摘録とコメント(※)。

▼小磯国昭・武者金吉『航空の現状と将来』S13
 長距離機に弱いエンジンはマッチしない。燃料満載で離昇ができないから。
 関東大震災は150箇所から発火したと仮定すれば、この頃の黄燐焼夷弾は1発5kgくらいなので、将来10トン積みの航空機ができれば1機で東京は丸焼けとなる計算だ(p.40)。※ところで黄燐は毒物なのにこの不発弾は「残置毒ガス」扱いにならない。実害もないためだ。つまり化学剤の長期持続力を分別しないで一括して扱うのは合理的でないのだ。
 武者:「借問す、大和魂を有する者は毒ガスを吸うて斃れざるか、焼夷弾を受けても焼けざるか? ……旅順の攻囲と雖も肉弾のみでは之を陥る事は出来なかったではないか」(p.74)。
▼オットー・レーマン・ルスブェルト『国際軍需工業論』杉田一夫 tr. S10
 独の社会主義者ルーズベルトによる兵器コンツェルン批判の書で、複数国で訳されたと。
 軍需資材の輸出禁止と軍需資材よりの利潤排止を初めて原理化したのは Hugo Grotius(1583-1645)。
 日露戦争中、英の会社は露に対しても武器を供給した。Basil Zaharoffはギリシャ系英人だ。
 仏は石油にアルコールを混ぜている。石油なきヨーロッパ大陸部は無防備である(p.106)。
▼H・J・マッキンダー『デモクラシーの理想と現実』
 ※昔読んだときは感心したが、今メモを見るとほとんど先人のアイディアの「再編集」だ。まあ、それすらロクにできんのが日本人のメモリーだ。
 近代以前の古い時代においては、世界全体がまだ貧困だったために、欲望を捨ててしまうことだけが、一般的に幸福にいたるための唯一の途と考えられていた。
 ビスマルクの1864対デンマーク戦に、バルトと北海を結ぶキール運河開削の意図があった。
 プロイセン人は、ビスマルクを除き、他国民の心を洞察しない。
 ラインラントとバイエルンはカトリック圏。
 フリードリヒ大王の単頭制が1806イエナの敗北と仏によるベルリン占領を結果し、フィヒテは1806~13に独の国家主義・官僚制を促進させる。
 創立されたベルリン大学は、事実上、参謀本部の姉妹校だ。学問の国家手段化だ。
 地図と地理学もベルリン大学で開花したのだ。
 マケドニアによるペロポネソス支配。これがランドパワー勝利の嚆矢だ(p.46)。
 ローマの陸上覇権は、海上パトロールを不要にした。
 北アフリカのローマ領は、沙漠限界に接していたので、間合いが充分とれた。
 英は内陸から攻撃されるおそれのあるペルシャ湾両岸には港湾基地をつくらなかった。駐印陸兵は北西国境に配した。
 1898、マニラで米艦隊に討ち漏らされたスペイン艦隊がドイツ艦隊に頼ろうとしたとき、英艦隊が米側に立って止めさせた。
 紅海には岩礁多く、常に北風あり、航海にはよくない。
 ダーダネルスをランドパワーが制すれば黒海沿岸はランドパワーにとりこまれる(p.123)。※チャーチルがこだわった理由。またスターリンが海軍に予算つけた理由。
 英の対ソ干渉。アルハンゲリスクからドビナ川を溯上、コトラスから鉄道でシベ鉄のヴィヤートカへ。
 プロイセンは北の土地から東へ出た。オーストリア人は、南ドイツから行った人々。
 ボルガ中流にドイツ人大集落あり、そのへんがドイツ語圏の東端(p.149の地図)。
 18~19世紀、ロシア政府は沿バルト・ドイツ系貴族の次・三男を官僚に大量採用。
 1878年は英国の鋼鉄船が大西洋でバラ積み輸送をはじめた頃。輸送革命→国際穀物価格革命。同時期、米大陸でも鉄道建設開始。
 英国の繁栄は、ただ競争者のいない時代に事業をはじめたというだけで、目下のところは企業の採算が成り立っているにすぎぬ。
 人間と称する動物の政治的属性の最初のものは、すなわち飢えである(p.168)。
 マニラで米艦隊を支援したのは南アの市場を守るため。南ア戦争でドイツ海軍の動きを抑えたのはインド市場を守るため。日本を支持してロシアに当たらせたのはシナ市場を得るため。
 ビスマルク後のたったひとりのまともな独宰相は1900~09のフォン・ビューロー。
 イエナで勝ったナポレオンはプロイセン常備軍を42000に制限したが、プロイセンは短期現役の国民軍制を創り出し、爾後世界趨勢に。※米人エマソンはナポレオンを「偉大なビジネスマン」と呼ぶ。
 敗北の思い出は、やがて時とともに消えてゆくものだ。が、何百万という誇り高い人びとの日々の苛立ちはけっしてそういうわけにはいかない(p.187)。
 マッキンダーいわく、18世紀以前の都市間移動の利便が万人に機会の均等を与えていたからヨーロッパはおもしろく発展したのだ。つまり有能な者はそれぞれ牛口となり自己実現できた。※文明も都市も大脳の灰白なのか。リム以外はクローン化する。
 自由放任ではなく、国家は「庭師」でなくばならぬ(p.234)。
 都市や地域や諸国家の個性がなくなり広域が均質化するのは文化の「近親交配」で、文明は衰弱する。※これはシュペングラーからのインスパイア?
