摘録とコメント。

▼アルヴァ・ミュルダール『正気への道 I II』
 1955以降、スウェーデンの核武装の是非をめぐり論議が頂点に達す。※これはスイスと同じで隣国西ドイツの核武装→独ソ再戦を考えたもの。西独のNPT加盟によって沙汰止みとなった経緯もスイスと一緒。
 1959、スウェーデンの核兵器製造研究費は削減され、1968正式に政策放棄。
 国連は短年月に慣習法を確立できると考えている。cf.1925にBC兵器を禁じようとしたジュネーブ議定書。
 SIPRIが1975に計算したところでは、米の1901~1930’sの軍事費/GNPは1%だった。WWⅠの期間は除く。
 1970に合衆国での鉄とマンガンの使用量中7.5%が軍用だった。
 LAタイムス1974-3-24によれば、ブラウン米空軍参謀長は、米空軍は全員ベトナム・キャリアだがソ連はWWII以後の実戦経験者がいないので、米空軍はソ連空軍より全面的に強いと語る。
 エンサイクロペディア・ブリタニカの1964版23巻は、WWⅠでは死人の50%は民間人だったと。
 銃砲取締りの厳しいスウェーデンで、軍から盗んだ火器による犯罪が多い(p.21)。
 1973の中東戦争で米はNATOに謀ることなく10-24~25の夜中、在欧核戦力をアラートに置いた。このとき米の対イ輸送に給油用基地を提供したのはポルトガルのみ。
 カナダはOAS・米州機構参加をはっきり断った。
 軍縮会議の準備委員会初期、英セシル卿は、Sub、空母、1万トン以上の水上艦の禁止を提案。この三つは「攻撃兵器」だから、と。
 マキシマリスト=最大限要求主義者。
 1974の仏製手榴弾は1発1.8ドル。
 1973のスウェーデンの兵器政策は、あまり高度でないシステムを多数持つこと。
 1975現在スウェーデン政府は、1工場が防衛生産に20%以上没頭しないように契約を分散している。
 1975-12時点で米の在欧核弾頭は7200個。ソの全戦車は1700台(?)、68000人。by NATO外相理事会。
 1946にアトリー内閣はPu分離工場とU235ガス拡散工場建設へ始動。
 ハーグの戦争法規は「ルールズ・オブ・ウォー」。
 AD600頃サラセンの戦争規定は、井戸への毒物混入や森林破壊を禁止(2巻p.91)。
 ワシントン海軍条約に秘密に違反した日本の手口は、Barnet & Falk編“Security in Disarmament”1965の21頁あたりを見よ。
 P.ノエルベーカー“Science and Disarmament”の214頁によると、1945-5当時世界最高速の航空機は640km/時、爆撃機の最長航続距離は1600kmである。
 1971頃のある学者いわく「原子炉からとりだしたどんな純度のプルトニウムからでも核爆発(最低TNTの3乗倍)を起こせる」。
▼五十嵐武士『対日講話と冷戦』
 1947-4-29統合参謀本部は、次の大戦をイデオロギー戦争と見、日本を「極東で唯一イデオロギー上の敵を封じ込め得る国」と位置づけた。
 極東局長代理のペンフィールドらは対日平和条約案を練り、なかには、アメリカへの占領費の支払いのために、個人消費を制限して輸出振興させる、という措置も入っていた(p.73)。
 1945前後の駐ソ・米国大使館員は、ソ連高官へのアクセス権なく、外交はかれらの頭越しに行なわれた。ケナンの、歴史のみに根拠をおくリポートはこうしてできた。
 海軍省は対ソASWから沿海州打撃への任務変換期にあり、横須賀と付帯エアベースを強く欲した。※このとき三宅島にストリップつくっておけばね…。
 政策企画室(国務省の参本)は、少なくとも一世代の政治安定なくば日本に民主化定着せず、と。
 1947の国務省はソ連の直接対日侵略を想定せず(p.89)。
 グルーやバレンタインら日本通は戦前の議会政治の発展を評価していた。つまり総司令部に反対し、民主化は徹底的でなくても十分、とした。
 陸軍省は財閥解体反対したが、マックは急いだ。
 マックは1948-3、ケナンに、日本人は民主主義とキリスト教をうけいれているので赤化の危険なし、と断じた。また、ソ連軍の直接攻撃を可能性低し、とした(p.103)。
