摘録とコメント(※)

▼馮承釣『支那南洋交通史』S15
 明代からさかんに「南洋」と言われる。これはマレー半島、スマトラ以西を称した。そしてインド洋のことを明の初期から「西洋」と言った。
 ビルマまでの交通は、元代にいたるまで、陸路。
 漢代以前の南洋交通の史料は無い。漢書地理志で初見する。
 後漢書天竺伝が、インドへの道の最古史料。陸路が2系統あった。
 AD1世紀に雲南~ビルマ道がひらかれた。仏教はこの前後に入る。
 康秦の書に「七つの帆を張った大船」とみえる。
 夏秋には西南の貿易風、冬春には東北の貿易風が吹く。
 唐代の海上交通は、それ以前に比較すれば盛ん。
 兵員の輸送にしきりに船を使ったのは元代。
 世祖が史弼らに南洋を攻めさせたとき、沿岸住民2万人を兵とし千隻に分乗させ、糧1年分を積んだ。島につくと、木を伐って小舟をつくり、河陸並行進撃で占領地を増やした。
 鄭和の遠征は貢服を求めるもの。服すれば位と金を与えた。服さざれば攻伐した。※マダガスカルまでシナの領土というわけか。
▼『支那水利史』
 1597の朝鮮出兵で、登州から兵糧を船で送り、軍庫に貯蔵した。
 海塘……海のつつみ。干拓すること。
▼G・チャイルド『歴史のあけぼの』
 欧州の新石器時代の村。濠、木柵、塀で囲んでいた。
 肥沃な三日月地帯と命名したのはアメリカの近東学者のブレステッド。
 最古の駄獣は東アフリカ原産のロバで、前3000にエジプトで家畜化。
 AD1000頃、水車が発明されるまで、帆が唯一の動力。
 シュメルは両河による新しい洪積沼地だったので、大収穫が可能だった。また、そのような泥からは、フリント、木、銅などは得られない。だから輸入の要があった。
 ジグラトには穀物倉、仕事場が付設されていた。神殿は、荷車、舟を装備した。
 メソポタミアの都市革命は、ほぼその発端からたどれる。ナイル河谷のは、それが頂点に達したのち、はじめて研究が可能に。
 かわいた砂によく死体が保存された。そこでエジプトに不死信仰が生ずる(p.126)。※まわりまわって、キリスト教とイスラム教の「死者そっくり蘇り」説となる。モーゼはそんなもの信じたか?
 ゲルゼ期の終わりになると、あきらかにペルシャ湾から来たと思われる帆船が、上エジプトまで到達している。ナイルにはパピルス舟しかなかった。
▼西嶋定生『東アジア史における国家と農民』
 中江丑吉が、殷周時代は「邑土国家」だと。必ず丘に建てられたから。
 宮崎市定いわく、春秋時代は古代ギリシャと変わらない城郭国家の対立時代。個々の都市国家間の敵意は激しい。これが戦国期に領土国家になり、秦漢で大帝国に。日本は青銅器時代がほとんどなく、いきなり鉄器技術が入ったために、氏族制からいきなり単一王朝に飛躍し、都市国家段階は生じなかったのだと。※これが唯物史観ってやつですかい?