 「われわれは戦時中の官僚の横暴な態度を知れば知るほど、彼らがこの国の永久的な主人公になることを望まないだろう」(p.241)。
 ローマの道路網はやっと18世紀になって代替復旧した。
 揚子江、ガンジス、ユーフラテス、ナイルの共通点は、海からの溯航可能性。※ルーマニアとユーゴ国境のダニューブ谷はIRON GATESと呼ばれた。
 辺縁に無数の橋頭堡を持ち、ランドパワーの地上兵力増強努力を強いれば、彼等は艦隊建設に専念できない。※本書がソ連で発禁本だった理由が分かる。
 「その上さらに、復讐心に燃えるドイツの旧世代が若い世代に向かって歴史を歪曲して教える心配がないように、その他もろもろの外科手術を施すことも、また考えられる。しかし……外国人の教師を派遣することは、百害あって一利がない」(1943の稿)。※…って、ロボトミー手術かよ。
 大西洋は“The Midland Ocean”だ。
 インド人やシナ人の生活水準が欧米と均衡すれば自由はやってくる(p.304)。
▼月刊『地理』1987-2月号
 秦→至那→斯那→脂那→支那(仏典漢訳から)。
 北朝鮮は黄海を「朝鮮西海」と呼ぶ。
▼Ferdinand Friedensburg『戦争と地下資源』児玉美雄 tr. S18年
 古代ヨーロッパでは、東アルプスの鉄、北欧の岩塩、スペインの金属鉱が争奪された。
 300年前は宝石と塩、19世紀初頭でも現在利用されるミネラルの大多数は未知だった。
 セメントのように、加工により価値ができるが元来普遍のものは、世界政策の対象にならない。
 ただし水だけは別。イタリーはエチオピアに数千トン分の給水船を出さねばならなかった。また少し前には北欧から氷が輸出されていたものだ。
 1929の世界で、全鉱物生産の価格にして三分の二は燃料であった。また採鉱力の90%は石炭と石油に投じられている。
 ドイツの鉄鉱石には硅酸が多すぎ、輸入が常に必要。仏は良質ボーキサイトで世界支配中。ザールのコークスは粗悪で、ルールのコークスは良質だった。日本炭の悪さは、大陸進出を促した(p.22)。
 コークスつくる際に出るガスは家庭用に普及中。ベンゾールも合成できる。
 石炭→コールタール。タール油はディーゼル燃料になる。副産物のトルオールは火薬に化ける。TNT。
 石炭ピッチ(さいごのカス)はアルミニウム工業に役立つ。※どうして?