 マックは沖縄主基地論を唱えた。その場合、日本本土とフィリピンには基地は不要で、政治的中立すら許すつもりだった(pp.106-7)。
 芦田外相は、米軍撤退の場合、警察力増を要すと主張。
 1947の日本の占領費負担は予算の1/3、税収の半分。
 1936に米に留学した日本人学生は60人前後(p.144)。
 1949にはじまり、フルブライト計画にひきつがれる、ガリオラ留学生計画は、学生のみか官僚も応募でき、親米高級官僚を大量生産した(pp.144-5)。
 マックは極東ソ連軍は限定されており、対日侵攻能力なしと1948判断。
 ケナンはFBI式日本警察を提案、マックは国家地方警察に固執。
 吉田は英式に没入し、社会党の成長による二大政党制を願った(p.153)。
 ウラル以東に増強なく、また物資供給さえできぬ極東ではソ連軍は日本を攻撃できず、又、日本を目標にしていない。逆に日本本土の基地を怖れている……というのがマックの見解。
 日米外交は次第に秘密化し、日本国内に対してはマジック・ミラー化した(p.164)。
 1949-2-6ロイヤル陸軍長官の東京演説。ソ連がアメリカを攻撃するうえで、日本は戦略上重要とはいえない……。これを英ベヴィンは、米の対亜コミットメントの無さを印象させるとして猛攻撃。
 太平洋のスイスたれ、はマックの言い草(p.183)。
 1950-11-30トルーマンは、原爆と日本人義勇兵の使用を示唆、公言。
 朝鮮戦争時、統合参謀本部は、日本に対するソ連の奇襲攻撃を考えた。現実にはスターリンは北鮮の戦況に参っていた。
 吉田、幣原は英の「外交の継続性」や米の「超党派外交」に倣うことにした(p.212)。
▼ハワード、ケナン、ゲイツケル『ヨーロッパの苦悩』
 1945-4-30チャーチルは米軍にプラハ占領を説くが、マーシャル陸軍参謀総長は「私は単なる政治的な目的のために、アメリカ国民の生命の危険を冒すことを最もきらう」と。詳しくはエルマン著『第二次世界大戦のイギリスの歴史』軍事篇・大戦略・第6巻、161頁を見よ。
 駐留地からソ連が撤兵した例はアゼルバイジャンとオーストリーのみである(p.91)。※満州は?
 ソ連は西欧国境から550マイルdisengagementしたところで、12~18時間あればふたたび通り抜けられる。byディーン・アチソン。
▼Maxwell D. Taylor著“Responsibility and Response”入江通雅 tr.S42
 米の任務は、ベトナムでの解放戦争を「高くつき、危険で、しかも失敗に終わる運命にあることを実証する」ことだ、という。
 著者はアイク1959声明ドミノ理論を信じない。
 ポリビウスはB.C.125に「戦争挑発者を絶滅することが戦争の目的ではなく、彼らに彼らのやり方を改めさせるのが戦争の目的である」と書いた。※ポリビウスの邦訳は未だ出ないのか? サボってるなよ、京大グループ!
 テイラーは、北ベトナム軍は日本やドイツと違い退却の自由選択権があるのだから、空爆は有効だと考える(pp.55-6)。
 ハノイを吹っ飛ばすのに反対。なぜならハノイをしてベトコンを抑制せしめるのが上策だからだと(pp.72-4)。
 一拠点にのみ後退して「飛領土」として確保する案にも反対。なんとなくアメリカ的でないから(pp.74-6)。
 訳者いわく、ニクソンがハイフォン封鎖強化を求めているとき、リーガンは「ベトナム戦争は勝つに値する戦争である」と主張。
▼G.H.Hudson“The Far East in World Politcs”木村不二彦 tr.S15、原1939(二版)
 英人による、18世紀から満州事変までの満州史の概括。
 クリミア戦争のとき「海上の支配権を有しなかったロシアは、海路による極東との交通を断たれ、当時太平洋に於けるロシア船舶並びに海軍力の主なる根拠地であったカムチャッカのペトロパウロフスクは、英仏両国の攻撃に脅やかされた」(p.50)。
▼Paul Reynaud著“Le probleme militaire francais”吉松隆一 tr.S17、原1937
 3月7日事件直後にヒトラー語る。余は決意する度毎に、十中の九まで失敗の可能性があったにも拘らず、成功をかち得ることが出来た!