 松本光雄いわく、諸侯の住む邑が國、その分邑が都で、國・都に支配された現住民の邑が鄙と呼ばれた。國・都に住む支配層が「人」、鄙に住む農奴が「民」。この人民関係はB.C.7世紀の春秋中期から崩壊した。
 ※奴隷獲得→開墾収益最大となる時期の戦争を前提とすれば、『孫子』の「全うする」が上策となるわけ。
 宇都宮清吉は、國、都、鄙が邑と総称されていたから「邑制国家」だと。
 『管子』度地篇:「内は之を城となし、城外は之を郭となす」。構造物そのものには、「城墻」の語を用いた。
 或(コク)をかこむ城壁だから「國」と書くのである。
 戦国時代は、城内を攻撃して「城郭を堕つ」ことが主戦術であったことが『墨子』から分かる。
 北魏軍主力は鮮卑系族人を中核とする騎兵。太祖・大宗期には「歩騎○万」との表現多く、騎兵が多い軍制だった。後、しだいに歩兵の比率が高くなる。
▼田名網宏『古代の交通』
 朝鮮の東沿岸の海流に乗ると山陰に達する。
 日本人が集団で遠方に渡航し得るようになったのは弥生以降。
 負嚢者。ふくろかつぎ。古代の貢納物は布ぶくろに入れて運搬されたのである。運脚とも書いた。
 日本の地形から、道は地勢に規定されており、古い道は後世まで永く不変であった。
 律令を可能にしたものは、駅馬、伝馬、幹線交通路である。
 七道のうち、京←→大宰府間は「大路」。あとの東海や東山は中路、北陸、南海は小路。
 971年の記から、東海道の交通事情が、水路や橋の整備に伴って容易となった、とみられる。
 シナでは唐代に、水駅がおおいに発達し、河(黄河)・江(揚子江)・余水(その他の川)の三系を通じて全国旅行できるようになった(p.78)。
 大化2=646の改心詔によって、関塞・せきそこ が置かる。
 706頃、駅(陸路)が廃れ出し、山陽では海路に重点が移る。
 軽貨物の貢はできるだけ陸路。コメなど重貨物はできるかぎり海路。※繊維製品は海水をかぶるとやたら重くなり難破のおそれがあった。
 雑物租の陸送が一般に駄載化されるのは、寛平ごろ。
 人が担ぐばあい、一人の輸送力は、コメ2斗、30kgである。駄載は、雑物60kg、コメなら90kg可能。つまりコメ100石なら馬は160疋の勘定。これは天平11年の記録でも変わらない。
 894の太政官符。官米は船でもってこい。
 東山道は、征夷の道。これのおかげで陸奥や出羽を結ぶ道も通じた。
 宝亀11年の陸奥遠征は、歩兵騎兵あわせて数万で、農民を漸次北方に移民させて、補給Baseを漸進させるという長期大作戦。延暦の遠征規模は実に数十万。
 馬子は最低でも1疋に1人必要で、できれば2名が望ましかった。
▼『井上光貞著作集 第5巻』
 598に高句麗は万余騎で遼西を寇し、隋文帝は、水陸30万を以て高句麗を攻めた。
 太宗は皇極3~4年、騎士6万を陸路遼東へ、呉艘500、募兵4万人を、海路平壌にむかわせ、高句麗に攻め入る。
 高宗は660年、水陸10万の兵を百済に出兵。
 663、錦江を下った水軍と陸軍が白村江で合流し、倭船1000艘とにらみあう。しかし百済は救われなかった。
▼毛沢東『軍事六篇』上下巻、浅川謙次 tr.1968
 人類の大多数と中国人の大多数がおこなう戦争は、疑いもなく正義の戦争であり、人類を救い、中国を救うこのうえもなく光栄な事業であり、全世界の歴史を新しい時代にうつらせるかけ橋である。
 戦略的勝利が戦術的勝利によって決定されるという意見はあやまっている。
 戦争指揮の要は、溺れないことだ(pp.29-30)。※だから水泳するってか?