 産炭国は米英仏で、世界の四分の三。米だけのシェアは40%なり。ソは1934で世界の8%に達す。※近代化は遅れたが、現代化は早かった。
 米のクラック法はベンジン回収率を上げるもの。
 パイプ輸送は鉄道より安価である(p.38)。
 米、ヴェネズエラ、ソだけで世界の六分の五(約84%)の産油。
 国防経済上の独立のためスウェーデンは機関車を電気化した。※水力豊富なので。
 蒸気タービンは17%の変換効率、ディーゼルのレシプロだと30%、石油の発熱量は石炭の4/3倍だから複合して石油機関は石炭焚きの半分の燃費になる。これは石炭の方が原料として安いにもかかわらず、である。※高速を出さなくても良いならね。
 1929世界全生産額ソは米加に次ぎ3位。日本の2倍以上。
 白金とその仲間、イリジウム、パラジウム、ロデジウム、オスミウムは精錬不要の鉱物で、世界の半分はウラルで出る。
 銀はほとんど他物質の副産物として出るので生産コントロールできず、銀本位制は必ず破綻した(pp.48-9)。
 ドイツはWWⅠ後、マンガンを他の先進国より多く自領に持っていることを発見。※ラインメタルの砲身の秘密……なんてことはない。
 WWⅠ中、銅飢饉の独はアルミを以て代えた。
 マグネシウムはカリ工業廃液から最近とられるようになり、独に豊富。
 前大戦前、現在の1/4だけを数えるに過ぎなかった全世界石油生産の寿命は、数十年と見積もられた。又1920年の新計算に依れば、米国地質学者は全国の石油埋蔵量を約10億tと発表しているが、此の数量は旧式掘削では殆んど16年で尽きる。
 旧ポーランド領ガリシア油田は衰微中である(p.124)。
 1tの鉄は9tの石炭でつくられるので、石炭の輸送問題の方が重視されねばならぬ。輸送費が高すぎるため石炭は自国内で消費されることが多い。
 石油は石炭の平均6倍の価値を有すのみでなく、この輸送が楽なのである。
 米のヘリウムはテキサスのアリロ鉱山から30万t/年出る。費用は水素の10倍。
 独はWWⅠ最後の年に、野2000、重砲400、山砲4300、銃250000、MG1500、砲弾1100万発、火薬類12000t以上製造した。
 連合国側はWWⅠ最後の月に、ベルギー=フランス方面にて50万t消費。
 米人E・C・エッケルは、原料ボイコットによる戦争防止を研究(p.262)。
 この大石油消費の計算から前独司令官ゼークトは、将来戦は少数精鋭でなくばあらずと結論した。
 ドイツ=オーストリーはポのガリシア油田に全面依拠していたが1914秋ロシアにまっさきに占領された。1915夏ロシアは返却に際し全リグ&精油施設を焼き払った。
 1916末、独がルーマニアに入ろうとすると英は技師と軍隊を送ってカルパチア油田を徹底破壊した。いずれも数ヵ月で復旧。
▼正岡猶一『米国膨張論』大3
 著者はM38に小村に随って渡米した。
 昔は鉄道運賃は汽船の3倍だったが、いまもなお2倍以上である。
 排日タカ派海軍少将にローマンというやつがいた。
 日本は日露役で、旅順を距る60哩のイリオト島に貯炭場および修繕所を設けた。
 米西海岸はよい石炭ないので東から運ばねばならない。
 1898露は租借地の遼東半島にダルニー港を開いたが時勢は牛莊を貿易の中心にした。
 日露war後、満州のロシア灯油は米国灯油に駆逐された(p.615)。※海経由の輸出はコスト安。
▼庵崎貞俊『帝国の興亡と石油問題』大9
 序。近時石油問題を論ずるの声漸く高く、既に立法部の議に上り、頗る世の耳目を聳動す。
 国家の存立上石油の重要なる事は既に十余年前より唱えられたる問題。
 WWⅠの結果Subより遅い水上艦は生き残れぬ。BBは25ノット、Cは30ノット以上要する。
 重油1tは石炭の2t以上に相当。容積は石炭の90%で二重底にも貯蔵し得る。
 石炭のように自爆しない。石炭より積み込みは比較にならず楽。
 1919ロイド船名簿によれば重油燃料装置を有する汽船は、米、英、ノルウェー、オランダ、日本の順に多い。
 英駆逐艦スヰフトは一回の重油積載200tで1500~1700浬を航走した。
