ソラ玉(そらだま)のきょうふ

 またソラ玉を買っちまった。こんどはマルチカラー。自動的に色が変化してくれるのだ。
 クリスマスイルミネーションにハマって電気代を月に二十万も払っているという御大尽の家がTVで紹介されたりしているが、この1個千円強のソラ玉を2万円分も並べたら、かなり淫靡なムードが醸し出されるだろう。なにしろ、一晩中、365日ですからね。
 LEDの消費電力は、赤と黄が少なく、緑や青は多いと聞いていた。したがってマルチカラーだと持続力はガックリ落ちるのではないかと危惧したが、夜明けまで点灯している。大したものだ。さすがはオーム電機だ。(同社の握り発電装置付きLED懐中電灯もグッドデザインだった。)
 ところでこのマルチカラーのソーラーボール、以前買った同社のソーラーボールの「黄色」と値段が同じなのに、見ると、発電パネルが別物のようだ(面積は同じなのだが、表面のワイヤー状の筋が密である)。おそらく、消費電力が嵩む分、いくぶん高性能な発電パネルを組み込んでいるのではないかと想像する。てことはお買い得なのか。
 パッケージ中に固定台などが附属していない同社のソラ玉をいかにして長さ数十センチの垂直ポールの端縁上に固定するかのDIY実践は、後ほどリポートしたい。同社のソラ玉の輝度と持続力は、地面にころがしておいたりするのでは、「闇夜のマーカー」としてのポテンシャルが引き出せず、勿体ないからだ。
 さて、さいきんブログで地政学の話をしているところが目につくのだが、大概は1980年代の議論に漸く目覚めた体の、いいオッサンが中二病に似た周回遅れの熱中をしているもので、「日本人のアンタが、洋学の受け売りではなく、どうやってオリジナリティを提示してくれるんだよ?」と詰め寄りたくなる。
 いま売っているはずの『表現者』の寄稿記事の補足をしておこう。
 ふつう、陸上で国境を接する隣国を強くしてやるという選択を、国家は採用しない。ソ連は1950年代に中共の核開発を支援し、途中でこいつはヤバイぞと悟って手を引いたが、1960年代に大いに後悔しているのだ。
 ソ連が、インドやベトナムを梃入れして、シナを挟み撃ちしようとする戦略ならば、合理的である。シナの立場からは、シナからみてソ連の背後に位置するヨーロッパ諸国に強くなってもらえば、好都合だろう。ふつうはそう考える。
 そこでアメリカ政府も、まさかシナ人が、対インドの布石としてであるとはいっても、短いながら接壌する隣国の、それもイスラム大国であるパキスタンに、原爆を持たせるなどというオプションを1980年代に実行するとは、想像しにくかった。
 パキスタンの原爆保有の意味は、〈アメリカ人はシナ人の行動を古い西欧流の地政学によってはほとんど予見できない〉ということだった。が、それを指摘する外国人が誰もいなかったので、こんどは北鮮も核実験してしまった。
 〈シナ人はフツーではない〉という説明をアメリカ人に対してする義務は、日本人が負うていた。ところが日本人はそれをしなかった。否、できなかった。保守派が教育勅語などを賞揚しているあいだは、日本もまたフツーの国ではなく、フツーの考え方ができないのである。フツーの考え方とは、公的な嘘をつくことを恥じることである。公的な約束を破ることを恥じることである。そこからしか「法の下の平等」「法の支配」という近代の考え方は生まれはしない。
 マッカーサー偽憲法は、公的な嘘の塊である。そして教育勅語は、個人や国家の対等を認めないシナ思想である。
 シナ人の古言に「浸潤の譖(そしり)、膚受の愬(うったえ)」を黙過するな、それを明察し、予防し、艾除し、反撃していけ、という教訓がある。
 すこしづつ宣伝され、すこしづつ蓄積されるような悪イメージが、おまえを破滅させるんだよ、というのだ。
 政治とは宣伝であり、宣伝戦には休憩などないんだよと、「聖人」様が教えてくれているのだ。宣伝を休んだ方が負けなのだ。とうぜん、安倍政権には無為無策の責任がある。
 日本はこの逆をやってきた。日本人はシナ人や朝鮮人とはまったく違うのであり、シナ人こそが最も嘘つきでクレイジーなのだという積極的な宣伝をアメリカでいささかも展開せず、逆に、シナ人と日本人は似たようなものではないかと誤解されてもしかたのないような言動を保守派とバカ右翼が反復継続している。瀬戸氏はまたもや〈ユダヤ陰謀論〉を書き込んでいる。つける薬はない。
 するとアメリカ人は日本をどう思うか。ギリシャ的価値観がないという点ではシナ人と差がなく、ユーラシア大陸経営のための戦争能力ではシナにはるかに劣り、将来の市場規模でもシナに劣ると考えるだけだ。
 北京はもちろん、日本人のイメージをシナ人以上に劣悪に見せる宣伝を、世界単位で展開し続ける。そうすることがシナの安全とステイタスの向上につながるからだ。
 「横田めぐみに同情してくれ」という宣伝は、アメリカの大衆にはまったく訴求しない。シナは厚顔無恥な韓国人を手下として「慰安婦」ネタを無尽蔵に繰り出すことで、容易に安倍氏から「拉致カード」の神通力を奪えたのである。「浸潤の譖、膚受の愬」を黙過した迂闊さの責任はまったく安倍内閣じしんにある。
 米国政府高官の間では、北京発の嘘宣伝の真相はほぼ掴まれている。しかし日本政府は、米国の有権者全般をみずから直接にわかりやすく説得し感化しておかないならば、宣伝にも人海戦術を採用するシナとの宣伝戦には別な戦線で必ず負けてしまい、日本の国益は長期的に汚損されるという単純な機序を理解すべきである。
 伊藤貫氏は、アメリカは日本の単独行動を歓迎しないと『表現者』でも断言しているが、この断言は説得的ではない。日清戦争の前も、米英は日本の単独行動を歓迎しなかった(see→『蹇々録』)。しかし、対支戦という行動が起こされてからは、米国大衆は無責任なスポーツ観戦者となったのである。
 「横田めぐみ」が拉致され、まだ生きているという情報をもっているのならば、日本政府は一刻も躊躇せず、単独で北鮮に軍隊を送り、奪回すべきである。米国大衆はそもそも他国間のトラブルに関心は無いが、もし関心を持ったとしたら、とうぜんにそのように考える。そして日本軍に声援を送るであろう。
 この逆に、自国民を拉致されたと騒ぎながら、ほとんど有効な単独行動を起こしていない日本政府と日本の有権者は、アメリカの大衆の目からは、シナ人と同じくらい謎なのである。気概がないのか、人権に価値を見ていないか、どちらかだと疑う。およそ大衆が外国同士の戦争を見る目は、スポーツ観戦と同じであって、ヘタレを応援することは決してない。
 1960年代の前半、もしシナが核武装するなら、日本も安全保障上核武装するのが当然であった。ニクソンはそう考えた。しかし佐藤はヘタレだった。こうなると、シナの対米宣伝が圧倒的に魅力的になる。シナは自国の独立維持のために単独行動できる国だった。気概があった。それは米国大衆の愛する気概でもあった。キッシンジャーはシナと組むことに自己の利益を見出した。「ユダヤの陰謀」とは何の関係もないことだ。