 遊撃主義には陥らない。戦略では持久しても戦役は速決する。撃破戦ではなく、殲滅戦にもちこむ。戦略方向は常に一方向だけにする。
 既に持っている陣地を守るに徹すること=保守。
 長勺、昆陽、官渡、赤壁……など多くの古戦で、弱者は先に一歩をゆずり、あとからうって出て勝ったではないか。
 エチオピアも、一歩もひかない作戦を採るべきではなかったのだ。
 防御のときも、陣地戦には拠らない(p.105)。
 孤立していず、しかも十分堅固な陣地をもっている敵はみな戦いにくい。※ディエンビエンフーは孤立していた。
 毛のいう殲滅とは、全体は相手にしない。一ブランチを圧倒多数でとりかこみ、その囲んだ敵だけはひとりのこらず消滅させ捕獲するという意味。※囲軍は必ず欠く、を脱却。
 平綏、平漢、津浦、同蒲、正太、滬杭の各線路沿いに遊撃が行なわれていた。
 各遊撃軍はかならず無線装備せよ。
 根拠地をとろうとしない遊撃は、海賊主義的農民戦争だ(p.161)。
 抗日遊撃戦争の根拠地は、だいたい、山岳地帯、平原地帯および河川・湖沼・港湾・河又地帯(水網地帯)の3つの型を出ない。
 ベルギーくらいの小国には広大な地区がないので、遊撃戦争の可能性は皆無。
 日本の戦争機構は鈍重で、行動は緩慢で、その効果は知れています(下 p.16)。
 抗戦を堅持しさえすれば、かならず、ふるい日本を新しい日本に変え、ふるい中国を新しい中国にかえるであろう。
 レーニンは、戦争とは政治の継続だと言った(p.71)。
 政治綱領を暗唱して民衆に聞かせても、そんな暗唱はだれも聴きはしない。
 「消滅」とは肉体的にではなく、武装や抵抗力のこと(pp.76-7)。
 速決戦をおこなうには、一般には駐止中の敵を打つべきではなくて、運動中の敵を打つべきである。なぜなら運動中の敵は無準備だから。待ち伏せが有利だ。
 絶対的な優勢は、戦争の終局にしか生じない。
 優勢であるが準備がないならば、真の優勢ではなく、また「主動性」もない(1938年「持久戦について」)。※日本の独断専行よりもはるかにマシな訳語だ。
 運用の「妙」を毛は「弾力性」とよぶ。反語は「盲動」。
 「形勢」には、「敵の形勢」「わが方の形勢」「地勢」などが含まれる。
 後退するだけで前進しないのは逃走主義。前進するだけで後退しないのは、体当たり主義。
 日本軍の捕虜はきわめてすくなかった(p.111)。
 「日本軍の士気は動揺をおこしはじめ……突撃の勇気は中国兵よりもはるかにおとってきている」(pp.111-2)。
 世の中には、猫と猫が仲よしになることはあっても、猫とねずみが仲よしになることはない。
 河北省東部、チャハル省北部の占領は戦略偵察で、それに十数個Dを出したが、だめなので30個Dまでつぎつぎと小出しに増兵した。
 徐州作戦だけが集中の成功例。あとは集中もなく協同もない作戦ばかり。
 南京占領後の停頓は、兵力が限界を下回ったため(p.115)。
 「兵隊狩り」が行なわれていた(p.126)。
 「中国は、戦争の後期には陣地戦をおこない、日本の占領地にたいして陣地攻撃をおこなうことができます」(1936、スノウに拡声させた宣伝)→実現せず。
 「国民党が正面の正規戦をうけもち、共産党が敵後方の遊撃戦をうけもつ」(1938、「戦争と戦略の問題」)。
 1946に、すくなくとも3倍、できれば6倍の兵力で、まず敵軍の1個旅団あるいは連隊を包囲殲滅せよ、と言っている。※Korean Warでやったこと。
▼焦敏之 ed.『(レーニン)戦争論』大橋国太郎 tr.1951、原1940
 「社会民主党は、……戦争は不可避であることを知っている。しかしこの搾取を絶滅するためには、われわれは戦争なしにはすまされない」「人民民兵は、防衛戦においても攻撃戦においても、高度の軍事的任務をはたすことができるのである」(1905発言)
 アメリカのWWⅠ参戦は太平洋併合のための対日戦準備で、日米戦は不可避だと1929に言った?(p.163)。
 「これではまるで、本質は誰が最初に開始したかということにあり、戦争の原因は何か、戦争の目的は何か、戦争をしている階級は何かということにはないかのようである」「わが党はトルストイ学説や平和主義を拒否して、社会主義者はこの戦争においてこれをブルジョアジーに反対し社会主義をめざすプロレタリアートの国内戦に転化するよう努力すべきであると回答した」(1916執筆)