 米海軍は1867に石油船実験。
 1907以降建造の米駆逐艦×29は石油専焼。
 BBデラウェア、ノースダコタ、フロリダ、ユタ、ワイオミング(1906これに最初に油焼装置)、アーカンソー、テキサス、ニューヨークは、補助燃料として約400tの石油を搭載し全速航走用に当てる。最新BBネヴァダとオクラホマは石油専焼。罐室の長さが減じ、1本の煙突に集中できた。
 英はWWⅠ初めルーマニア、ロシア油に頼っていたがダーダネルス封鎖されてしまい以後米油に頼った。
 WWⅠ中に給油、工作等の特務艦が著増し艦隊は基地を離れた。戦後も米は給油艦を増やし続けている。
 またキーウェスト、グァンタナモ、パールハーバー、サンディエゴ、メーヤーアイランド、ビューゼットサウンド、セントトマス、マニラ、ボルトン、メルビール、ノーフォーク他に貯油タンクあり。
 英に倣い、また対抗するため、英所有貯油場に頼らず周航できるよう各地タンクを増す計画。
 WWⅠで英破壊隊は毒のルーマニア進駐直前、油田を徹底使用不能にした。
 ラングーンに製油所あり。
 「信濃に於ける油田地は下水内郡浅川村と上水内郡富倉村の地域内にあり」(p.124)。※この長野市郊外の浅川上流の油田跡とやらを無職青年時代にホンダN360(軽で四ドア、しかもオートマチック)で探検してみたことがあるのだが、どうしても発見できなかった。誰か「ここが善光寺裏山の油井跡だ」という地点をご存知の方、周辺地形の分かる写真をご投稿くだされば幸いです。
 北樺太に石油の存在を知ったのは1886ロシア人が自噴を発見したとき(p.128)。※だからテディは早く占領せよと勧告し、ロシアはポーツマスであくまで割譲を拒んだのである。そして日本海軍はまったくその価値に気付かず、山縣が提案した占領作戦への協力を渋っている。
 露は北樺太で1904には大油井にヒットしていた(p.130)。
 日本政府は北樺太の石油の重要性に大3(大隈内閣)頃まで気付かず(pp.132-3)。
 大6、海軍省は台湾油田の試掘を日本石油などに委托した。大9の現在、海軍は台湾油田の試掘に最も期待している。
 政友会は燃料問題調査会を有し、大9、政府に建議するところあり。
 平時日本海軍は年23万トンの重油を使用し、戦時八八フリートを動かすとすれば200万tは要る。また陸軍は平時6万バレルの揮発油を使っているが、戦時は340万バレル要るだろう。ところが国内では200万バレルの原油しか出ないのだ。そのうち1割5分が揮発油に精製されている(pp.179-80)。
 現下、日本の給油船はたった5ハイ(最大は『知床』8000トン)にすぎず、2隻が就役直前。他3隻計画あり。
▼国民対米会 ed.『対米国策論集』大13、読売新聞社
 ネルソン「国防の第一線は敵の海岸に在り」。
 米ではいきなり日本海軍がパナマを攻撃するとの想定演習さかん。南米沿岸を北上してくるアプローチを仮定。
 パナマには複数の島上に12インチ、14インチ砲台がある。16インチも計画中。
 今日の一等BBは1万カイリの航続力をもつ。だから戦闘半径は3000くらいだ。よってグァムか比島の根拠地まで出てくる必要がある。
 ハワイからグァムまで10日かかり、ハワイからマニラまで15日かかる。しかし横須賀からならグァムもフィリピンも4日ですむ。
 ワシントン会議でのグァムの「現状」は6インチ砲台少数。但しマニラには14インチ砲以下、相当あった。
 グァムのアプラにはBB4~6隻しか入れない。それで浚渫工事の予定もあった。
 ニブラック提督がグァム根拠地論者である。
 米は1917より太平洋海軍軍港の設備ならびに築城に4億3000万ドル、1917以前の分(パナマ工事含む)も加えると10億ドル以上かけた。しかも計画では更に1億1800万ドルを太平洋沿岸設備につぎこむ。これは大西洋側の2倍以上。その更に三分の一はハワイに投じられる。
 米の四大軍港とはブゼットサウンド(シスコ)、ブレマートン、ニューヨーク、チェサピーク。
 2大前進根拠地は、パナマ運河、ハワイ。
