政策としての核武装

 ※以前に某機関紙に掲載された文章を、一部カットして中立化し、また一部を伏字として週末のパズル等としてお楽しみを戴き度く、ここに再掲する。なお、真の知的娯楽と分析を欲する方は「読書余論」の方でどうぞ。また「放送形式」の意味は、「放送形式」第一回に書いてあります。
――――(以下、記事抜粋)――――
 わが国の××として、日本国の核武装を主張しようとする場合には、その×なりに、世界に対する日本国としての「自己説明」を用意し、天下に明らかにする必要が当然にある。
 北朝鮮の「10・9」核実験は、GDPの小ささに比例して世界経済とのリンクも少ない専制小国が、核武装するのにもう何の口実さえも必要でないという時代を到来させた。これは不可逆的な変化だと思われる。
 しかし、世界に対する責任がGDPに比例して大である経済大国は、小国や後進国や反自由主義政府の真似をして、何の「自己説明」も無しに核武装するわけには行かぬ。日本国民が自由で公平な世界を理想と考えること、そして、その理想のための秩序の実現のために核武装が必要である旨を、堂々と説明できなくてはならぬ。
 核拡散防止条約の第10条には、「各締約国は、……異常な事態が自国の至高の利益を危うくしていると認める場合には、その主権を行使してこの条約から脱退する権利を有する」とあり、その通知において「異常な事態」について記載せねばならないと謳ってある。
 世界最貧国のひとつに分類されながら1980年代からテロ国家と公認されている北朝鮮の核武装は、もう十分に近隣に位置する日本国民の生命の安全にとっての異常事態だから、書式・手続きの上では話は簡単である。
 日本の原発のほとんどは「軽水炉」である。これは70年代に核拡散をおそれたアメリカが世界に普及させた型式で、炉内で天然ウランが変化してできるプルトニウム239を簡単には取り出せないように設計されている。取り出すには原発の運転を止めて炉全体をバラさなければならず、それは人工衛星から確認ができるのだ。プルトニウムは、炉からの取り出しが遅いと、同位体のプルトニウム240が増えてしまい、それを核爆弾にするのは至難である。日本にあるおびただしいプルトニウムのほとんどは、この品質の不純なプルトニウムなのだ。
 しかし「×××」や「××××」や「××」といった高速増殖炉・新型転換炉は、原子炉運転中にもプルトニウム239を取り出すことができる。そこで生産された核爆弾向きのプルトニウムのストックは、日本にはすでに原爆×××発分もある。
 核武装の最大のネックである原料問題は、だから、日本にはない。爆縮式起爆装置は、パキスタンや北朝鮮のような精密機械技術の下地のない国でも完成できた。
 実爆実験は無人島の地下で行なわれる。
 日本が核拡散防止条約を抜けると燃料ウランが買えなくなって原発が止まる――と騒いでいる「×××」がいるが、本末を顛倒した悪質なシナ寄りプロパガンダだろう。同条約からの離脱は、当然にアメリカの黙認が前提である。ウラン購入に支障が生ずることが×××にあっても、原発はそのまま最低×年間は運転でき、ウラン燃料にプルトニウム燃料を混ぜることで、その期間は数倍に増やせる。×年後には名目的「××」も有名無実となる。イスラエル、インド、パキスタンが現在、原子力発電用または研究実験用の燃料ウランの取得に特に困難を感じていないように、米国は日本のウラン取得を妨害しない。アメリカの国債を買い続けている日本の経済活力と日米関係の不可逆的な破壊を望むのはシナだけである。
 マッカーサー偽憲法の支配が続く限り、日本の国会の×××党は決して「戦って自由を守る」政策を打ち出すことはできない。
 米国政府から一目おかれるぐらいに「科学的・軍事合理的」に核武装を語ることだ。
 非科学的国防論は、高い意識を有する有権者の足を、投票場に向かわせる気持ちをそぐ。米国の政治エリート層からの注目も獲得できない。
 兵器解説で知られる××××氏は、地下核実験は活断層を刺激し地震を誘発するから日本では不可能だとNHKや文藝春秋で語っている。2005年にパキスタンとインドの国境で起きた地震を、東京/中日新聞が1998年の両国の地下核実験と強引に関連づけて報道した不可解な記事が論拠ではないかと疑われるのだが、地震学者で承認をする者はまずいない。