▼G・ゴーラー“The Americans ── A study in National Character”星新蔵 tr.1977、原1948ロンドン
 WWII中、米兵は日本兵より自軍将校を憎んだ。
 J・P・モルガンが小びとを膝にのせられ、写真にとられた。尊敬や畏敬を剥奪するために米人がよくやる手。※訪米した昭和天皇もコレに近い奇襲をくらった。
 ニューイングランド風清教主義倫理を全米に広めたのは女教師。男の教師なんて陸軍幼年学校にしかいなかった。
 米人は死に親しめない。映画や小説では一人が死ねばすぐ代役が登場させられる。※「大草原の小さな家」は子役が成長するとその同じキャラクターの子役がすぐに登場した。『魁!! 男塾』で雷電や伊達が何度でも死んで生き返るのはもっと凄いが。
 ひじょうに幼い時から子供は、注意深く敏感な大人の聞き手を前におしゃべりすることになれる(p.89)。
 米の学校ではヨーロッパ史は実際にはまったく教えられていない。
 アメリカがまだ大戦に参加していなかった時、海外へ若者を派兵することに反対の意見が述べられて、軍事上の勝利を得た後はできるだけ短時間に若者を復員させることに賛成の意見が述べられた主な理由の一つは、そうでもしなければ二度と来ない彼らの青春の日々がつまらぬことに少しずつ浪費されてしまうだろうということであった(p.126)。
 WWII参加国で米軍だけがホモを軍隊からしめだした。
 「アメリカの知識人が集った場合、たがいに自分はまったく正常な人間なのだということを騒騒しく証明し合うので、ばくだいな時間が浪費されてしまう」(p.134)。※ERの第一クールの第一回で、グリーン医師がホモではないことを視聴者にできるだけ素早く説明するために、どのような無理なシーンが挿入されていたか、想い起こすこと。
 われわれ外国人は、アメリカ人がまったく無意識のうちで行う関連性のないいろいろな発言や行為を関連性があるかのように考えようとする。
 米人は政治の種々の面が相関関係にあるとは考えていない。
 この国では、材料のあるなしよりも、製作する物の理想像や計画が重要である。
 「アメリカの道徳観に従えば、自分よりも力の弱い者に襲いかかるのはまちがっているが、もし弱者の方から襲いかかってくるとか、挑発にのって攻撃してくるなら、全力をあげてその弱者の攻撃に立ち向うのは悪いこととはされていない」(p.177)。
 Poor という形容詞は嫌われ、Underprivileged(めぐまれないひと)に置換される。
 パール・バックの『大地』が、経済的にのし上がるシナ人を書いたことが、米の対支親近感をつよめた(p.239)。
 米人は自国政府を「彼等」といい、「我々の」とは言わない(p.241)。
 南部には新移民が少ない。それで父親はずっと「模範」であり続けられた。さらにテキサスはCivil Warで北軍が入らず、戦前がそっくり残った。
▼黄昭堂「台湾の民族と国家」(『アジアの民族と国家』所収)
 いわゆる高砂族はマレー・ポリネシア系人。
 オランダが台湾本島の一部を支配し、大陸から漢族系移民を招来するまでは、台湾本島には漢人はおらず、澎湖諸島に数千人いただけだった。
 しかも、華南からの新移民も、風浪の高い台湾海峡による制約の結果として男性が多く、そのため原住民との雑婚が起こった。17世紀頃。
 オランダ、スペイン、鄭氏王朝、清国(1683-1895、オランダからだと270年)、日本(50年間)、中華民国が次々と支配した。
 政治的移民は、1661の鄭成功軍(反清復明)と、1940’sの蒋介石軍関係者の2回のみ。
▼山路一善『禅の応用──日露海戦秘録』S16
 著者は秋山真之と同期の元海軍中将。
 海軍では「イノシエチーブ」と言っていた(序p.2)。
 公案をいろいろ紹介。まさに唐人の寝言。
 筆者はM34~35に英国駐在。
 日露戦に先立って海底ケーブル(釜山~京間の陸線含む)切断し、艦隊動静の通報を遅らせた(p.70)。
 東郷の参謀に水雷科がいなかったので、対策遅れ、初瀬、八島を失った、と(p.91)。
 海軍重砲を陸に用いるヒントは、ボーア戦中のレヂースミスの包囲を破った英海軍重砲隊の記事。12珊、12斤、および15珊。
 秋山真之は、兄のドイツ流の陸戦書をよく読んだ。それで海軍用語にもドイツ語が混入した。特に、海大教官となったために(pp.126-7)。
 舷々相摩す、は、秋山が流行らせた。この秋山の作文は、日清役の島村参謀の報告に対比すると、まったく冗長であった。
 著者はワシントン条約で予備となった。