 他に6つの副小根拠地。サンチァゴ、アラスカ、大西洋側4箇所。
 これまでBB用ドックはプゼットサウンドに2つ、パナマにひとつ、ハワイにひとつしかなかった。この脆弱性を克服するためにパールハーハーバーにドック×3造ろうとしている。工場、貯蔵所各種も加え、浚渫も。パール以外のカネオエ、ヒロ港の副港化も考えている。by川島清治郎。
▼N.Golovin『今日の太平洋問題』大12
 版元の大日本文明協会は大隈の手下下僕の集まりか。
 大12-5-1にシンガポール軍港案が英下院を通過した。
 大軍が遠洋渡海した例は、ボーアの英軍とWWⅠの米のみ。
 軍港が軍艦の扶けになるのは500カイリまで。それ以上だと損傷艦は辿りつけない。
 ドライドックは、佐世保2(浮ドック1建造中)、呉2、舞鶴1、横須賀2のみ。
 要港(陸上砲台なく艦隊が自衛しなければならぬ軍港)は、旅順に2、大連、台湾、澎湖、青島に各1あり。
 台湾および澎湖島の防備は既に尽して至らざる所ないから、五国協約の防備制限は戦略上大なる重要味を有しない(pp.181-2)。
 台湾および澎湖島(馬公島?)は駆逐艦とSub用港のみ。
 日本は小笠原、サイパン、ペルー群島アンガー湾の3ヶ所に要港化工事中。2箇所はドイツの手で工事が進められていた。
▼山村喜晴『食糧とエネルギーと軍事』1986
 「総合安全保障」の造語者は野村総研。1977-12のペーパー「国際環境の変化と日本の対応」で。
 このペーバーは、原子力によるエネルギー安保のため、核拡散防止条約にイニシアチヴとれ、と言っていた(p.81)。※佐藤~田中のNPT路線肯定のヨイショ作文か。
 またこのペーパーは、総合安保を、常に有利なものにのりかえてゆく、かけすて保険に見立てた。
 ※自国内陸部に石油の出る国と出ない国との間では対等の相互依存関係は生じ得ない。ヒトラーにはよく分かっていたことだ。
 「日本記者クラブ会報」のS55-5-10~56-4-10のシリーズ「総合安全保障」I~VIIは中味が濃い。
 桃井は、日本人は弘安の役以来陸上で敵兵と戦ったことがないといっている(p.103)。※下関はどうなる。
 通産省鉱山局の1971定義。資源とは、「再生産が不可能な地下資源」。
 経企庁の1982『2000年の日本』の第一章第一節では、危機発生の予知および防止、危機に対する脆弱性の克服、危機管理の三つを載せる。※「危機への便乗」は抜け落ちている。
 野口雄一郎は『世界』’80-1のマトリックスで、武器援助のオプションを外す。
 山村いわく、石油業界の再編成を行い、産油国精製・輸出時代に備えた産業構造にすることが、中期的なエネルギーの安全保障の上で、もっとも急がれることなのだ(pp.158-9)。
 食糧輸入が完全に途絶えた時の予測自給率は82%である。’80年度の農林水産による石油消費は全需要の6.4%だった。
▼A. Ressin著“Une Campagne sur les cotes du Japon”安藤徳器 tr.S5、原1866
 仏はシナにアフリカ歩兵を投入。
 日本の「馬は装蹄していない。遠乗りなどをする場合には藁の靴をはかせて、その紐を蹄の上端に結び付ける」(p.56)。
 生麦の賠償はメキシコのピアストル貨で行なわれた。11万リーブル。
 仏艦は着発弾を発射。
 群衆は好奇心以外に敵意を有せず(p.92)。
 伝統的破壊消防法はまったく効果がない(pp.199-200)。
 伊藤祐亨談:当時の日本の先込め砲は、5~7min毎に1発。
 毛利家老女より土浦老女へあてた書状:「下の関の道へ何か\/鉄砲にてなく魔法にて音なく火を廻し前田と申す村、……焼打に致し申候。」※コングリーヴ焼夷ロケット弾の発射は鹿児島だけでなかったという証言。
 山縣の書:数時間の後には、我が野戦砲の砲身及び車輪等、悉く破損し復た用を為さゞるに至れり。是れは余りに烈しく速射を為したるが故なり。余は陣営の側に屯せる槍隊をして、急進突貫せしめんと欲し命令を下したるも、隊長林半七は已に重傷を負て退き、其他にも傷者頗る多くして遂に行ふを得ず(於・壇之浦~前田)。