福井晴敏氏、高田純教授との鼎談は極めて有益だった

 ホテルニューオータニの窓から、赤坂御用地方角の夜景を眺めていて、ふと理解した。東京都民は誰も「ぬばたま」と隣りあっては暮らしてはいないのだと。
 夜空のバックグラウンド散乱光が、広い公園にすら、あり過ぎる。これでは市街地内の家屋の庭に、弱い光の照明があろうがなかろうが、大差もない。都会では、薄明かりの有り難味を、ちっとも感じられないのだ。
 それゆえ大都市内居住者には、庭用のソーラーライトの性能上の良し悪しの情報は、ほとんど価値がない。価格と見てくれだけが要り用である。
 かくして、情報不完全マーケットが、この商品の分野に関しては成り立ってしまっているのだろう。
 翌日、わたしは豊洲駅に向かった。なぜよりによって豊洲か? ホームセンターの「Super VIVA HOME」と、東急ハンズを、半日で歩き回れるのはここしかない。
 豊洲はしばらく行かないうちに、えらく発展していた。わたしが都民だった頃には、予約なしの個人見学が不可能だった「ガスの科学館」が、いつのまにか、近隣ファミリーの無料ヒマ潰し施設(がすてなーに)と化しているし……。
 ビバホームでは、安くて低性能なソーラーライトの在庫しか確認できなかった。冬期の高緯度積雪地方で役立ちそうな、高価格帯の高性能製品は、置かれてなかった。ハンズには、ガーデン用ソーラーライトそのものが見当たらない。
 ソーラーライトの商品フルラインナップを手にとれるショップは日本にはないのだろうと、これで確信。
 ところで珍妙な商品をビバホームでみかけた。それは、ソーラーライトには違いないのだが、発光部がLEDではなく、なんと蛍光灯なのだ。これって、ひょっとすると、ものすごく昔のモデルなのではなかろうか。そして、おそらく現品限りで「絶版」になるのではないか。
 価額は投げ売り水準だったが、荷物としてかさばるので、買わなかった。
 また電球コーナーでは、かの絶好調の「オーム電機」が、通常の白熱灯のソケットサイズで、消費電力1ワットのLEDスポット電球を売り出しているのをみかけたゆえ、割高とは感じたが、こちらはつい買ってしまった。
 この「暗さ」は気に入った。が、わたしは敢えてリクエストする。リング蛍光灯の「豆電球(豆球)」のソケットに挿し込めるサイズで、これよりも暗いLED球をつくっていただけないものかと。
 というのも小さい子供のいる家庭では夜中は豆電球をつけっ放しにしているのものだが、その光がけっこうまぶしいと感ずることもあるからだ。きっと需要は大きいはずだ。
 これは余談。
 都市住民にはソーラーライトの性能はどうでも良いことなのだとよく把握できたので、わたしは今後は全国の地方居住者に広く呼びかけ、各メーカーのソーラーライトの実設実用感想を聴取したいと思う。デジタルフォトとともに、新設コーナーに寄稿してくだされば、幸甚である(業者禁止)。
 札幌医科大の高田教授(もともと核物理の人)から序でにうかがったところによると、「核融合発電」は、殺人的な中性子を閉じ込める方法が見つからぬ以上、将来の目は無く、それよりも国は、電気エネルギーを百%自給でき、自動車用の水素燃料も生産できる、プルトニウム原発の実用化に、もっと注力すべきである――とのことだった。フランスがフェニックスをやめてしまっているから、これが完成すれば、日本の独走技術となるはずだと。
 それと、地下鉄の照明に蛍光灯ばかり使っているのは、地上通路から入ってくる核攻撃の爆圧でガラス管がすべて割れてしまうので、よくないというお話だった。ならば、地下鉄会社は、照明の半数をLEDと交換すべきだろう。
 夏場のプラットホーム冷房のための電力も、それでいささかの節約になろう。
 非常灯の光源もLEDとすれば、何日間も電池だけでもたせることができるはずである(現用の非常灯は1時間でバッテリーがあがってしまうので、核戦争時には甚だ頼りにならない)。
