上甲板がない構造の舟で日本海を渡るのは自殺と同義

 海上自衛隊・函館基地隊(主幹は第45掃海隊)の浮遊機雷の処分のピークは1955年であった。朝鮮戦争でウラジオストックを防御するために仕掛けられたソ連製触発機雷の係維索が切れて浮遊化したものの中には、津軽海峡を抜けて、苫小牧まで流れ着いたものすらあったのである。
 1951年5月から1953年3月まで、日本海から太平洋に常に流れている潮流に乗って次々に入ってくるソ連の浮遊機雷を、目視で避けて走る必要から、すべての青函連絡船は、日没から日の出まで、運航が停止されていた。
 (もっと詳しい情報は、隔月刊の『北の発言』のバックナンバーの兵頭記事を見れば、載っているだろう。)
 つまり、ウラジオに近い北鮮の東海岸から何かを漂流させたとき、それが青森に漂着する場合があることは、別段、不思議なことではない。
 もちろん、ボロ船に人間が乗って沖に出て、その人間が生きたまま無事に日本まで辿り着ける確率は、日本海がおだやかになる夏季であっても、ごく低いだろう。そんなマネが確実にできるくらいなら、とっくに何千雙ものタライ船が、日本を目指して脱出してきているはずだ。
 今回の漂着事件は、北鮮軍にまた一つのヒントを与えてしまった。――乾舷高をギリギリに低くした木造ボロ舟の舟底に、海面上からは視認できぬように、航続力の大な低速の小型船外機をとりつけて、青森県または秋田県沖まで、漂流木同然のスピードで到達する。海保ではこれに注意することはとてもできぬ。そして、海の深いところで、特殊船外機は切り離し、海底へ投棄してしまう。かくしてどこから見ても真のボロ舟の姿となって、あとは手漕ぎで、海岸に達着。もし海岸に日本の警察の有力な部隊が待ち構えているようであれば、脱北難民を装う。さもないときは、コマンドー部隊のミッションを継続し、白神山地~八甲田を夜間に縦走して、三沢もしくは六ヶ所村に向かう……。
 漂着鮮人のためにわざわざ裏日本に迎賓館を建ててもてなす必要は無論ない。なかんずく東北地方の良いところは、シナ人や朝鮮人などがうろついていれば、すぐに分かるというローカル性にある。特亜人収容所などを造ったらその地域の長所は失われてしまう。よろしく旧式軍艦の船倉に留置し、そこから韓国政府さしまわしの伝馬船に移乗させるようにはかることだ。
 北鮮にいくらボロ舟があろうと、港や海岸は自国警察と密告隣組によって厳重に監視されており、地元漁民でもない者がおいそれと漕ぎ出せるような環境ではない。それより気になるのは現今の同地における「櫓」の普及度だ。船外機の普及で、櫓漕ぎの技能など廃れてしまっているようであれば、ますます、生きたまま日本まで到着できる確率は微小である。