 レイノーいわく、敗戦の原因として歴史に記録されたる失敗は、技術の領域に於けるよりも、政治の領域に於ける方が、遥かに多かったといえる。
 この頃、英の小麦備蓄はようやく17日分(p.9)。
 スターリンは農民に「スターリン牛」の私有を許した。
 この頃、ソ連は世界第二の産金国。
 1870以前、Frossart将軍は速射兵器が攻撃軍に与えた損害を強調、仏は防御主義一色。
 ソンムとヴェルダンでの仏側攻撃に際しては、重砲の事前射により防御側の方が多く死んだ。レイノー「戦争はあらゆる手段を以て行われる限り攻撃に利があると言わなければならぬ」。
 Jemnapes, Wattignies, Fleurus の会戦の頃、仏人口優勢で、2:1で戦ったものだ。
 前大戦当時、アメリカ軍にはフランス製でない飛行機や大砲は一台もなかった。
 1914、ジョフルのいう総動員をまたずに、ランルザックに従いムーズに防御線をつくらせていたら……とレイノーは惜しむ。
 砲火と要塞の力に関しては、日露戦とバルカン戦に学ぶべきだったのに、重砲をつくらなかった(p.50)。
 スペインでは戦車はATの餌食ではないか、との政府筋に駁して、「戦車は、個々に用いるか、集団的に用いるかによって、その効果が無であるか、絶大であるかが決まるのである」。
 スペインの露戦車はT-26、T-28だが、フィアットLTKに圧勝した。
▼金久保通雄『国境』S15
 今では満ソ、満蒙国境5000kmの何処かに毎日平均1件づゝ国境紛争が惹き起こされてゐる。※じっさいには3700km?
 ウスリー江岸のゲペウ監視哨や、砲艇から写した黒竜江岸のソ連兵舎の写真。
 アムールは濁流だが、ウスリーは青味を帯びて美しい。
 ソ連から塩、石油、マッチ、綿布、菓子が、満州から三江省産阿片やコメ、蜂蜜が密貿易されていた(p.4)。
 ソ連の警備網道路は相当発達している。
 綏芬河駅からウスリー鉄道へ通ずる連絡線は軍機の漏洩を恐れて先年ブリュッヘルが国境閉鎖をして以来一度も列車が通ったことがない(p.15)。
 司令トーチカを中心にトーチカは三線陣をなす。土饅頭形のみ。トーチカ間は2~30mで、5~6条のバーブドワイアで結ぶ。
 一世を震駭したリュシコフ大将の脱出してきたところは長嶺子。
 黒龍江にくらべ、松花絵の水は黄褐色に濁っている。
 サザケヴィッチ水道中州に、水上機施設まである(p.31)。
 アルグン沿岸に旅行者がくると対岸ソ連軍はデモ演習をやってみせる(p.38)。
 ツァガンオーラのソ連戦車演習示威で、数両故障直らなかった(pp.49-50)。
 ボイル湖では漁労可能。
 一昨年いらい外蒙は国境地帯での一般人居住を禁じている。
 パオのフェルトが黒いのは取り替えのできぬ貧乏人を示す。
 ソ連は、一定期、無連絡のスパイからの呼び出しには、もう応じない(p.157)。
 沿海州ブリュッヘル町はユダヤ人地区によりレニンスキーと改称。
 ブリュッヘルは政治の立場悪化していたので張鼓峯で狂戦した(p.161)。
 ブリュッヘル失脚後、極東軍は叛乱できぬよう二分され、中央直属になった。
 リュシコフ大将は洋服で脱出してきた(pp.177~)。
 所持品一覧の中に暗号書は挙げられていない。夫人はユダヤ人で、同時にポーランドへ脱出させる手筈とる。
 ※リュシコフはその後、どうなった?
