戦後、南方から飛んで帰って大菩薩峠で墜死した少将。フランス班付きの参本第二部欧米課(p.95)。
 S16-8、飯村は総力戦研究所で、南方に油をとりにいったらソ連が出てくるとの想定で机上演習を実施。東條陸相は毎日それを見に来ていた。この演習は9月に終了(p.158)。
 日露戦のロシア軍は、「われの有たない気球を上げてわれを驚かせた」(p.202)。※いちおう、持ってたんですけど……。榴霰弾で簡単に撃墜されるのと、旅順あたりだと連日強風で、ほとんど決死隊だった。
 第三軍は急遽翻訳したボーバンの要塞攻撃法に基いて旅順を攻めた(p.202)。
 リデルハートは、史学徒出陣で、ほんのわずか大隊指揮をとっただけだが、生涯「大尉」と自称するのを好んだ。
 まずセイロンとマダガスカルを占領すればインドは浮き上がったろう、と(p.254)。
 米の対ソ援助はウラジオ経由が一番多く、ペルシャ=コーカサス鉄道は戦中建設のものである(p.281)。
 北海ルートでは2回しかコンボイを送っていない(p.303)。
 ナポレオンの後方も河川依拠(p.291)。
▼ブレジンスキ『テクネトロニック・エージ』直井武夫 tr. S47、原 Between Two Ages 1970
 1878に普仏戦を論じたエンゲルスは、もはや兵器のこれ以上の進歩は不可能、と断定した(p.77)。
 G・J・F・マクドナルドは、電磁パルスによって住民の脳の活動を阻害することが十年以内にできると言っている(p.78)。→ソ連のSDI恐怖は実はコレ。
 引用。カトリック組織は、独身主義であるが故に、世俗権威に抵抗できた。内部団結も堅い。
 ※本書は1970’s前半が不毛のイデオロギー時代であったことを教える。このような世相と没交渉的に中学時代までを田舎で過ごせたことは我が生涯の幸運だ。70’s後半から日本の自動車のデザインが劇的に変わり、共産革命は視覚的にあり得なくなった。
 図書のマイクロフィルム化もNASAの技術なのだ。
 引用。「専門外の事柄についてのアインシュタインの発言の陳腐さは、専門内での彼の天才と同様に、まったく驚くべきものである」「彼はパスカルではなかった」(p.315)。。
 スタンレーホフマンを批判(pp.364-5)。
▼松平信輝『騎射』大正写本、国文研蔵
 図によると、0時から9時の45度角以外は射ないことになっている。
▼丸山国雄『日独交渉史話』日本放送出版協会、S16
 普仏戦中、ヨーロッパ諸国間に仏への同情なかった。ナポレオン3世の外交宣伝の失敗による。
 1860=万延元年に初めてドイツ船が江戸湾に。
 独立戦争後で米普関係良好。米公使が斡旋して日独条約締結。
 水戸の彰考館に寛政12年のドイツ兵書写本あり。最古(pp.102-3)。これらは独蘭辞書でまずオランダ語にしてから重訳されたようだ。
 明治4年、大学南校(旧昌平学校)の語学生の割合。英219、仏74、独17人。※これではドイツ流の軍制になどしたくてもできない。
 同年の文部省学制改革で、独のコース定員が125名に増加された。
 これらはもちろん、その外国語による全科授業があるのであり、単なる通訳養成ではない。※通訳養成は私塾でできた。
 陸軍が明治3年の布告で仏式を採っていたとき、和歌山藩だけはプロシア式を採用していた。
 マルクシズムは明治30年以降に入った(p.147)。
 明治20年頃から、教育学における、英米→独シフトがおこった(p.148)。