 米国政界地図に詳しい×××氏は、日本は潜水艦から発射する巡航ミサイルで核武装すればシナに対する核抑止が完成できる、と繰り返し主張している。××大学教授の××××氏は、日本が××から運用できる長射程の×××××××などを保有すれば、それは米国を攻撃できる可能性がある以上、米国は日本を敵視することとなり、日本の国益は損なわれると反対のようだ。
 こういった「自主規制」が、米国の政治エリート層から尊敬を受けることはない。もし戦略級ミサイルに搭載できるほどに洗練された核弾頭を日本が製造できるのならば、民航機などにそれを匿して遠隔操作で爆発させることは造作もない。これほど人や貨物の交流が日々おびただしい日米二国の間では、どちらかがその気になれば「大量破壊兵器の奇襲」は止められないのである。世界第一と第二の経済スケールを維持する日米両国は、どちらもそのようなテロ政策を考えもせぬという信頼関係の上にある。××氏や××氏は、その信頼関係が将来なくなるかもしれないという事態を想像しているわけで、それこそアメリカ人を不穏な気持ちにさせるだろう。
 NPT幹事国である米国は、核運搬手段である射程1000~3000キロメートル級の巡航ミサイルの技術を、非核国の日本に公然と渡すことは、国際信義上できない。日本のメーカーには、射程3000キロメートルを超えるような巡航ミサイルを開発できる技倆がない。
 北京と日本海との間には朝鮮半島が横たわる。韓国はその領空に入った日本の巡航ミサイルを撃墜するだろうから、わが軍による発射地域はごく限定されてしまい、対策は簡単にとられる。しかも射程3000キロメートルぐらいでは、シナの奥地はすべて核損害の聖域になってしまう。僻地の根拠地に移動するのが得意な中共政権にあらかじめ聖域を保証して成り立つ核抑止などあり得るだろうか。既核武装国の政治家や軍人が聞けば、×××の抑止論でしかない。これでは尊敬はされない。
 日本は、射程6000キロメートルの弾道ミサイルに水爆を搭載し、それを××地方の山岳地帯にトンネル式に配備することで、シナに対する核抑止手段とするのが合理的である。
 日本列島は山がちであり、平坦な可住地に、人口が集まっている。もし敵国から日本の都市に対する核攻撃を受ける場合には、大きな損害を予期しなくてはならぬ。損害を被るのは日本国民であって、アメリカ国民ではない。
 だからこそ、日本に対するシナからの「核の脅迫」は、人口密度の低いスウェーデンや、全国土が長崎市を上まわる山岳地形であるスイスに対するロシアの核の脅迫に比べ、何倍も効くわけだ。
 もし日本人が、核兵器の破壊殺傷力を後ろ盾としたシナ軍人やシナ政治家の言うなりとなると、日本国全体が北京の独裁政権の走狗にされる。具体的には、世界の他の自由主義圏を圧迫するための前衛軍や、貢納者とされるのだ。シナ人とその仲間が唱える「東アジア共同体」とは、日本をシナの奴隷または鉄砲玉に仕立ててアメリカと張り合おう、という計画に他ならない。
 明治維新と「五箇条のご誓文」でアジアに自由主義の未来を示した誇りある日本人が、どうしてシナ人の操り人形になどなる運命を甘受することができよう。
 シナからの脅迫を拒絶し、日本人の自由を守るためには、日本人が、アメリカ政府の口約束などに依頼することなく、自身で核武装することによって「核抑止」を成立させるしかない。NPT幹事国のアメリカは公然と日本に核武装を勧奨し得ない立場であるが、日本人が誠実に決意すれば、対シナの高等政治として、それを認め、密かに支援もする。
 核抑止とは、敵がわが国に対して一発の核弾頭も使用できないように強制する政治のことである。わが国の人口密度が高いからこそ、イスラエルやインドのように、わが国は核武装しなければ危うくなるのだ。
 ××××××は、この「核抑止」を「核戦争で勝利する」ことと混同する反論を、偽憲法を信奉する陣営から聞かされるであろう。それは不思議ではない。マッカーサー偽憲法は「自由を戦って守ることはせぬ」と誓わせた。これを受け入れた一部の日本人は、心から自由を捨てたのである。だから彼らは、抑止の理論など永久に理解はしない。核抑止とは、外国政府のあらゆる脅迫に動揺をせず、こちらも適宜に脅し返すことで、敵に一発の核兵器の発射もさせずに自由を保持していくという決意に基づく、政治家の言葉の戦いなのだから。自由を放棄すると宣言して平気でいる×××の信者たちに、そんな本気の政治外交を想像し得るわけもなかろう。