 自白を強制する拷問に、酸素拷問、セルロイド拷問あり、いずれも高熱を与えるものという。なぜ自白させてから処刑するかについては『1984』みたいな理由が書いてある(pp.188-9)。
 ボイル西方ハルハイト山地の蔭だけ冬季の積雪が浅いので唯一の放牧地となり、越境を誘う。→オラホドガ事件。
▼L・ハート『軍拡下のヨーロッパ』
 戦間期の2年間にタイムズ、NYTなどに寄稿したもののよせあつめ。
 第一章の訳が欠。
 執筆時点で3号戦車の存在は未知。
 クラウゼヴィッツ=ナポレオンの時代は機械化が始まったばかりということを無視して後世の人まで「量」を絶対視した(p.22)。
 旧式ドイツ将校は、大部隊を信条として養成されてきたので、数的増大を渇望していた。
 ドイツ師団の操法は敏速と奇襲の要求をむしろ見捨てている(p.28)。
 既にこの頃からソ連最大の軍需根拠地はウラルにあり(p.31)。
 サクス、シャーマンは、機動性を損なわぬために軍隊には大きさの限界があることを発見した。
 18世紀をピークに仏軍事思想は貧困化の一途。思想としても「服従」が要求されたのが19世紀以降の仏。
 英は1935にルイスLMGをチェコ製ブレンに替えた。国内生産開始。
 1936に第一線の馬車をモリス・トラックに代える。
 ロレンスはルイスMGを駱駝に載せ、一人で操作した。
 「…しかし敵軍を撃破する途は、その陣地を突破する方法以外にもある。それは恰も戦争に勝つ途が、戦闘に勝つという方法以外にもあるのと同様である。」 その方法としては「敵軍がその陣地につくのを妨げるとか、策略によって陣地から誘い出すとか、敵陣地からは防御の効かない部分に圧迫を加えて敵軍の全般的戦局を悪化せしめ陣地を孤立せしめる……」(p.90)。
 「「一定地点に真先に到達した百人の機関銃部隊は、少くとも日中においては、遅れて到着した五百人乃至時としては千人もの部隊よりも強力である」ということが近代戦争の公理である、と私は提唱したい。」(p.91)。
 「急速な前進と敏活な機動とによって、脅威に敏感な敵軍が我を忘れて攻めかけて来るような地点を占拠することができるであろう。そうすれば、此の地点を敵軍に反撃させ、更にこれを逆襲するという手で撃破することが可能となる」。
 ハートはこれを「誘導式攻撃」と名づける。
 霧、または人工的な煙幕は、MG防御力を一時的に落とした非常に重要な要素であった(p.132)。1918の独の数度の成功例→289頁。
 ハートは装甲による夜襲を提案(p.134)。
 1903フォッシュ、1883フォンデァゴルツは共に防御力を馬鹿にしていた。
 1914仏は専らその騎兵に偵察の任務を与えたのであるが、この騎兵の大軍は敵軍の出現を少しも発見できなかった。
 軍人の意見は、一度退役すれば直ちに無視されるようになってしまうのだ(p.210)。
 ブルガリア、トルコ、オーストリア戦線では、MGによる阻止は有効でなかった(p.213)。
 「アメリカの内乱の結果、塹壕に入って防禦する一人の歩兵は、三人乃至四人の攻撃者に匹敵する、という計算が標準となるに至った」(p.231)。
 ジョミニは、ナポ戦中、狭い村の中を除き、白兵戦を決して見なかった、といっている(p.234)。
 ハートは、敵の軍隊と全く非接触的に資源や心理を攻撃する「超ゲリラ戦」なるものを予測(p.243)。※シナ人はじつによく学んでいるね。
 欧州大戦に際してもイペリットによる戦死者は比較的少数であった(p.260)。
 過ぐる欧州大戦においては、イペリットはあらゆる毒ガスのうち最も致死率の少かったものであった。犠牲者の死亡率は4%にも満たなかったのだ(p.275)。
 ※こういう論評を真に受けて、シナ戦線で試してみたのか?