自慰史観

 「イリーガル・イメージ」なんてあり得ない、なぜなら間もなく脳内で思ったイメージを手も使わずにそのまま音声や二次元や三次元にまで変換できる時代が来るが、そのとき思想信条の自由をどう保つのか考えれば分かるだろう――そもそもフォトショップで改竄可能なデジタル写真を裁判の証拠にするためには技術的に乗り越えられるべきポイントが複数ある――という話を書こうと思っていたら……。
 ミドルネームが「ストレンジ」であったことはあまり知られていないマクナマラ元国防長官が長逝(2009-7-6)ですと。
 JFKキャビネットの生き残りは、あとはソレンセンぐらい?
 カリフォルニアの靴屋の倅が、史上最年少のハーバードビズネス大学院助教授となり、妻の難病を治すため、大学研究室をなげうってフォード社の財務部門に高禄を求め、初の一族外社長にのしあがった瞬間にケネディ政権に抜擢された。財務長官ではなく国防長官を選んだ動機は、どうも分からないです。家族が財務省に反対したというのですが……。
 海軍機だったF-4やA-7を、米空軍も使うようになったのは、マクナマラ氏の豪腕でした。しかしおかげで空軍からは警戒された。海軍に縁のあるケネディ政権は、空軍と戦いかねない政権でした。その意味でカーター政権とよく似ていた。わたしはマクナマラがJFKのように暗殺されなかったのはなぜだろうかと、その意味をずっと考えているんです。F-111は、空軍の要求に妥協した結果、海軍からはソッポを向かれた〈マクナマラの作品〉でした。この不本意な結果が、あるいはマクナマラ氏の命を救ったかもしれません。
 (余談ですが、非可変翼で超音速の空母機というF-18が出来るなんて、1960年代のマクナマラ氏には、想像だに不可能だったでしょうね。)
 マクナマラ氏について書いてある、ひとつの英文サイトには、〈F-35もTFX=F111の延長上にあるのだ。その蘇りといっていい。批判点すらまったくデジャブ〉とコメントされていました。これはオマケ。
 マクナマラ氏はWWII中、1943になって大尉で入隊(バークレーのカリフォルニア大学でROTCを済ませていたからです)。最新経営学であるシステム・アナリシスの技能を、マリアナのカーティス・ルメイ司令官のB-29管理のために提供しています。だから日本人とは縁がある。中佐の軍服を脱いだのは1946でした。
 ルメイと互いに知る仲であったことは、マクナマラの長官在任の長期化と関係があるような気がします。(SACイチオシのXB-70バルキリーの廃案は確かにマクナマラの意向でしたが、その前にSA-2という現実を空軍が認めていたので、これは大した確執ではあり得ません。)
 ちなみにルメイの墓はアーリントンにはありません。ケネディとの同居を拒否しているんです。
 日本人でも、自動車に乗っていて正面衝突事故を起こしたことのある人だったら、故人には感謝すべきなのでしょう。彼が1950年代末にフォード社の幹部だったとき、「運転者の胸に刺さらないハンドルのデザイン」と「シートベルト」を普及させてくれたからです。
 〈沖縄の土地は返すけども、シナとの核戦争時にはそこを基地として使うのは当然だろ〉と、訪米した佐藤栄作に念を押したのもマクナマラ長官でしょう。この大事な証人が死んだ。元外務次官はマクナマラの容態を知らされていたのか?
 WWII中の米軍内にはマクナマラのような大学界の「天才小僧」が10人も将校待遇で働いていました(旧日本軍ならば二等兵にされたところ)。また、一流企業のマネジャーたちも将官~佐官待遇で米軍内に迎えられていました(旧日本軍ならやはり二等兵にされちまったところ)。それでマクナマラ氏は戦争中にフォードの幹部に知られるようになって、その引きで、戦後、かんたんにフォード社に就職できたのです。
 大企業の経営に「なんでも数値で説明しろ」という主義(彼流のシステムアナリシスをひらたくいえば、そういうこと)を持ち込んだのは、彼の世代がハシリでしょう。彼以前に、オフィスの壁にグラフを貼る習慣は無し?