 マック憲法を否定できぬ××の言葉には、他国人に対する根本の信憑性がない。それではとても核抑止の外交など不可能なのだ。
 日本で核弾頭や核ミサイルを製造するのにも、ハード上の不可能は何もない。あるのは「偽憲法」という、精神の病い、心の支障だけなのである。偽憲法の不道徳性が、戦後の歴代内閣に、ありとあらゆる嘘を公然とつかせてきた。嘘の上に自由はなく、嘘の上には嘘しかありえない。したがって正気の議論が不可能なのが、×××××信者だ。
 偽憲法と自衛軍とは相容れぬものだ。人の道にも、歴史の常識にも背いているのは×××の方である。戦後の政治家は、それを認めるだけの正直さを失っている。
 米国大統領が、日本人のためにシナと核戦争をしてくれるわけなどないのに、×××信者は、その現実を受け容れる理性を持たない。
 彼ら、国民の運命に無関心な狂信の徒と抑止論争をしても、無意味であろう。彼らは、維新の志士たちが持っていた自由を、心から捨ててしまったのだ。
 しかし我々は、彼らなどといっしょにシナ人の奴隷になるつもりは断じてない。我々とともに自由を戦って守る意志を放棄しない有権者は、日本国の中にはまだまだ多いはずである。
 ――――――(記事抜粋おわり)――――――
 以下、つけたりの時評。
 7月なので「盧溝橋なん十なん年記念」と銘打って北京が大宣伝をしかけて来るかと思っていたら、日本の参院選に安倍氏有利のマイナス影響が出てしまうと先読みして、慰安婦ネタ工作に切り換えてきた。
 これに対して日本の総理大臣が、部下を使って対処させようとしていて、ぜんぜん成功していない。アメリカ政府からの根本の支持の約束がある以上、自分は「五カ年計画」だけを考えて、その余事では波風を抑えて邁進すればよいと錯覚しているのであるか。それとも「五ヵ年計画」の邪魔になるから、核武装や靖国や慰安婦の問題ではお前が表に出てくるなとアメリカから釘をさされてきたのか。
 小泉内閣時代に多数の国民が安倍氏に期待をかけたのは、彼が拉致問題で最強硬な有力閣僚と認められたからだ。表に出てきて喧嘩を買っているように見えたからだった。国民は、強力な「護民官」を求めていたのだ。ところが、はじめから成果などありえないと疑われた「6か国協議」にいつまでも丸投げをしていて単独制裁のエスカレートを遠慮している姿、朝鮮総連に破防法を適用できずにせいぜいジャブ1発くらいの痛撃しか与えられぬ姿、これを見て、国民は安倍氏の人となりを知ってしまったのだ。
 宋学以前の本来のシナ儒教では「知」とはギリシャ哲学とは無関係に「使える他者と使えない他者を見分けられる」という意味である。
 今日の日本国内閣総理大臣にとり、朝鮮問題で使える部下は、警察だけ。また、対米宣伝で使える部下は、民間人以外にはない。また、対支&対半島問題に限っては、〈日本の未来を設計するアメリカ人グループ〉は、頼りにならない。この「知」が、安倍氏にはないのではないか。
 とくに外務省は〈パリ不戦条約違反の対米英奇襲開戦を永野/山本/東條と合議して計画し実行にも加担していながら東京裁判でアメリカから海軍省ともども真相開示を猶予された〉〈国交断絶宣言を真珠湾空襲開始前に米国に伝達する気など組織を挙げてサラサラなく、野村大使は、もし伝達が早く行きすぎると思った場合には自分のイニシアチブで確実に攻撃開始後まで手交を遅らせることにつき、大本営との暗黙の了解があった〉という、うしろ暗すぎる過去があるゆえに、第二次大戦に関わる、いかなる史実の弁明活動にも、いまさら乗り出すことなどできはしないのだ。乗り出せば、真相を察知しているシナやロシアや台湾が、外務省の過去のスキャンダルすべてをバラす。
 条約改正がそもそもの組織のレゾンデトルであったのに、日本外務省は、日清戦争いらい一貫して、参謀本部のドイツ流奇襲開戦戦争のための奉仕者となることに、最高幹部レベルで同心し続けた。ハリマンの満鉄経営を児玉に言われて拒絶した背景も、単純にそれだ。だがそれが1929パリ不戦条約批准以降は、自己否定の外道となったのである。条約破りのための外務省になったのだから。近代国家の役所として、死んだのだ。海軍の豊田貞次郎が外相になった時点で、アメリカは日本の出方をむしろ予測し易くなっていた。
 安倍氏には、あと一回だけ、起死回生の演出の自由が残されている。部下に頼らず、じぶん一人で靖国神社に参詣して、シナ、朝鮮、そして米国連邦下院に対し、表に出て喧嘩を売ることだ。