 話は変わるが、「極右評論」の瀬戸氏が、例の弁護士議員の以前の対首相テロ発言を擁護しているらしいのは、わたしには容認できない。同弁護士議員は、2005年4月に高木書房から刊行した自著の中でも、橋本派の某幹事長に対して「まさに殺意を催すほどのものであった」(p.120)と書き、また、時の外相が、拉致がテロだとは言わなかったことから、家族の心の中に、絶望と殺意が渦巻いた(p.143)、とも書いている。本人が厳重に校正でき、しかも一般書店に流通した活字出版物に、このような記述が残されていることについて、公人たる著者西村氏は社会的責任を負うのだ。有名現役弁護士議員によるこの記述は〈殺人のそそのかし〉だと受け取られても仕方ない。
 むろん、少なからぬ野党と、一部与党議員からなる反日勢力は、この日本国全体を近隣の専制主義的な外国に売り渡すことを可とし、天皇家を処刑することを望み、あるいはアナーキズムを歓迎する、公然たるテロ勢力である。
 しからばその多数のキチガイどもに、少数の正気の公人はどう対するべきなのか。決まっている。スパイ処罰法を議会に上程すべく運動し、その運動の中で、個々の反日人士を名指しで弾劾するべきなのだ。
 〈だれ某は国家反逆者であり、国会よりも刑務所にいるのがふさわしい。さもなくば日本国籍を捨てて××国に去れ〉と演説するのと、〈だれ某は暗殺されるべきだ〉と口走るのとは、天地の違いがあることを、近代国家の法律家ならば、弁えていなければならない。西洋の知識人は、紀元前になされたキケローの演説を、古代語と自国語の双方で共有知にしているから、こんなことは常識なのだが、日本では、明治中期~昭和前期に、英語ではなくドイツ語の解説文献ばかりを鵜呑みにして、古代語にさかのぼらずしてギリシャ・ローマの古典を一通り吸収した気になるという大錯誤に誰も気付けず、その祟りがいまだに尾を曳いて、国会議員が至って幼稚なままなのだ。(古代の固有名詞を英語風に勝手に変更してしまう「英語帝国主義」が反発されたのは尤もである。)
 小選挙区制のメリットは、あまりにも社会常識を欠いた幼稚な候補者を、ふるい落としてしまうところにある。国政選挙が全国区一本になれば、日本を支配することになるのは、カルト団体である。
 選挙にカネがかかることよりも、投票率が低いことの方が、比較を絶して深刻な日本国の危機である。この解決策として、わたしは、「不在者投票の即日開票」をするように、選挙管理委員会に提案したい。
 つまり、不在者投票の開票結果が、本投票日の何日も前から、数週間にわたって、毎日、公式に速報され、累積され、そして最後に、本投票日を迎えるようにするのだ。
 これによって、有権者が感ずる「自分の一票の価値」は、著増しよう。どの候補に勝ち目があり、どの候補が「列外」なのか、本投票日前に把握できることは、死票をなくす。これは良いことづくめだ。
 早く投票した人は、「流れ」を作り出すことができる。たとえば無名の新人をいきなり注目される「本命」にできるだろう。
 後から投票する人は、「決戦」に参加し、関ヶ原の決勝を左右することになる。
 かくして、すべての投票者が、最初から最後まで「レースに参加した」という実感を抱くことができる。これこそ「国政参加」である。
 従来の制度では、投票に手応えがなさすぎた。特に、応援した候補の得票数が、桁違いに少なかったりすれば、もう次の選挙の投票はどうせ無駄であるから棄権しようと思う。自由な個人の心理として、当然ではないか。
 この結果、反自由主義的なカルト政党だけが、断然に有利になってしまうのだ。カルト政党は、傘下組織構成員の投票行動を組織として厳重に見張らせているから、彼らに「棄権」という行動はあり得ない。
 しかし、不在者投票の即日開票制度が導入されれば、カルト政党の威力は、分相応に低下する。流れを作り出そうとすれば、決戦には参加できない。決戦に備えて構成員に不在者投票を控えさせれば、それはライバル陣営に必ず察知され、却って本投票日に、大量の反対票(阻止票)を呼び招いてしまうからである。
 選挙管理委員会は、現況を座視している場合ではない。それは日本の自殺になるだろう。投票率の少ない国政選挙は、議会を通じた外国からの間接侵略を許してしまう、最短コースなのだから。