 これは一歩まちがえば、簡単にパワポの無意味演出みたいなもんに堕すのですが、その欠点が証明されちまったのは、彼が国防長官に就任してからでした。
 ジョンソン政権以降のベトナムでは狂気のボディ・カウント(死体数くらべ)が始まりました。
 マクナマラ氏は、〈敵の数は限られている。よって、死体の数を数えていけば、終戦に近づく〉と見たのです。それが「統計手法」だというのです。敵を知らないにも程があった。
 それは「共産軍に勝つ」こととは何の関係もないのに、本国庶民の俗耳には、分かりやすい説明となってしまいました。
 ビジネスの世界では「このクルマは絶対に買いたくねえ」と決意している客にそのクルマを売る方法なんてないでしょう。ところが、戦争とは、まさにそれをしなければ勝ったことにならぬ“Art”なのです。
 1967にマクナマラ長官は、ベトナムへの兵員増派の打ち切りと、北爆の停止を、ジョンソン大統領に意見具申します。ジョンソンは不同意で、マクナマラを更迭することを決意しますが、再選を狙う次の大統領選挙運動期間中に元閣僚から批難されるのは御免蒙りたいので、彼を世銀総裁にまつりあげました。(今ならば、空爆ではなく艦砲射撃にきりかえればよかった、という後知恵に、ペンタゴンは到達するかもしれません。)
 マクナマラ長官はまた、対ソ核軍備では、世界をかなり危険にさらした「MIRV」競争をおっ始めてしまいます。
 ソ連もまたMIRV技術を獲得したら、そのあとは、先にICBMを全弾発射(プリエンプティヴ・ストライク)してしまった側が断然に有利になることになって、世界はきょくたんに不安定化するのです。この事態を、「天才小僧」は、予測することができませんでした。というのは、1960年代前半のソ連ICBMは、まだストラップダウン自律制御ではなくて、地上からの電波誘導式でしたので、一斉発射は難しかったのです。
 しかし短期間のうちにソ連の技術も向上し、相互MIRV保有のおかげで、ABMが無意味になってしまいました。(それでもモスクワを防衛しようとし続けたソ連指導部にはある意味敬服する。)
 マクナマラ氏は米国のABMはコストほど効果がないと反対しましたが、他の指導層はその理屈に納得をしません。それで、しぶしぶ、薄い防禦に同意もしています。
 マクナマラ氏は、〈いちばん安上がりなのは、相互確証破壊である〉と人々に信じさせようとしました。
 どこか、おかしいですよね? レーガン大統領は、その至当な疑問を口にしたわけです。
 「その方が当面は安くつく」ことと「国家・国民の長期的な安全」とは必ずしも両立しないという政治学上の好サンプルを、マクナマラ氏はたくさん、残してくれました。
 わたしはそうした事蹟をヒントに「対抗不能性」「対権力直接アプローチ」の着眼を得ました。
 たとえば「北爆」は、ハノイ市を避けるのではなく、まさに逆にハノイ市だけに限定すべきだったのではないでしょうか?
 このような検討に興味のある人は、旧著の『ヤーボー丼』や、「武道通信」から安価にPDFダウンロードできる『日本の防衛力再考』を読んでみてください。(図書館が近い人は、大きな図書館から取り寄せて貰って読むこともできますよ。)
 マクナマラ氏は世銀を辞めた翌年の1982に突如、反戦グループに加わりました。核の第一撃に反対だとか、NATOは核依存を止めよ、と言い出します。世銀の不正融資をネタに某国や某々国から脅迫でもされたんでしょうか?
 1962の長官現役中にマクナマラ氏は、核報復においても「都市回避」すべきだと言い出しています。これなど、ソ連によるヒロシマ宣伝が米国要人に良く効いた例でしょう。シナ宣伝の「南京30万人殺害説」も、米国が他国を核攻撃するときの心理的敷居を高める材料となり得るものです。
 2003の『The Fog of War』は貧乏ヒマ無しのわたしはまだ見てないんですが、かつて仄聞したところでは、その中でマクナマラ氏は、ルメイが原爆投下を事前に知っていたようなことを語っているそうですね。ルメイはもちろんのこと、マッカーサーも、原爆投下計画は、最後の最後の段階になってホワイトハウスの文官から知らされたのです。事実上は蚊帳の外。だからルメイにとってヒロシマもマガサキもトラウマに異ならず、ホワイトハウスから核の権限を奪おうと、それだけを戦後、考え続けたのです。